第39話 無名駅
夜明け前の隠れ家は、静かだった。
外の街はまだ眠っている。 道路を走る車の音も少ない。 板で塞がれた窓の隙間からは、青白い光が少しだけ差し込んでいた。
啓介は簡易ベッドから立ち上がった。
膝に力が入りきらない。 右腕にはまだ鈍い痛みが残っている。 それでも、昨日よりは動ける。
相良が端末を見ながら言った。
「動けるだけよ」 「戦える状態じゃないわ」
啓介は短く答える。
「分かってる」
「黒血は使わないこと」 「使えば、身体が先に壊れる」
啓介は自分の右手を見た。
黒血は静かだった。 だが、完全に眠っているわけではない。 ユリのことを考えるだけで、奥の方がわずかに熱くなる。
「使わない」
啓介は言った。
隣では、一真がゆっくり立ち上がっていた。 顔色はまだ悪い。 腕を動かすたびに、痛みが走っているのが分かる。
相良は一真にも視線を向けた。
「あなたもよ」 「赤血は、まだ制御できていない」 「出そうとすれば、血管も神経ももたない可能性があるわ」
一真は苦く笑った。
「分かってる」 「けど、いざとなったら使うしかないだろ」
相良の目が冷たくなる。
「その“いざ”を作らないために動くの」
一真は何も言い返せなかった。
鬼塚が肩を回しながら言う。
「今のお前らは、強いんじゃねえ」 「壊れかけてるだけだ」
啓介も一真も、黙っていた。
それは分かっている。 だが、止まる理由にはならなかった。
◇
黒瀬は古い端末に地下図を映した。
隠れ家。 廃ビル地下。 旧地下通路。 未成線封鎖区画。 無名駅。 黒脈入口。
赤い線が、目的地まで続いている。
「地上は使わない」
黒瀬が言った。
「TAIDAはすでに都心側の監視を上げている」 「お前たちの反応はロストしたままだが、死亡確認は取れていない」 「つまり、どこかで生きている可能性を捨てていない」
一真が眉を寄せる。
「この隠れ家は大丈夫なのか」
「長くはもたない」
黒瀬は淡々と答えた。
「だから動く」
啓介は画面の一点を見る。
「無名駅に警備はいるのか」
「常駐はいない」 「だが、センサーはある」 「黒脈の入口を開けば、いずれ察知される」
鬼塚が続けた。
「入るまでが勝負じゃねえ」 「入ってからが本番だ」
一真は息を吐いた。
「どこまでも面倒だな」
「TAIDAの腹の中に戻るんだ」 「楽な道があると思うな」
黒瀬は端末を閉じた。
「役割を確認する」
視線が順に動く。
「俺が経路を開く」 「鬼塚は前衛」 「相良は医療と解析」 「啓介、お前はユリの確保」 「一真は啓介の抑え役だ」
一真が啓介を見る。
「俺が?」
鬼塚が言った。
「今の啓介が黒血に呑まれたら、止められる可能性が一番高いのはお前だ」
一真は肩をすくめる。
「俺も暴走したら?」
鬼塚は即答した。
「俺が殴る」
一真は少しだけ笑った。
「雑だな」
「分かりやすいだろ」
その短いやり取りで、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
だが、啓介だけは笑わなかった。
ユリの顔が、ずっと頭から離れなかった。
◇
一行は隠れ家の奥へ向かった。
古い廊下を抜け、錆びた階段を下りる。 地上の音が、少しずつ遠ざかっていく。
地下は湿っていた。
壁には古い配電盤。 床には水たまり。 天井から、時折しずくが落ちる。
黒瀬が先頭を歩く。 その後ろに鬼塚。 中央に啓介と一真。 相良は端末を見ながら最後尾についた。
啓介は無言で歩いていた。
足は重い。 傷が痛む。 それでも止まるわけにはいかない。
今もユリは、あの映像を見せられている。 自分で残った記憶を、置いていかれた記憶に変えられている。
啓介の右手に、かすかな熱が生まれた。
「啓介」
一真が小さく呼ぶ。
啓介は足を止めないまま、右手を握った。
「分かってる」
黒い線は出なかった。
一真はそれ以上何も言わなかった。
◇
廃ビルの地下奥に、古い鉄扉があった。
表面には赤錆が浮いている。 鍵は壊れているように見えたが、黒瀬が側面の小さな盤を開くと、内部にはまだ生きた配線が残っていた。
黒瀬が端末を接続する。
低い電子音。
扉の奥で、古いロックが外れる音がした。
鬼塚が扉を押す。
重い音を立てて、鉄扉が開いた。
その先には、暗い通路が伸びていた。
一真が呟く。
「東京の下に、こんな場所があるのか」
黒瀬が懐中灯を向ける。
壁には、かすれた管理番号。 古い標識。 途中で止まった配管。
「人が知らない東京の方が多い」
黒瀬はそう言って歩き出した。
旧地下通路は、長かった。
使われないまま置き去りにされた空間。 だが、完全に死んでいるわけではない。 どこかから電力が流れ、どこかの監視網と繋がっている。
