第47話 雨の銃弾、贖罪
黒層の警報が鳴り響いていた。
赤い光が、黒い床を何度も照らす。 壁の奥で隔壁が落ちる音がした。 天井から伸びた銃座が、次々と啓介たちへ向けられる。
ユリは、もういない。
外部任務搬出口へ消えた。 啓介に罪を刻まれたまま。 啓介を撃つべき対象として、黒層の外へ出された。
「ユリ!」
啓介は閉じた隔壁を殴った。 金属音が黒層に響く。
だが、隔壁はびくともしない。
DARKNESSαは、隔壁の向こうに立っていた。 黒い外殻。 揺らがない瞳。 人間の形をした、完成された命令。
「SP-07移送完了」 「AS-01の追跡行動を阻止する」
啓介の拳に、黒い線が走る。
壊せ。 裂け。 全部、砕け。
黒血が騒ぐ。
だが、啓介は歯を食いしばった。
ここで黒血に呑まれれば、ユリには届かない。 自分の怒りだけが、また誰かを遠ざける。
黒瀬が端末を叩きながら叫んだ。
「正面は無理だ! 黒層の防衛系統が全部閉じた!」
相良が壁の表示を読む。
「B8からの全経路、遮断」 「こっちを閉じ込める気ね」
一真がFANGの爪を展開した。
「だったら、こじ開ける!」
飛び出そうとした一真の前へ、無人兵器が降りてきた。 機械の腕が開き、銃口が並ぶ。
鬼塚が前に出た。
「下がれ!」
重い拳が、無人兵器を壁へ叩きつける。 鉄が潰れる音。 火花が散る。
だが、次の瞬間、床が割れた。
黒い溝が啓介たちの足元を走る。 隔壁がせり上がり、仲間たちの間を切り裂いた。
「啓介!」
一真の声が遠ざかる。
啓介は手を伸ばした。 だが、隔壁が落ち、視界を塞ぐ。
黒瀬の通信も乱れた。
『啓介、聞こえるか!』 『黒層の外部回線が――』
声が途切れる。
「黒瀬!」
返事はない。
相良の声も遠くで聞こえた。
『啓介、今は戻らないで!』 『ユリを――』
通信はそこで切れた。
啓介は奥歯を噛んだ。
また、届かない。
また、引き離される。
その時、鬼塚が啓介の肩を掴んだ。
「こっちだ」
「鬼塚、でも一真たちが――」
「分かってる」
鬼塚は短く言った。
その顔に、いつもの荒い笑みはなかった。
「ここで全員捕まったら終わりだ」 「お前だけでも外に出ろ」
「置いていけるか!」
啓介の声が黒層に響いた。
鬼塚は啓介を睨んだ。
「置いていくんじゃねえ」
啓介の動きが止まる。
鬼塚は続けた。
「戻ってこいって言ってんだ」
その言葉が、胸に刺さった。
置いていく。 置いていかれる。
ユリに刻まれた偽の罪。 啓介の胸に沈んだ、本物の痛み。
鬼塚は背後から迫る無人兵器へ向き直った。
「行け、啓介」 「お前が捕まったら、あの女は本当に戻らねえ」
「鬼塚!」
「うるせえ! 走れ!」
鬼塚の血装が膨れ上がる。 重い外殻が腕を包み、無人兵器の群れをまとめて押し返した。
わずかに開いた保守通路。
啓介はそこへ飛び込むしかなかった。
背後で、鬼塚の拳が鉄を砕く音が聞こえる。 一真の怒号。 黒瀬の途切れた通信。 相良の声。
全部が遠ざかっていく。
啓介は振り返らなかった。
振り返れば、戻ってしまう。 戻れば、ユリに届かない。
だから走った。
また誰かを置いていく痛みを、胸の奥に押し込めながら。
◇
ユリが黒層から消えて、三週間が過ぎた。
啓介は、まだ生きていた。
ただ、それだけだった。
廃線跡の暗い通路。 使われなくなった地下駐車場。 雨水が染み込む高架下。 人のいない倉庫街。
啓介は、TAIDAの追跡をかわしながら逃げ続けていた。
黒瀬の通信は、ほとんど届かない。 一真の行方も分からない。 相良が無事かどうかも分からない。 鬼塚が生きているのかさえ、分からなかった。
それでも、啓介はユリを追った。
ユリの任務信号は、ときどき現れた。 だが、近づくたびに消える。 手を伸ばすたびに、遠ざかる。
三週間。 その間、ユリはTAIDAの任務体として動かされていた。
啓介の名を対象として。 啓介の罪を信じ込まされたまま。
救えなかった。
黒層でも。 その後も。 三週間、追い続けても、まだ届かない。
ユリを壊したのはTAIDAだ。 ユリを利用したのもTAIDAだ。 ユリの記憶を歪めたのもTAIDAだ。
だが、それでも。
救えなかったという痛みだけは、啓介の胸から消えなかった。
夜の高架下。
啓介は壁に背を預け、浅く息を吐いた。 肩に残る傷が疼く。 腕にも脇腹にも、浅くない切り傷がある。
黒血を使えば、追跡部隊を潰すことはできた。 だが、使えば位置を捕捉される。 暴走すれば、自分が何を壊すか分からない。
だから、最低限の血装だけで逃げてきた。
啓介の端末が、かすかに震えた。
ノイズ混じりの通信。
