第40話 黒脈
黒い隔壁の奥へ、啓介たちは足を踏み入れた。
そこは、駅の先にある空間とは思えなかった。
線路ではない。 通路でもない。 黒い金属で覆われた軌道が、闇の奥へまっすぐ伸びている。
壁には窓も標識もない。 外へ繋がる非常灯もない。 あるのは、低く鳴る機械音と、足元から伝わるかすかな振動だけだった。
一真が周囲を見回す。
「本当に、東京の下かよ」
黒瀬が答える。
「東京の下であって、東京じゃない」
一真が黒瀬を見る。
「どういう意味だ」
「ここは国の記録に存在しない」 「地図にも載っていない存在しない道だ」
啓介は奥を見た。
この先に、鳥島黒層がある。 この先に、ユリがいる。
そう思うだけで、胸の奥が熱くなる。
相良が端末を確認する。
「外部通信、急速に低下」 「もうすぐ完全に切れるわ」
鬼塚が短く言った。
「入ったら、戻れねえってわけだ」
「戻るために来たんじゃない」
啓介が言った。
鬼塚は啓介を見て、わずかに口角を上げた。
「そうだったな」
◇
ホームの奥に、黒い車両が待っていた。
小型の無人輸送車両。 窓はほとんどなく、外装は光を吸うような黒だった。 通常の客車ではない。 車内には座席ではなく、身体を固定するための簡易シートと金属レールが並んでいる。
一真は車内を覗き込み、顔をしかめた。
「人を運ぶってより、荷物を運ぶ車両だな」
鬼塚が先に乗り込む。
「作戦員も研究体も、TAIDAにとっては荷物だ」
その言葉に、誰も笑わなかった。
啓介は無言で車両へ入る。 一真が続き、相良が端末を接続する。 黒瀬は操作盤の前に立った。
表示が浮かび上がる。
目的地。 鳥島黒層、下層接続区画。 経路。 海側保守支線経由。
黒瀬が入力を終える。
「本線は使わない」 「海側保守支線から下層へ入る」
一真が聞く。
「それでユリのいる場所まで行けるのか」
「近くまでは行ける」 「だが、黒脈内で検知されれば経路を変えられる」
「検知される前提か」
「されないと思う方が甘い」
黒瀬が起動を押した。
車両の扉が閉じる。
重い音が、車内に響いた。
次の瞬間、黒脈シャトルは音もなく動き出した。
◇
加速は静かだった。
外の景色はない。 窓のない車内では、速度の感覚も分からない。 ただ、身体の奥にだけ圧力のようなものがかかっている。
相良の端末が短く鳴った。
「外部回線、遮断」 「南條さんからの通信も、ここから先は届かないわ」
啓介が相良を見る。
「ユリの位置は」
「最後の情報では、照合準備区画」 「でも、今も同じ場所とは限らない」
啓介は何も言わなかった。
胸の奥が、また熱を帯びる。 ユリの顔が浮かぶ。 白い部屋。 モニター。 作られた声。
右手に黒い線が浮かびかけた。
一真が隣から声を落とす。
「啓介」
啓介は右手を押さえた。
「分かってる」
黒い線は広がらなかった。
一真はしばらく啓介を見ていたが、やがて目を逸らした。
「俺は、お前を完全に信じたわけじゃない」
啓介は一真を見る。
一真は正面を向いたまま続けた。
「でも、ユリのことは信じる」 「自分で残ったっていう話も、今は信じる」
啓介は少しだけ目を伏せた。
「助けたら、本人から聞け」
「ああ」
短い返事だった。
それ以上は、どちらも言わなかった。
謝罪も、和解も、今はまだ早い。 だが、同じ方向を見ていることだけは確かだった。
◇
黒脈シャトルは、闇の中を進み続けた。
黒瀬は車内の小さなモニターに表示される経路を見ている。
「黒脈は、もともと戦時中の未完成海底回廊だった」
一真が顔を上げる。
「戦時中?」
「ああ」 「完成前に計画は中止され、資料は処分された」 「だが、裏政府はその遺構を見つけた」 「堕闇創設時に、密かに再建し、拡張した」
