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DARKNESS ―奪われた自由のために―  作者: Ilysiasnorm


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第43話 再生

隔壁の前で、啓介は動けずにいた。


 ユリの姿は、もう見えない。

 白い部屋も、移送台も、震える唇も、閉じた隔壁の向こうに消えた。


 ただ、耳の奥に残っている。


 ……けい、すけ。


 一瞬だけ届いた声。


 だが、その声を思い出すほど、胸の奥には別のものが沈んでいく。


 あと一歩だった。

 隔壁一枚の向こうに、ユリはいた。

 声は届いた。


 それなのに、手は届かなかった。


 右手には、まだ黒い線が残っている。

 黒血は静かではなかった。

 怒りに反応し、後悔に反応し、壊せと胸の奥から囁いてくる。


 啓介は拳を握った。


 壊せばよかったのか。

 あの隔壁を砕けば、ユリを救えていたのか。


 だが、その先にあったのは、ユリを危険に晒すことだった。


 助けるために、壊せなかった。


 その事実が、啓介の胸を締めつけていた。


「立ってろ」


 鬼塚の声がした。


 啓介は振り返らない。


 鬼塚は背後に立ち、低い声で続けた。


「ここで崩れたら、あいつらの思う壺だ」


「分かってる」


「分かってねえ〜」


 啓介は黙った。


一真は少し離れた場所で立ち尽くしていた。

 FANGの血装はすでに解除されている。

 肩で息をし、額には汗が滲んでいた。


 通常血装とはいえ、今の一真の身体には重すぎた。


 相良が端末を操作する。

 その表情が、わずかに変わった。


「まだ完全にはB8へ入っていない」


 啓介が顔を上げる。


「ユリは」


「B8接続区画で処理待ちになっている」

「移送は継続中だけど、まだ追えるわ」


 啓介の目に、わずかに光が戻る。


「なら行く」


「待って」


 相良は啓介を止めた。


「あなたは、届かなかったと思っているかもしれない」

「でも、そうじゃない」


 啓介は相良を見る。


 相良の声は静かだった。


「ユリは、あなたの名前を呼んだ」

「まだ真実は完全に消されていない……」


 啓介は息を止めた。


 ……けい、すけ。


 あの声は、確かに本物だった。


「記憶は消えていない」

 相良は続けた。

「ただ、正しく残っているわけでもない」


 一真が顔を上げる。


「どういう意味だ」


「TAIDAは、記憶そのものを消しているんじゃない」

「本当の記憶を何度も再生させる」

「そこに、偽の映像と、偽の声と、偽の意味を重ねる」


 相良は端末の画面を見つめた。


「記憶は、ただ残っているだけじゃ守れない」

「どう再生されるかで、意味が変わる」


 黒瀬が低く言った。


「今、あいつらはさっきの接触記録を使っているはずだ」


 啓介の表情が硬くなる。


「俺が来た場面をか」


「ああ」

「お前が来た」

「けれど連れていけなかった」

「その事実だけを切り取れば、あいつらにとっては十分な材料になる」


 鬼塚が舌打ちした。


「最低だな」


 黒瀬は短く答える。


「TAIDAだ」


     ◇


 B8接続区画。


 そこは、白い照合準備区画とは違っていた。


 壁は黒い。

 照明は低く、床に沿うように赤い光だけが流れている。

 天井からは、太いケーブルが何本も垂れ下がっていた。


 ユリは移送台に固定されたまま、その部屋へ運び込まれていた。


 首元の測定器が、細い音を立てる。

 手首の拘束具が、微かに震える。


 女性職員が端末を操作した。


「AS-01接触記録、再生」


 モニターが起動する。


