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DARKNESS ―奪われた自由のために―  作者: Ilysiasnorm


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第42話 悔恨

検体搬送路は、人が歩くための道ではなかった。

 天井は低く、壁は狭い。  左右には古い血液サンプルの識別番号が並び、床には細い搬送レールが奥へ続いている。  赤い非常灯が、等間隔に点滅していた。

 空気は冷たかった。  乾いた消毒液の匂い。  鉄の匂い。  そして、長い時間閉じ込められていた場所特有の重さがあった。

 一真が顔をしかめる。

「人間の通る道じゃねえな」

 相良が端末を見ながら答えた。

「ここでは、人間として扱われていないものが通る道よ」

 誰も言葉を返さなかった。

 啓介は前だけを見て歩いていた。  この先にB7がある。  その先にユリがいる。

 近づいている。  それなのに、胸の奥の焦りは消えなかった。

 むしろ、一歩進むたびに強くなる。

 ユリは今も、啓介を疑うように作り変えられている。  自分で残った記憶を、置いていかれた記憶に変えられている。

 啓介の右手が熱を持つ。

 黒血が動いた。

 一真が横から小さく言う。

「出すなよ」

「分かってる」

「分かってる顔じゃねえ」

 啓介は一真を睨んだ。

「お前に言われなくても抑えてる」

「ならいい」

 一真はそれ以上言わなかった。

 だが、啓介の横を離れなかった。

     ◇

 B7、照合準備区画。

 ユリは移送用の椅子に固定されていた。

 両手首には拘束具。  足元には固定具。  首元には測定器が装着されている。

 白い服の上からも、身体が小さく震えているのが分かった。

 女性職員が端末を見ながら淡々と言った。

「SP-07、移送準備完了」 「対象認識、固定化未完」 「ただし、対外任務適合は移行可能域」

 別の職員が確認する。

「B8最深部《黒層》へ移送します」

 ユリは薄く目を開けた。

 B8。  その言葉の意味は分からない。  けれど、そこへ行ってはいけないことだけは、身体の奥が知っていた。

 思い出さなければならない。

 啓介の声。  自分を呼ぶ声。  黒血に苦しみながらも、自分を見ていた目。

 ユリはかすかに唇を動かした。

「……違う」

 何が違うのか。  誰に向けて言ったのか。  自分でも、はっきりとは分からなかった。

 だが、その言葉だけは残っていた。

 違う。

 私は、置いていかれていない。  私は、自分で残った。

 そう思い出そうとした瞬間、モニターに啓介の背中が映った。

『邪魔だ』

 加工された声が、白い部屋に落ちた。

 ユリの目が揺れる。

     ◇

 搬送路の先で、黒瀬が足を止めた。

 相良の端末にも警告が走る。

「待ち伏せだ」

 黒瀬が低く言った。

 前方の隔壁が開く。

 そこに立っていたのは、TAIDAの作戦員たちだった。  黒い装備。  顔を隠すバイザー。  腕には拘束用の武装。

 先頭の作戦員が機械的な声で告げる。

「AS-01、反逆対象」 「AS-02、同調対象」 「死亡記録対象三名を確認」 「全対象、確保または処分」

 啓介が前へ出ようとした。

 黒瀬が腕で制する。

「ここで暴れればB7全体が完全警戒に入る」

「邪魔だ」

 啓介の声が低くなる。

 その言葉に、一真が反応した。

 あの映像の中で使われた言葉。  ユリを壊すために使われている言葉。

 一真は啓介の前に出た。

「お前は行け」

 啓介が一真を見る。

「一真」

「今度は俺が止める」

 一真の声には、迷いがなかった。

 自分は啓介を止めるために戦った。  偽りの映像を信じかけて。  TAIDAに使われて。

 だが、今は違う。

 啓介を止めるためではない。  啓介を進ませるために、敵を止める。

 一真は息を吐いた。

「血装展開」

 赤黒い筋が、一真の腕から胸へ走る。  次の瞬間、FANGの外殻が身体を覆った。

 赤血ではない。  暴走の力ではない。

 通常の血装。

 肩から腕にかけて鋭い外殻が広がり、拳の周囲に獣の爪のような形が浮かぶ。

 一真は一歩前に出た。

「行け、啓介」 「ユリを救え」

 啓介は一瞬だけ動きを止めた。

 そして頷いた。

「頼む」

「ああ」

 作戦員たちが一斉に動く。

 一真が前へ踏み込んだ。  FANGの拳が拘束具を弾き飛ばす。  鬼塚が背後から迫る保安機械を受け止める。  黒瀬は搬送路のロックを開くため端末を繋ぐ。  相良が移送経路を追う。

