第36話 明日を生きる
黒と赤が、壊れた通路でぶつかった。
啓介の拳を、一真が受け止める。 さっきまでなら、受け止めることなどできなかった。 だが今は違う。
一真の血装の内側を、赤い線が走っている。 熱い血が、身体の奥から押し上がってくる。
啓介の腕には、黒い線が浮かんでいた。 黒血が脈打つたびに、床が小さく震える。
「一真……」
啓介の声が、かすかに戻る。
「お前……その力は……」
「知らねえよ」
一真は啓介の腕を押し返した。
「俺にも分からねえ」 「でも、今のお前を止められるなら、それでいい」
啓介の目が揺れる。
次の瞬間、黒血が再び啓介の腕を覆った。
「邪魔を……するな」
啓介が踏み込む。 一真も踏み込む。
二人の拳がぶつかった。
衝撃が通路全体を揺らした。 壁の照明が砕け、火花が散る。 天井の配管が外れ、蒸気が吹き出した。
管制室では、警告表示が次々と上がっていた。
AS-01、黒血反応上昇。 AS-02、赤血反応上昇。 外周連絡通路、構造損傷。 戦闘継続危険。
「止めろ!」
上席職員が叫ぶ。
「内側隔壁を閉鎖」 「外周側だけ開けろ」 「本部中枢へ近づけるな」
隔壁が次々と下りていく。 啓介と一真の背後の通路が閉じられた。
残された道は、外周区画へ続く通路だけだった。
南條は管制室の端で、その表示を見ていた。
二人を止める気ではない。 外へ追い込む気だ。
「断崖側へ流すつもりか」
南條は低く呟いた。
だが、その声は誰にも届かなかった。
◇
啓介と一真は、戦いながら外周区画へ出た。
金属の床が終わり、火山岩を削った通路に変わる。 壁の向こうから、風の音が聞こえた。
外が近い。
一真は啓介の拳を受け止め、横へ弾く。 赤い線が血装に走り、腕の痛みを押し流す。
「啓介!」
一真は叫んだ。
「お前は本当にユリを捨てたのか!」
啓介の動きが一瞬だけ止まる。
「捨ててない……」
黒血に揺れる声だった。
「捨てるわけがない……」
「なら何で戻らない!」 「ユリは今も中にいる!」
その言葉で、啓介の表情が歪んだ。
「戻れば……奪われる」
「何をだ!」
「ユリの記憶だ」
啓介は一真の胸を突き飛ばした。 一真は数歩下がるが、倒れなかった。
「映像を作ったんだ」 「次は、ユリの記憶を作り替える」 「俺が戻れば、それを止められない」
一真の目が揺れた。
映像。 記憶。 公式記録。
全部が繋がりかける。 だが、まだ信じ切れない。
「だったら、証明しろよ!」
一真は踏み込んだ。
「俺に分かるように言え!」 「逃げながらじゃなく、正面から言え!」
「今は無理だ」
「またそれかよ!」
一真の拳が啓介の肩を打つ。 啓介の身体が揺れる。
だが次の瞬間、黒血が啓介の腕を走った。
啓介の反撃が、一真の腹部に入る。 一真は岩壁に叩きつけられた。
火山岩が砕ける。
それでも一真は倒れない。
赤血が身体を支えていた。
「……まだだ」
一真は岩壁から身体を離した。
「まだ、終わらせねえ」
◇
ユリは、準備区画で映像を見せられていた。
同じ場面が、何度も繰り返される。
啓介がユリの腕を掴む。 ユリの身体が前へ出る。 警備員がユリを押さえる。
『邪魔だ』
啓介の声。
ユリは唇を噛んだ。
「違う」
画面の中の啓介は、振り返らない。 ユリは手を伸ばしている。 だが、啓介は壁の向こうへ消える。
「違う……」
女性職員が淡々と言った。
「公式記録を受け入れてください」 「あなたはAS-01に利用されました」
「違います」
「あなたは切り捨てられた」
「違う!」
ユリは声を上げた。
「私は、自分で残った」 「啓介を助けるために残った」 「私は……私が決めたの」
女性職員は端末を操作する。
映像がまた戻る。
啓介がユリを前へ出す。 『邪魔だ』 ユリが拘束される。
その音声が、少しだけ大きくなる。
『邪魔だ』
ユリは目を閉じた。
違う。 違う。
私が決めた。 私が残った。 啓介は、私を捨てていない。
その記憶を、必死に握りしめる。
けれど、映像の中の啓介の背中が、まぶたの裏に焼きついていく。
◇
管制室では、二人の反応が外周断崖区域へ向かっていることが表示されていた。
「AS-01、外周断崖区域へ移動」 「AS-02、追従」 「黒血反応、赤血反応、ともに上昇中」
上席職員が命じる。
「海上側を監視」 「逃走経路を塞げ」 「必要なら鎮静弾を許可する」
南條は別端末を開いた。
監査制限のかかった端末ではない。 古い、非常時用の回線だった。
短い接続音。
南條は声を落とした。
「予定より早い」
通信の向こうで、男の声が返る。
『何人ですか』
「二名」 「FANGとDARKNESS」 「断崖側へ向かっている」
短い沈黙。
『落ちる可能性は』
「高い」
『回収準備に入ります』
「TAIDAの海上班より先に拾え」
『了解』
南條は通信を切ろうとした。
その直前、相手の声が低く続いた。