『……啓介……聞こえるか……』
黒瀬の声だった。
啓介は端末を掴む。
「黒瀬!」
『長くは……繋がらない……』 『ユリの任務信号……今夜、動く……』
「場所は」
『都心外縁……第七廃棄区画……』 『啓介……罠だ……』 『だが……SP-07の信号は本物……』
通信が乱れる。
『相良は……生きてる……』 『一真も……たぶん……』 『鬼塚は――』
そこで声が切れた。
「黒瀬!」
返事はなかった。
啓介は端末を握りしめた。
罠。
分かっている。
TAIDAが自分を誘い込んでいる。 ユリを餌にしている。 その先に待っているのは、銃口かもしれない。
それでも、啓介は立ち上がった。
「罠でもいい」
雨の匂いが近づいていた。
「ユリがいるなら」
◇
雨は、容赦なく降っていた。
都心外縁、第七廃棄区画。
かつて物流倉庫が並んでいた場所は、今では半分以上が封鎖されている。 割れたアスファルト。 傾いた街灯。 水たまりに沈む古い標識。
雨が、すべてを叩いていた。
啓介は濡れた路地を進んだ。 足音を消すように、ゆっくりと。 だが、身体は限界に近かった。
呼吸が重い。 視界が少し滲む。 それでも、啓介は止まらなかった。
奥の広い空間へ出た時、足が止まった。
数メートル先。
女が立っていた。
黒い戦闘服。 雨に濡れた髪。 まっすぐに向けられた銃口。
御崎ユリだった。
忘れられるはずがない。 忘れたくても、忘れられるはずがない。
「ユリ」
啓介の声は、雨に濡れて消えかけた。
ユリは答えない。
ただ、銃口だけが啓介を捉えていた。 その手は、わずかに震えている。
啓介は一歩、前へ出た。
ユリの瞳が揺れる。
「来ないで」
その声は冷たかった。 だが、奥に震えがあった。
「俺だ」
啓介は言った。
「啓介だ」
ユリの唇が動いた。
「知ってる」
雨音の中で、その声だけが刺さるように届いた。
「だから、撃たなきゃいけない」
啓介の胸が軋んだ。
ユリの中で、何かが命令を繰り返しているのが分かる。
対象、AS-01。 罪状認識、固定。 接触時、排除。
その声が、ユリの心を縛っている。
「ユリ、聞け」 「お前が信じている事実は――」
ユリの指が引き金にかかった。
啓介は動けた。
完全に避けることもできたかもしれない。 黒血を使えば、銃弾より早く踏み込めたかもしれない。
だが、啓介は動ききらなかった。
逃げたくなかった。
ユリが背負わされた痛みから。 ユリに刻まれた偽の罪から。 救えなかった自分の痛みから。
アスファルトを叩く音に混じって、一発の銃声が夜を裂いた。
啓介の身体が大きく跳ね、次の瞬間、雨に濡れたコンクリートへ倒れ込んだ。
鈍い衝撃。
視界の端で、跳ねた雨水が街灯の光を弾いている。
熱い。
撃たれた場所だけが、焼けるように熱かった。
浅く息を吸うたび、傷口が脈打つ。 雨に打たれた頬が冷たいのに、身体の内側だけがひどく熱かった。
薄れかける意識の中、啓介はゆっくり顔を上げた。
ユリが立っていた。
銃口を向けたまま。
だが、その瞳は揺れていた。
「……これでいい」
掠れた声で、啓介は言った。
ユリの眉がわずかに動く。
「動かないで!」
鋭く放たれた声。 けれどその奥にある震えを、啓介は聞き逃さなかった。
啓介は苦く笑った。 唇の端から血が滲み、雨に混じって落ちる。
「……やっと、これで終われる」
終わるのは、自分ではない。
ユリに背負わされた罪。 TAIDAが作った罪。 その痛みを、自分の身体で止めたかった。
ユリは答えなかった。
ただ、まっすぐに啓介を見ていた。
その目を、啓介は知っている。
夜明け前の薄暗い部屋で、静かに資料を読んでいた目。 任務帰りの啓介の傷を見つけて、何も言わず手当てをしてくれた目。 逃げよう、と小さく言った夜、震えながらも逸らさなかった目。
同じ目だった。
けれど、そこにある意味だけがもう違っていた。
「……何故……」
小さな声だった。
だが、その一言が啓介の胸を深く抉った。
最愛の人が、今、目の前に立っている。 銃口を向けたまま。
濡れた地面に手をつきながら、啓介は痛みに顔を歪めた。
「……お前は……」
言葉にしようとしても、息が続かない。
違う。
そう言いたかった。
けれど、ただ違うと叫ぶだけでは、もう届かない。 TAIDAは、その言葉さえ歪めてきた。
「喋らないで!」
ユリが一歩、距離を詰めた。
黒いブーツが浅い水たまりを踏み、冷たい水が跳ねる。
その表情が、初めてわずかに崩れた。
怒りか。 悲しみか。 あるいは、記憶の底にまだ残っている本当の痛みか。
「今さら、そんな顔をしないで」
雨音の中で、その声だけが妙にはっきり聞こえた。