「ユリはこの先!」  相良が叫ぶ。 「でも、B8行きの搬送台が動き始めてる!」

 啓介は走った。

     ◇

 通路は狭かった。

 身体が壁にぶつかる。  傷が痛む。  足元のレールに靴が取られそうになる。

 それでも、啓介は走った。

 ユリの名だけが、胸の奥で響いていた。

「ユリ……!」

 前方に光が見えた。

 ガラスの隔壁。  その向こう側に、白い部屋がある。

 啓介は足を止めた。

 そこに、ユリがいた。

 移送用の椅子に固定されている。  白い服。  首元の測定器。  手首の拘束具。

 顔色は悪い。  目は虚ろだった。

 だが、生きている。

「ユリ!」

 啓介は隔壁に手をついた。

「ユリ! 俺だ!」

 ユリの瞳が、わずかに動いた。

 啓介の声が、白い部屋に届く。

 ユリの唇が震えた。

 その声は、ひどく小さかった。

「……けい、すけ」

 啓介の胸が詰まる。

 届いた。

 一瞬だけ。  本当に一瞬だけ。  ユリの中に残っている本当の記憶に、声が触れた。

「そうだ」 「俺だ」 「ユリ、俺は――」

 その先の言葉は、遮られた。

 白い部屋のモニターが一斉に起動する。

 啓介の背中。  啓介の声。  作られた映像。  作られた言葉。

『邪魔だ』

 ユリの目が揺れる。

「違う!」

 啓介は叫んだ。

「ユリ、違う!」 「俺はお前を置いていってない!」

 女性職員の声が、白い部屋に響いた。

「確認してください」 「AS-01は、またあなたを残して止まっています」

「違う!」

 啓介は隔壁を叩く。

 硬い音が響く。

「隔壁を開けろ!」

 黒い線が、右手に浮かぶ。

 壊せる。  黒血を使えば、この隔壁を壊せる。

 啓介は拳を引いた。

 その瞬間、相良の声が通信に割り込んだ。

「駄目!」

 啓介の拳が止まる。

「処理が移送台と連動してる!」 「強制破壊すれば、ユリの神経に負荷がかかる!」 「最悪、記憶領域が焼けるわ!」

 黒瀬の声も続く。

「今壊せば、搬送台ごとB8へ落とされる!」

 啓介は動けなかった。

 隔壁の向こうで、ユリが見ている。

 啓介が来た。  声も届いた。  けれど、また手が届かない。

 ユリの目に、痛みが浮かぶ。

「……どうして」

 声は小さかった。  啓介には聞こえなかった。

 だが、ユリの唇がそう動いたことだけは見えた。

「違う」  啓介は言った。 「違うんだ、ユリ」

 白い部屋のモニターに、また映像が流れる。

『置いていく』

 ユリの瞳が揺れる。

 移送台が動き始めた。

「ユリ!」

 啓介は隔壁に両手をついた。

「ユリ!」

 ユリは啓介を見た。

 一瞬だけ、本当のユリの目だった。  けれど、その奥に、疑いと痛みが混じり始めていた。

 移送台は、奥の扉へ向かっていく。

 啓介は走ろうとした。  だが、隔壁が横から閉じていく。

 白い部屋が、少しずつ見えなくなる。

「ユリ!」

 最後に見えたのは、ユリの震える唇だった。

 声は聞こえない。

 けれど、啓介には、何を言ったのか分かった気がした。

 どうして。

 隔壁が閉じた。

 啓介の目の前から、ユリの姿が消えた。

     ◇

 一真が戻ってきた時、啓介は隔壁の前に立ち尽くしていた。

 FANGの外殻には傷が入っている。  肩で息をしていた。  通常血装とはいえ、今の身体には重い負担だった。

 鬼塚も戻ってくる。  黒瀬と相良も、遅れて到着した。

 一真が啓介の横に立つ。

「見えたのか」

 啓介はしばらく答えなかった。

 やがて、低く言った。

「届かなかった」

 一真は何も言えなかった。

 啓介の右手に黒い線が浮かぶ。  今にも広がりそうだった。

 だが、啓介は拳を握った。

 ユリの声を思い出す。

 ……けい、すけ。

 一瞬だけでも、確かに呼んだ。  まだ消えていない。  まだ、届いたものはある。

 だから、ここで壊れるわけにはいかない。

 啓介は目を閉じ、黒血を押し込めた。

 悔しさでは足りなかった。  怒りでも足りなかった。

 胸に残ったのは、あと一歩で届かなかった時間への悔恨だった。

     ◇

 B7、照合準備区画。

 女性職員は端末に記録を打ち込んでいた。

 AS-01接触反応確認。  SP-07情動反応上昇。  対象認識、再固定処理へ移行。

 ユリは移送台に固定されたまま、目を閉じていた。

 啓介の声が聞こえた。  確かに聞こえた。

 自分の名を呼んでいた。

 それなのに、手は届かなかった。  来てくれたのに、連れていってはくれなかった。

 違う。  違うはずだ。

 そう思おうとした。

 だが、女性職員の声が落ちる。

「彼は来ました」 「ですが、あなたを連れてはいきませんでした」

 ユリの指先が震えた。

「違う……」

 声は、ほとんど音になっていなかった。

 モニターに、啓介の背中が映る。

『置いていく』

 ユリの目尻に、涙が滲んだ。

 女性職員は静かに告げた。

「B8移送、継続」

 移送台が、暗い通路へ進んでいく。

 啓介の声は、確かに届いた。

 けれど、その声がユリの心に触れる前に、TAIDAの作った声がそれを塗り潰していく。

 届いたはずの声は、届かなかった記憶に変えられていく。

 その瞬間、ユリの中で、

 記憶の断片がまた一つ深く沈んだ。

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