鬼塚が言う。
「今じゃ、国家の裏動脈だ」
黒瀬は頷く。
「鳥島黒層と都心地下を繋ぐ、存在しない輸送路」 「作戦員、研究体、機密物資」 「表に出せないものは、すべてここを通る」
一真は車両の壁を見る。
「つまり、ここで見つかれば逃げ場がない」
「そうだ」
黒瀬は即答した。
「黒脈は区画ごとに隔壁で分けられている」 「緊急時には、移動中の車両ごと封鎖できる」 「一度閉じ込められれば、外からも中からも開閉は困難だ」
「最悪だな」
「だから便利なんだ」 「TAIDAにとってはな」
車内の空気が重くなる。
啓介は目を閉じた。
便利。 管理。 輸送。 処理。
TAIDAは、すべてをそういう言葉に変える。 人の命も。 記憶も。 感情も。
ユリまで、その言葉の中に閉じ込められようとしている。
◇
鳥島黒層、照合準備区画。
ユリは白い光の下に座っていた。
何度目か分からない映像が、目の前のモニターに流れる。
啓介の背中。 振り返らない背中。 遠ざかる背中。
『置いていく』
加工された声が流れる。
ユリの唇が震えた。
「違う……」
声は小さい。
女性職員が端末を操作する。
「御崎ユリ」
ユリは顔を上げない。
「あなたを置いていったのは誰ですか」
ユリは答えなかった。
モニターに、また啓介の顔が映る。 冷たい目。 実際には存在しない表情。
『邪魔だ』
ユリの肩が震えた。
「あなたを置いていったのは誰ですか」
「……違う」
「あなたを利用したのは誰ですか」
「違う……」
「あなたを切り捨てたのは誰ですか」
ユリは強く目を閉じた。
思い出そうとする。
啓介の手。 啓介の声。 黒血に苦しみながら、自分を見ていた目。
私が決めた。 私が残った。
そう思い出そうとした。
だが、音声が重なる。
『置いていく』
ユリの唇がわずかに開いた。
名前は、まだ出ない。
女性職員は端末へ記録する。
「対象認識、変動」 「拒絶反応、残存」 「第2段階、継続」
◇
黒脈シャトルの照明が、一瞬だけ揺れた。
相良が端末を見る。
「待って」
黒瀬もすぐに操作盤を見る。
経路表示に、赤い警告が入っていた。
非正規認証履歴。 海側保守支線。 経路照合中。
一真が顔を上げる。
「何だ」
黒瀬の表情が険しくなる。
「検知された」
「もうかよ」
鬼塚が立ち上がる。
その瞬間、車両が大きく減速した。
全員の身体が前へ揺れる。
赤い警告灯が車内に灯った。
経路変更。 目的地変更。 無人中継区画へ移行。
相良が端末を叩く。
「外部から経路を書き換えられてる」
啓介が立ち上がりかける。
「鳥島へは」
「このままでは行けない」
黒瀬が答えた。
「戻れるのか」
一真が聞く。
「戻る隔壁はもう閉じた」
短い沈黙。
鬼塚が笑う。
「歓迎されてるな」
黒瀬は操作盤を見つめる。
「TAIDAは、俺たちを鳥島黒層へ入れたくない」 「無人中継区画で止める気だ」
啓介は拳を握った。
「なら、そこから抜ける」
「簡単にはいかない」
「それでも行く」
黒瀬は啓介を見た。
「分かっている」
◇
鳥島黒層、黒脈管制区画。
職員が警告表示を確認していた。
「海側保守支線に非正規認証履歴」 「死亡記録対象による認証補正を確認」 「非常経路、使用中」
上席職員が画面を見る。
「死亡記録対象……」
別の職員が言う。
「該当記録、BR-01系統」 「照合不能」 「ただし、過去記録との類似あり」
上席職員の目が細くなる。
「生きていたか」
管制室の空気が変わった。
「支線を閉鎖」 「本線接続を切れ」 「対象を鳥島黒層へ入れるな」 「無人中継区画へ誘導しろ」
職員たちが端末を操作する。
「隔壁閉鎖、開始」 「無人中継区画、防衛システム待機」 「侵入対象、五名と推定」