「私を置いていったのは、あなただったでしょう……」
啓介は目を見開いた。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
「違う……」
やっとのことで絞り出した声は、ひどく弱かった。
ユリの眉が、わずかに揺れた。
だが次の瞬間には、また冷たい顔に戻っていた。
「何が違うの」
「俺は……」
「最後に残ったのは、私だけだった」
その言葉は、刃より深く刺さった。
啓介は何も言えなかった。
置き去りにしたわけではない。 裏切ったわけでもない。 ユリを利用したわけでもない。
それでも。
最後に残ったのは、ユリだった。
その事実だけは、消えなかった。
「……違う」
啓介はもう一度、言った。
雨と血が、唇を濡らす。
「でも……届かなかったのは、俺だ」
ユリの瞳が揺れた。
「何を……」
「お前を置いていったんじゃない」 「でも、救えなかった」
啓介は震える腕で、地面を掴んだ。
「黒層でも」 「その前も」 「今も……」
息が詰まる。
痛みで視界が白くなる。
それでも、啓介はユリから目を逸らさなかった。
「お前が苦しんだ時間を、止められなかった」 「だから……その痛みを俺に向けるなら、受ける」
ユリの銃口が、ほんの少し下がった。
「違う……」
それは、啓介への否定なのか。 自分の記憶への否定なのか。 ユリ自身にも分からないようだった。
啓介は言った。
「お前の罪じゃない」 「撃たせたのは、TAIDAだ」
ユリの目が大きく揺れた。
雨の中で、彼女の呼吸が乱れる。
啓介の声。 黒層で叫んでいた声。 自分の名を呼んだ声。
モニターの声。
『置いていく』
女性職員の声。
『残されたのです』 『彼に』
そして今、目の前の啓介は、撃った自分を責めない。
ユリは頭を押さえた。
「違う……」 「でも……私は……」
遠くで、車のライトが揺れた。
追手か。 回収部隊か。
もう時間は残っていない。
ユリもそれに気づいたのだろう。 銃を握る手に、わずかに力が入る。
撃てる。 この距離なら、確実に終わらせられる。
だが、引き金は引かれなかった。
「……何故」
ユリがもう一度、今度は自分自身に問いかけるように呟いた。
「何故、私は……」
その先は続かなかった。
耳元の制御具が赤く点滅する。 ユリの表情が歪む。
命令が入っている。
SP-07。 任務継続。 対象を排除してください。
ユリは銃を構え直そうとした。
だが、指が動かなかった。
啓介は倒れたまま、手を伸ばした。
「ユリ……」
声は雨に溶けるほど弱かった。
「まだだ……」 「お前だけは……終わらせない……」
ユリの唇が震えた。
そこに、別の車のライトが強く差し込む。
ユリは一歩下がった。
「私は……」
言葉は続かない。
雨の向こうで、黒い車両が止まる。
ユリは最後に、啓介を見た。
撃った相手。 置いていったはずの相手。 自分を責めなかった相手。
その三つが、同じ顔をしているはずがなかった。
ユリは銃を下げた。
次の瞬間、閃光弾が路地を白く染める。
啓介の視界が焼かれた。
音が遠くなる。
ユリの姿が、雨と光の中で滲んでいく。
最後に見えたのは、銃を握ったまま、雨の中で立ち尽くすユリの姿だった。
意識が沈む。
雨音が遠のく。 世界が暗く閉じていく。
その時だった。
重い足音が、雨の中に混じった。
啓介はかすかに目を開ける。
大きな影が、こちらへ近づいていた。
「……相変わらず、面倒な倒れ方しやがる」
その声を、啓介は知っていた。
「鬼……塚……」
鬼塚は、雨の中に立っていた。 外殻の一部は欠け、肩口には深い傷がある。 それでも、その目は死んでいなかった。
鬼塚は啓介の傷を見て、舌打ちした。
「喋るな」 「まだ死ぬ傷じゃねえ」
啓介はかすれた声で言った。
「ユリ……は……」
鬼塚は雨の向こうを見た。
「見えてた」 「あの女、まだ終わってねえ」
啓介の目がわずかに揺れる。
鬼塚は啓介を肩に担ぎ上げた。
「寝てろ」
啓介の意識が落ちていく。
鬼塚の背中越しに、雨に濡れた路地が揺れる。 遠くで、回収部隊のライトが動いている。
鬼塚は闇の方へ歩き出した。
「死なせるために逃がしたんじゃねえ」
雨は、銃声を消さなかった。
ユリが撃った銃弾は、啓介の身体を貫いた。 だが、その銃弾は、ユリの中にも小さな亀裂を残していた。
私を置いていった人。 私を壊した人。 私を責めなかった人。
その三つが、同じ顔をしているはずがなかった。
雨の闇の中、鬼塚は啓介を背負い、追手の光から外れていく。
置いていかれた記憶。 その奥で、まだ消えていない声が揺れていた。
――違う。




