第38話 虚無と真実の間
朝の光は、細く差し込んでいた。
板で半分塞がれた窓の隙間から、薄い光が床に落ちている。 外では車の音が聞こえた。 誰かの話し声。 遠くで鳴る工事の音。
それは、普通の街の朝だった。
だが、部屋の中にいる者たちは、誰一人として普通の朝を迎えてはいなかった。
啓介は簡易ベッドに背を預けていた。 右腕には包帯。 胸と腹にも処置の跡がある。
黒血は静かだった。 けれど、完全に消えたわけではない。 奥の方に沈んでいる。 眠っているだけだと、啓介には分かっていた。
隣のベッドでは、一真が起き上がっていた。
赤血の反応は落ち着いている。 だが、一真の顔色は悪い。 血装が解除された後も、身体の奥に熱が残っているようだった。
相良が端末で二人の状態を確認する。
「黒血も赤血も、今は落ち着いているわ」 「でも、無理に動けばまた反応する」 「今の二人は、立って歩くだけでも危険よ」
啓介は何も言わなかった。
動けない。 それが何よりも腹立たしかった。
ユリは今もTAIDAの中にいる。 記憶を壊されかけている。 それなのに、自分はここで横になっている。
啓介は拳を握ろうとした。 だが、指先に力が入らない。
鬼塚が壁に背を預けて言った。
「焦っても身体は動かねえぞ」
「分かってる」
「分かってねえ顔だ」
啓介は鬼塚を睨む。
「ユリが中にいる」
「ああ」
「今も、あいつらに――」
「だからって、お前が今戻ったらどうなる」
鬼塚の声は低かった。
「黒血に呑まれる」 「捕まる」 「今度はお前の記憶までいじられる」 「それで終わりだ」
啓介は言い返せなかった。
鬼塚の言葉は冷たい。 だが、間違ってはいなかった。
黒瀬が部屋の奥にある古い端末を操作していた。 画面にはTAIDAの通信監視網と、黒脈の簡略図が映っている。
一真はその画面を見つめながら、静かに言った。
「なあ」
部屋の空気が少しだけ変わる。
「俺たちは、何を信じて戦ってきたんだ」
誰もすぐには答えなかった。
一真は自分の手を見た。
「鬼塚は死んだって聞かされた」 「黒瀬も相良も、戻らなかったって記録にあった」 「啓介がユリを盾にした映像も見せられた」
一真は顔を上げる。
「でも、全部違った」
声が震えていた。
「俺は、何を信じればいい」
鬼塚は黙ったままだった。
黒瀬が端末から目を離す。
「今まで信じていたものが壊れたからといって、すぐに真実が見えるわけじゃない」
一真は黒瀬を見る。
「残るのは空白だ」 「何が本当で、何が嘘か分からなくなる」 「その空白に耐えられない人間は、また別の誰かの言葉にすがる」
黒瀬は静かに続けた。
「TAIDAは、そこを突く」 「記録を作り」 「映像を作り」 「言葉の意味を変える」 「そして、人にそれを真実だと思わせる」
一真は歯を食いしばった。
「じゃあ、ユリも……」
「今、その途中だ」
相良が言った。
啓介の目が動く。
相良は端末を机の上に置いた。 画面には、SP-07に関する断片的な情報が並んでいる。
「ユリの記憶は、消されているわけじゃない」 「本当の記憶は、まだ残っている」
「なら――」
啓介が身を乗り出しかける。
相良は首を振った。
「問題は、記憶そのものじゃない」 「その記憶に、別の意味を上書きされていること」
一真が眉を寄せる。
「どういうことだ」
相良は短く息を吐いた。
「事実はこう」 「啓介は黒血に呑まれかけた」 「ユリは干渉を止めるために残った」 「その結果、啓介は逃げ、ユリは捕まった」
相良は画面を切り替える。
「TAIDAが変えようとしているのは、この意味よ」
画面に短い文字が出る。
自分で残った。 置いていかれた。
啓介の表情が強張った。
「同じ出来事でも、意味が変われば心は壊れる」 「ユリは自分で選んだ」 「でもTAIDAは、そこを『啓介に捨てられた』に変えようとしている」
一真の脳裏に、あの映像が蘇る。
ユリの腕を掴む啓介。 前へ押し出されるユリ。 『邪魔だ』という声。 振り返らない背中。
あれを見た自分は、信じかけた。 いや、ほとんど信じていた。
一真は小さく呟く。
「俺も、同じようにやられたのか」
「そうだ」
黒瀬が答えた。
「お前は、ユリの記憶操作に使う前の映像を見せられた」 「啓介を追わせるために」 「そして、ユリを壊すために」
一真は黙った。
胸の中に、何か空っぽなものが広がっていく。
信じていたものは崩れた。 けれど、真実がすぐに見えたわけではない。
残ったのは、虚無だった。
それでも、その奥に一つだけ残っているものがある。
確かめなければならない。 ユリを救わなければならない。
一真は顔を上げた。
「ユリは、どこまで進んでる」
相良が端末を操作する。
「南條さんから、断片的な暗号通信が入っている」
画面に文字が表示された。
SP-07。 記憶照合処理、継続中。 第2段階へ移行。