『二人とも、死なせません』
南條は一瞬だけ目を伏せた。
「ああ」
通信を切る。
南條は画面の中の二つの反応を見た。
黒と赤。 二つの反応が、鳥島の外周へ向かっている。
「生きろ」
小さく呟いた。
◇
外に出た瞬間、強い風が啓介と一真を打った。
鳥島の夜は暗かった。
眼下には黒い海。 波が火山岩の崖にぶつかり、白く砕けている。 遠くでは、観測施設の赤い警告灯が点滅していた。
ヘリのライトが、上空から断崖をなぞる。
啓介と一真は、崖の上で向かい合った。
二人とも傷だらけだった。
啓介の右腕には黒い線が走り、呼吸は荒い。 一真の血装には亀裂が入り、赤い線がその隙間を支えている。
一真は肩で息をしながら言った。
「俺はまだ、お前を信じ切れない」
啓介は黙っている。
「でも、あの映像だけを信じる気もない」
啓介の目が少しだけ戻った。
一真は拳を握る。
「だから、聞かせろ」 「お前の言葉で」 「お前が何をしたのか」
啓介は風の中で答えた。
「俺はユリを捨ててない」
「なら何で行った」
「ユリが、行けと言った」
一真の表情が動く。
「自分で決めた、と言った」 「俺が壊れないように、干渉を止めに行った」 「俺は……あいつの選択に背を向けるしかなかった」
啓介の声が揺れる。
「でも、見捨てたわけじゃない」
一真は黙った。
その言葉は、嘘には聞こえなかった。
だが、その時、啓介の黒血が再び脈打った。
啓介が顔を歪める。
「くっ……」
一真が構える。
「啓介!」
「来るな……」
啓介の声が低くなる。
「また……抑えられない……」
黒血が啓介の腕を覆っていく。
一真の赤血も反応するように強く脈打った。
「なら、俺が止める」
一真が踏み込む。
啓介も踏み込んだ。
断崖の上で、黒と赤が再びぶつかった。
衝撃で足元の岩に亀裂が走る。
一撃。 二撃。 三撃。
二人の拳がぶつかるたびに、崖が軋んだ。
ヘリのライトが二人を照らす。
『AS-01、AS-02、戦闘継続』 『断崖区域、構造崩落の危険あり』
管制の声が外部スピーカーから流れる。
一真は啓介の腕を掴んだ。
「止まれ!」
啓介が押し返す。
「どけ!」
「どかねえ!」
二人の足元に、大きな亀裂が入った。
一真が気づく。
「まずい――」
次の瞬間、崖の一部が崩れた。
一真の足場が消える。
「っ!」
身体が宙へ落ちる。
黒い海が下に広がっていた。
その瞬間、啓介の目が戻った。
一真の腕を、啓介が掴んだ。
一真は驚いて見上げる。
「啓介……?」
啓介は片膝をつき、崩れかけた岩場に腕を伸ばしていた。
黒血に呑まれかけた腕で。 それでも、一真を掴んでいた。
「何で……」
一真の声が漏れる。
啓介は歯を食いしばった。
「見捨てるわけ……ないだろ」
一真の目が揺れた。
その一言で、偽映像の啓介が崩れた。
ユリを盾にした啓介。 振り返らなかった啓介。 『邪魔だ』と言った啓介。
そのどれとも、今の啓介は違った。
だが、啓介も限界だった。
足元の岩がさらに砕ける。
「くそっ……!」
啓介は一真を引き上げようとした。 だが黒血の反動で、腕が震える。
一真も手を伸ばす。
「啓介、離せ!」
「離すか!」
「お前まで落ちる!」
「知るか!」
次の瞬間、崖が崩れた。
二人の身体が、夜の海へ投げ出される。
風の音が消えた。
黒い海が迫る。
一真は啓介の腕を掴み返した。
どちらが助ける側なのか。 どちらが落ちる側なのか。
もう分からなかった。
二人はそのまま、海へ落ちた。
◇
管制室に警告音が響いた。
大型モニターの表示が乱れる。
AS-01、反応低下。 AS-02、反応低下。
「両対象、断崖より落下!」 「海面下に入りました!」 「黒血反応、急速低下」 「赤血反応も低下!」
次の瞬間、二つの表示が同時に消えた。
AS-01、反応消失。 AS-02、反応消失。
管制室がざわつく。
「反応ロスト!」 「海上班を出せ!」 「生体反応を再取得しろ!」
上席職員が叫ぶ。
「両対象を回収しろ」 「死亡確認まで処理を止めるな」
南條は画面を見ていた。
表情は変えない。
だが、端末の影で、拳を強く握っていた。
◇
海の中は暗かった。
冷たい水が、啓介の身体を包む。 音は遠く、何も聞こえない。
黒血の熱も。 赤血の熱も。 すべてが海に溶けていくようだった。
一真の意識も沈みかけていた。
暗い水の中で、二人は離れかける。
だが、一真の手はまだ啓介の腕を掴んでいた。 啓介の手も、一真の腕を離していなかった。
遠くから、低い機械音が近づいてくる。
黒い影が、海中を滑るように進んでいた。
誰かの声が、水中通信越しに響く。
『二名、確認』
別の声が続く。
『FANG、DARKNESS、ともに生体反応あり』
暗い海の中で、光が差した。
『回収する』
低い声。
『絶対に二人とも死なせるな』
その声を最後に、啓介の意識は闇に沈んだ。