 そこに映ったのは、さっきの啓介だった。


 隔壁の向こうで叫んでいる。

 手を伸ばしている。

 何度もユリの名を呼んでいる。


 だが、映像は途中で切られる。


 啓介が止まったところ。

 隔壁の前で、手を下ろしたように見える瞬間。

 ユリが奥へ運ばれていく瞬間。


 そこだけが、何度も再生された。


 ユリは目を開けていた。


「違う……」


 小さく呟く。


 彼は止まったんじゃない。

 止められた。

 壊せなかっただけ。

 私を傷つけないために。


 そう思い出そうとする。


 だが、モニターの音声が重なる。


『置いていく』


 ユリの指先が震える。


 女性職員が言った。


「彼は来ました」

「ですが、あなたを連れ出さなかった。」


「違う……」


「接触記録を再生します」


 映像がまた流れる。


 啓介の声。


『ユリ!』


 その声に、ユリの胸が反応する。


 本当の声。

 自分を呼ぶ声。


 だが、その直後に加工された声が重なる。


『邪魔だ』


 ユリの呼吸が乱れた。


 本当の声と、作られた声が、同じ場所で鳴っている。

 どちらが先だったのか。

 どちらが本当だったのか。


 分からなくなる。


「違う……」

 ユリは目を閉じる。

「あの人は……」


 その先が出ない。


 女性職員は端末に記録した。


「接触記録再生、継続」

「対象認識、再構築中」

「拒絶反応、残存」


     ◇


 B7の隔壁前。


 黒瀬は端末を開き、B8への経路を探していた。


「正面ゲートは閉じた」

「通常認証では開かない」


 鬼塚が拳を握る。


「壊すか」


「壊せばB8全体が隔離される」

「ユリも中に閉じ込められる」


「またそれかよ」


 鬼塚が吐き捨てる。


 黒瀬は画面から目を離さない。


「だから、別の道を探す」


 相良が隣で図面を呼び出す。


「B7からB8へ、旧処理槽を経由する保守ルートがある」

「ただし、今は使われていない」


 一真が苦笑する。


「また“使われていない”か」


 黒瀬が答える。


「信用するな」


 相良は続ける。


「旧処理槽は、CRV-23関連の廃液処理設備に繋がっている」

「現在は封鎖扱い」

「でも、B8の排出系統へ抜けられる可能性がある」


 啓介は即座に言った。


「そこを使う」


 黒瀬は頷く。


「危険だぞ」


「ここまで安全な道があったか」


「ないな」


 鬼塚が少し笑った。


 一真が壁から身体を起こす。

 足元が一瞬ふらついた。


 啓介が見る。


「一真」


「見んな」

「まだ歩ける」


 息は荒い。

 だが、目は死んでいなかった。


 一真は啓介を見た。


「さっき、止めきれなかった」

「俺がもっと早く片づけてれば、お前は間に合ったかもしれねえ」


「違う」


 啓介は即答した。


「お前が止めてくれたから、俺はあそこまで行けた」


 一真は黙った。


 啓介は続ける。


「ユリの声は聞けた」

「まだ消えてないって分かった」

「それは、お前が道を作ったからだ」


 一真は目を逸らした。


「……次は間に合わせる」


「ああ」


 短い言葉だった。

 だが、二人の間にあったものが、少しだけ変わった。


 悔恨は消えない。

 だが、そのまま沈む理由にもならない。


 まだ進める。


     ◇


 旧処理槽へ続く扉は、B7の奥にあった。


 黒瀬が認証を外し、鬼塚が重い扉を押し開ける。


 中から、重い空気が流れ出した。


 湿った臭い。

 薬品の臭い。

 そして、古い血に似た臭い。


 相良がすぐに言った。


「長く吸わないで」

「ここには、まだ反応物が残っている可能性があるわ」


 扉の先には、大型の処理槽が並んでいた。


 どれも使われていない。

 