相良が端末を見ながら歩く。
「微弱な監視波がある」 「ただの地下施設じゃないわ」
鬼塚が短く聞く。
「TAIDAか」
「たぶん」 「でも、古い」 「常時監視じゃなく、異常検知用ね」
黒瀬は立ち止まった。
通路の先に、細い赤外線センサーが複数走っている。
「配置が変わっている」
一真が顔を上げる。
「前と違うのか」
「ああ」
黒瀬の表情は険しい。
「俺たちが最後に使った時より増えている」 「TAIDAが無名駅周辺の警戒を上げた」
啓介は奥を見る。
「時間がない」
「分かってる」
一真が言う。
「でも、ここで引っかかれば、ユリまで届かない」
啓介は黙った。
右手の奥が、また熱くなる。
だが、今度も押さえた。
相良が端末を操作する。
「私が一時的に監視波をずらす」 「時間は長くない」 「一人ずつ通って」
鬼塚が先に動いた。 次に黒瀬。 啓介。 一真。 最後に相良。
全員がセンサーを抜けた直後、赤い線が元の位置へ戻る。
啓介は小さく息を吐いた。
焦って壊すこともできた。 だが、それではここまで来られなかった。
自分を保て。
鬼塚の言葉が、頭の奥に残っていた。
◇
鳥島黒層、照合準備区画。
ユリは、白い光の下に座らされていた。
モニターには、また啓介の背中が映っている。
振り返らず、壁の向こうへ消えていく背中。
『邪魔だ』
音声が流れる。
ユリはまぶたを震わせた。
「違う……」
だが、その声は弱かった。
女性職員が端末を操作する。
「対外任務適合処理、継続」 「自己記憶と公式記録の境界、低下」
モニターに別の映像が表示される。
啓介がこちらを見ている。 だが、その表情は冷たい。 実際には存在しない映像だった。
『もう戻らない』
加工された声。
ユリの指先が震えた。
「そんなこと……言ってない……」
『お前は、邪魔だ』
「違う」
『置いていく』
「違う……」
ユリは目を閉じる。
思い出そうとする。
啓介が苦しんでいた。 黒血に呑まれかけていた。 自分は残ると決めた。
自分で決めた。
そう思おうとした。
だが、啓介の本当の声が遠い。
代わりに、作られた声だけが近づいてくる。
『邪魔だ』
ユリの呼吸が乱れた。
女性職員は静かに記録した。
「抵抗反応、さらに低下」 「第2段階、継続」
◇
旧地下通路の先に、さらに古い階段があった。
下へ向かう階段。 手すりは錆びている。 壁には、剥がされた案内板の跡だけが残っていた。
黒瀬は階段を下りていく。
足音が、地下深くに響いた。
階段の先には、広い空間があった。
ホームだった。
だが、そこに駅名はない。
壁に駅名標があったはずの場所は、金属板ごと外されている。 ホームの端には、使われなくなったベンチ。 錆びた案内灯。 線路らしきものはあるが、通常の鉄道とは幅も形も違っていた。
一真は周囲を見回した。
「駅名がない」
鬼塚が言った。
「だから無名駅だ」
啓介はホームの奥を見た。
そこには、黒い隔壁があった。
壁のようにも見える。 扉のようにも見える。 だが、そこだけ空気が違っていた。
黒瀬が認証盤の前に立つ。
「ここから先が黒脈だ」
相良が小型端末を接続する。
「通信、ほぼ遮断」 「外部回線はここで切れるわ」
一真が黒瀬を見る。
「どうやって開ける」
「認証がいる」 「カードだけでは開かない」 「黒脈は、血を覚えている」
鬼塚が自分の指先を切った。
血が、認証盤へ落ちる。
盤面に赤い線が走った。
低い電子音。
だが、次の瞬間、表示が止まる。
認証対象、死亡記録済み。
鬼塚は鼻で笑った。
「死んだ人間は通してくれねえらしい」
相良が端末を操作する。
「待って」 「裏鍵を噛ませる」
黒瀬が隣の認証盤へ、別の小型装置を差し込む。
「南條さんが残したものだ」
一真が画面を見る。
「南條さんは、ここまで読んでたのか」
「全部じゃない」 「だが、必要になる可能性は読んでいた」
認証盤が再び低く鳴る。
表示が切り替わった。
認証補正。 非常経路、開放準備。
ホームの奥で、重い音が響いた。
壁だと思っていた黒い隔壁に、細い線が走る。
少しずつ、開いていく。
その奥にあったのは、通常の線路ではなかった。
黒い軌道。 滑るように伸びる輸送路。 奥は暗く、どこまで続いているのか分からない。
啓介は一歩、前へ出た。
この先に、ユリがいる。
そう思うと、胸の奥の黒血がまた静かに動いた。
だが、啓介はそれを押さえた。
一真が隣に立つ。
「行くぞ」
「ああ」
黒瀬が二人を見た。
それから、開いた扉の奥へ視線を向ける。
「ここから先は、国の地図にはない」
低い声だった。
「黒脈だ」
啓介たちは、存在しない道へ足を踏み入れた。