上席職員は冷たく言った。
「回収できる者は回収する」 「抵抗する者は、処分しろ」
◇
黒脈シャトルはさらに減速した。
車内に低い警告音が響く。
やがて、完全に停止した。
扉の外は暗い。
黒瀬が端末を確認する。
「無人中継区画に着いた」
鬼塚が先に扉の前へ立つ。
「開けるぞ」
扉が開いた。
湿った空気が流れ込む。
そこは、巨大な地下空間だった。
複数の黒い軌道が交差している。 壁には古い補強材。 天井は高く、ところどころから水が滴っている。 使われていない整備車両が並び、錆びたアームが暗闇の中で止まっていた。
海底施設のような圧迫感があった。
一真は周囲を見た。
「ここが中継区画か」
黒瀬が頷く。
「黒脈の分岐点の一つだ」 「通常は無人」 「だが、非常時には隔離区画になる」
相良が端末を確認する。
「前後の隔壁、閉鎖」 「黒脈本線から切り離されたわ」
啓介は奥の隔壁を見る。
「壊すか」
黒瀬が即座に止める。
「ここで黒血を使えば、黒脈ごと崩れる可能性がある」 「海底区画だ」 「崩れれば全員死ぬ」
啓介は歯を食いしばった。
ユリが遠ざかっていく気がした。
一真が啓介の横に立つ。
「落ち着け」 「別の道を探すんだろ」
啓介は一真を見る。
一真も苦しそうだった。 それでも、赤血を出そうとはしていない。
啓介は息を吐いた。
「ああ」
◇
その時、区画の奥で赤い灯りが点いた。
低い駆動音。
天井のレールに沿って、無人砲台が動き出す。 壁の格納部から、小型の保安機械がせり出してきた。 床下から拘束ワイヤーの射出口が開く。
相良の端末に警告が表示される。
「防衛システム起動」 「血液反応センサー、稼働」 「鎮静弾、拘束装置、起動準備」
鬼塚が首を鳴らした。
鬼塚が首を鳴らした。
「やっぱり歓迎されてるな……」
赤黒い筋が、鬼塚の両腕に走る。
「血装展開」
次の瞬間、重い外殻が肩から腕へ広がった。
拳が、鉄の塊のように膨れ上がる。
一真が構える。
「戦えるのか」
鬼塚が前に出る。
「お前らは使い物にならねえ」 「下がってろ」
一真が眉を寄せる。
「ちった〜言葉選べよ」
「事実だ」
黒瀬も端末を構えた。
「相良、センサーをずらせ」 「鬼塚、前に出すぎるな」 「啓介と一真は中央から動くな」
啓介は拳を握る。
だが、黒血は使わない。
今ここで暴れれば、ユリへ届く前に終わる。
小型機械が一斉に動いた。
鬼塚が先頭で受け止める。 黒瀬が端末で砲台の照準を乱す。 相良が血液反応センサーへ偽信号を流す。
啓介と一真は、動かずにその中心にいた。
動けないことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
◇
黒瀬が端末を操作しながら叫ぶ。
「まだ道はある!」
鬼塚が拘束ワイヤーを引きちぎりながら聞く。
「どこだ!」
「正規経路じゃない」 「保守用の下層連絡路だ」
一真が聞く。
「どこへ出る」
黒瀬の指が止まった。
画面に表示された文字を見て、表情が険しくなる。
「鳥島黒層、B6」
啓介が反応する。
「B6……」
相良が低く言った。
「CRV-23研究区画」
その名前に、啓介の胸の奥が嫌な重さを持った。
CRV-23。 黒血。 血装。 自分たちを人間ではないものに変えた始まり。
そこへ向かうしかない。
黒瀬は端末を強く握った。
「選べる道じゃない」 「残っている道だ」
無人砲台が再び動く。 赤い照準が啓介たちへ向く。
黒脈の隔壁は完全に閉じた。
逃げ道は消えた。
だが、進む道だけは残っている。
その先にあるのは、鳥島黒層B6。 CRV-23研究区画。
啓介は拳を握った。
ユリへ近づく道は、また闇の中へ沈んでいた。