 赤黒く変色した壁。

 剥がれた警告表示。

 廃棄された検体カプセル。

 床に残る乾いた跡。


 照明はほとんど死んでいる。

 相良の端末の光だけが、足元を照らしていた。


 啓介は一歩入った瞬間、胸を押さえた。


 黒血が反応した。


 右腕に熱が走る。

 血管の内側を、何かが擦るような感覚があった。


 一真も腕を押さえる。


「っ……」


「赤血も反応してる」


 相良が言った。


「残留物に引っ張られているのかもしれない」


 鬼塚が二人を見る。


「ここで寝るなよ」


 一真は苦しげに笑った。


「寝るには趣味が悪すぎる」


「なら歩け」


 鬼塚が前へ出る。


 啓介は息を整えた。

 黒血は暴れようとしている。

 だが、暴れさせない。


 ここを抜けなければ、ユリへ届かない。


     ◇


 旧処理槽の奥に、古い端末があった。


 相良が膝をつき、端末を起動する。


「B8接続系統……生きてる」


 黒瀬が横から覗き込む。


「開けられるか」


「通常端末じゃ無理」

「血液認証がいる」


 相良は一瞬だけ黙った。


 それから、自分の指先を小さく切った。


 血が認証盤に落ちる。


 盤面が赤く光る。

 だが、すぐに拒否された。


 認証不足。


 相良の手首に、細い血の線が浮かびかける。


 黒瀬が気づいた。


「相良」


 相良は首を振る。


「まだ使わない」

「今ここで能力を使えば、B8で持たない」


 啓介は相良を見る。


「相良にも、個体特殊能力があるのか」


「あるわ」

「でも、戦うためのものじゃない」


 相良はもう一度、端末に手を当てた。


「記憶処理に干渉するなら、たぶん私の力が必要になる」

「だから、今は温存する」


 相良は端末を操作し、黒瀬が裏鍵を噛ませる。


 数秒の沈黙。


 やがて、低い音が鳴った。


 B8排出系統。

 保守路、部分開放。


 相良が息を吐く。


「開いた」


     ◇


 B8接続区画。


 ユリの前で、映像は何度も再生されていた。


 啓介が叫ぶ。


『ユリ!』


 その声は、胸の奥に触れる。

 温かくて、痛い。


 次に、作られた声が重なる。


『置いていく』


 ユリは首を振った。


「違う……」


 女性職員が問いかける。


「あなたを置いていった対象は誰ですか」


 ユリは答えない。


 モニターの中で、啓介がまた叫ぶ。


『ユリ!』


 そして、別の声。


『邪魔だ』


 啓介の声が、二つに割れていく。

 自分を呼ぶ声と、自分を切り捨てる声。

 どちらも同じ顔から聞こえてくる。


 ユリの唇が震えた。


「……けい、すけ」


 女性職員の指が止まる。


 すぐに端末へ入力した。


「対象名、発語」

「対象認識、固定化進行」

「再生処理、継続」


 ユリは目を閉じた。


 名前を呼んだ。

 それは、助けを求めるためだったのか。

 それとも、追うべき相手を確かめるためだったのか。


 自分でも、もう分からなかった。


     ◇


 旧処理槽の保守路を抜けると、空気が変わった。


 音が少ない。


 機械音も、警告音も、遠ざかった。

 代わりに、低く深い振動だけが床から伝わってくる。


 相良が端末を見た。


「この先よ」

「B8最深部《黒層》」


 一行の足が止まった。


 そこにあったのは、巨大な黒い扉だった。


 他の隔壁とは違う。

 厚く、重く、光を吸うような黒。

 表面には施設名も階層名もない。


 あるのは、番号だけだった。


 B8。


 血液認証盤。

 神経認証端子。

 複数のロック。

 赤い警告灯。


 その向こうから、低い機械音が聞こえる。


 黒瀬が端末を握り直した。


「ここから先は、記録にも残らない」


 相良が小さく言う。


「ユリはこの中」


 啓介は扉を見つめた。


 黒血が動く。

 右手に熱が戻る。


 だが、抑えた。


「開けろ」


 黒瀬が端末を接続する。


「開ける」

「だが、入ったら戻れない」


 啓介は答えた。


「最初から、そのつもりだ」


 黒瀬が認証を走らせる。

 相良が補助する。

 鬼塚が背後を警戒し、一真が啓介の隣に立つ。


 低い音が響いた。


 黒い扉に、細い線が走る。


 ゆっくりと、開き始める。


 その向こうにあったのは、暗い巨大な空間だった。


 白い研究区画ではない。

 灰色の廊下でもない。


 そこは、TAIDAの最深部だった。


 奥のモニターに、ユリの姿が映っている。


 ユリは目を開けた。


 画面越しに、啓介と視線が合ったように見えた。


 ユリの唇が、かすかに動く。


「……啓介」


 その声は聞こえなかった。


 だが、啓介には分かった。


 記憶は消えていない。


 だが、正しく残っているわけでもない。


 何度も再生され、何度も意味を変えられ、

 それはやがて、本人にとっての真実になる。


 黒い扉の向こうで、ユリが目を開けていた。

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