対外任務適合処理、開始。
「お前を裏切り者として認識させる」 「自分を捨てた男として記憶させる」 「そして、命令に従わせる」
一真の拳が震えた。
「ふざけんなよ……」
鬼塚が静かに言った。
「それがTAIDAだ」 「人の記憶も、死も、生きている証拠も」 「全部、都合のいい形に変える」
啓介はベッドから立ち上がろうとした。
足が床につく。 だが、次の瞬間、膝が崩れた。
「啓介!」
一真が反射的に動こうとする。 だが、一真も身体がまだ動かない。
鬼塚が啓介を支えた。
「だから言っただろ」
「離せ……」
「離せるか」
「ユリが……」
「助けたいなら、今は倒れるな」
鬼塚の声が強くなる。
「お前がここで黒血を暴れさせたら、助けるどころじゃねえ」 「ユリを救いたいなら、まず自分を保て」
啓介は歯を食いしばった。
その言葉は痛かった。 だが、正しかった。
黒瀬が端末の画面を切り替える。
簡略化された地下図が表示された。
鳥島黒層。 黒脈。 海側保守支線。 都心地下。 無名駅。
一真が画面を見る。
「無名駅……?」
「都心側の入口だ」
黒瀬が言った。
「地図に存在しない地下駅」 「黒脈に入るには、そこを使う」
啓介が顔を上げる。
「そこから鳥島へ戻れるのか」
「戻れる」 「ただし、正面から入れば即座に捕まる」
黒瀬は図の一部を指した。
「使うのは本線じゃない」 「無名駅から黒脈へ入り、途中の無人中継区画を経由する」 「そこから鳥島黒層の下層へ抜ける」
一真が聞く。
「ユリはどこにいる」
相良が答えた。
「記憶照合が進んでいるなら、B7収容・隔離区画か、その上の照合準備区画」 「ただ、次段階へ進めば、移される可能性があるわ」
「どこへ」
「B8」
部屋の空気が重くなる。
「最深部《黒層》」
黒瀬が言った。
「そこへ入れられたら、取り戻すのは一気に難しくなる」
啓介は黙った。
身体は動かない。 けれど、心だけはもう走り出していた。
「いつ動く」
「今すぐは無理だ」
黒瀬は即答した。
「二人の身体がもたない」 「特に啓介、お前の黒血はまだ不安定だ」 「一真の赤血も同じだ」 「使えば力にはなる」 「だが、制御できなければ、二人とも敵味方関係なく壊す」
一真は自分の手を見た。
赤血。 自分の中に目覚めた、わけの分からない力。
「俺は、あれを使えるのか」
「今は使うな」
相良が言った。
「覚醒直後の反応は、身体が危険を感じた時に無理やり出たものよ」 「自分で出そうとすれば、血管や神経がもたない可能性がある」
一真は苦く笑う。
「便利な力ってわけじゃないか」
「当たり前だ」 鬼塚が言った。 「そんな都合のいい力なら、TAIDAがとっくに量産してる」
啓介は黒瀬を見る。
「なら、どうする」
黒瀬は少しだけ沈黙した。
「一晩だ」
「一晩?」
「お前たちは最低限、動ける状態まで戻す」 「その間に、俺たちは無名駅へのルートを確認する」 「南條さんからの通信が続くなら、ユリの位置も絞れる」
「ユリがその間に――」
「分かっている」
黒瀬の声は静かだった。
「だが、焦って死ねば何も残らない」 「生きて戻る」 「それが、今できる唯一の選択だ」
啓介は目を伏せた。
生きて戻る。
自分たちは死にかけた。 それでも拾われた。
明日を生きるために。
なら、その明日を無駄にするわけにはいかなかった。
◇
その頃、鳥島黒層の準備区画では、白い光が天井から落ちていた。
ユリは椅子に座らされている。
腕は固定されていた。 首元には測定具。 正面にはモニター。
そこには、同じ映像が何度も流れていた。
啓介がユリの腕を掴む。 ユリの身体が前へ出る。 警備員がユリを押さえる。
『邪魔だ』
ユリは目を閉じた。
「違う……」
声はかすれていた。
女性職員が淡々と言う。
「記憶照合、第2段階へ移行します」
モニターの映像が止まる。
次に表示されたのは、啓介の背中だった。
振り返らず、壁の向こうへ消えていく背中。
「御崎ユリ」
職員が言った。
「あなたはAS-01に利用されました」
「違う……」
「あなたは置いていかれました」
「違う」
「あなたは切り捨てられました」
ユリの指先が震えた。
思い出そうとする。
啓介の声。 自分を呼ぶ声。 黒血に苦しみながらも、自分を見ていた目。
私が決めた。 私が残った。 啓介は、私を捨てていない。
そう思い出そうとした。
だが、モニターの音声がまた流れる。
『邪魔だ』
その声が、少しずつ近づいてくる。
啓介の本当の声を、覆い隠すように。
「違う……」
ユリはもう一度呟いた。
けれど、その声はさっきよりも弱かった。
女性職員は端末に記録する。
「抵抗反応、低下」 「照合継続」
ユリは目を閉じた。
啓介の声を思い出そうとした。
けれど、聞こえてくるのは別の声だった。
『邪魔だ』
それが、少しずつ本当の記憶のように近づいてきていた。




