第35話 覚醒
啓介と一真は、壊れた通路で向かい合っていた。
背後には、半分閉じた地上搬出口。 足元には、割れた配管と砕けた壁材。 遠くでは、警報音が鳴り続けている。
一真は追跡端末を握ったまま、啓介を睨んでいた。
「お前、ユリに何をした」
啓介の表情が変わる。
「……何?」
「映像を見た」
一真の声が低くなる。
「ユリを盾にして逃げたのか」
啓介の目が揺れた。
その一言で分かった。 一真は、何かを見せられている。 そして、それは真実ではない。
「違う」
啓介は静かに言った。
「映像には映ってた」
「お前がユリを犠牲にして逃げ出す様がな」
一真は一歩近づく。
啓介は息を詰めた。
「違う。一真、聞け」
「啓介答えろ!」
一真の声が荒くなる。
「あの『邪魔だ』って声は何だ」 「あれはお前の声だろ」
啓介は言葉に詰まった。
確かに言った。
だが、ユリに向けた言葉ではない。
あの時の自分は、まともではなかった。
「あれは……ユリに言ったんじゃない」
「都合よすぎるだろ」
一真の拳が震える。
「ユリは捕まってる」 「お前だけがここにいる」 「それが結果だろ」
啓介は何も返せなかった。
その通りだった。 ユリは捕まった。 自分だけがここにいる。
だが、それでも。
「ユリは俺を止めた」
啓介は言った。
「俺が黒血に呑まれかけた」 「外から干渉されて、制御できなくなりかけた」 「ユリはそれを止めるために残った」
一真の眉が動く。
「黒血を止めるため?」
「ああ」
「なら何で逃げた」
その言葉は、啓介の胸を深く刺した。
「戻れば、全部終わる」
「何が終わる」
「俺も、ユリも、記録も、全部書き換えられる」 「あいつらは映像を作った」 「次は、ユリの記憶を変える」
一真は一瞬だけ黙った。
「記憶……?」
「そうだ」
啓介は一真を見た。
「今ならまだ間に合うかもしれない」 「だから俺は戻れない」
一真の端末に通信が入る。
『AS-02、対象を確保してください』 『AS-01は危険対象です』 『黒血反応の再上昇に注意してください』
一真は端末を握りしめた。
啓介の言葉を信じたい自分がいる。 だが、映像が頭から離れない。
ユリが押し出される姿。 『邪魔だ』という啓介の声。 振り返らない背中。
一真は顔を上げた。
「戻れ、啓介」
「できない」
「戻れ」
「一真」
「力ずくでも連れて帰る」
一真の腕部モニターが赤く点滅する。
AS-02。 血装展開準備。
一真は低く言った。
「血装展開」
黒い外装が腕から肩へ走り、胸部、脚部へと広がっていく。 FANGの姿が、一真の全身を覆った。
啓介は動かなかった。
「やめろ」
「逃げるな」
「今の俺に近づくな」
「だったら止まれ!」
一真が踏み込んだ。
拘束用ワイヤーが啓介の腕を狙って飛ぶ。 啓介は半歩ずれてかわした。
一真はすぐに踏み込む。 拳が啓介の胸元へ迫る。
啓介は腕で受け流し、距離を取った。
「一真、聞け」
「黙れ!」
一真はさらに攻める。
「今のお前の言葉じゃ納得できねえんだよ!」
蹴りが来る。 啓介はそれを腕で止めた。
衝撃で足元の床が鳴る。
一真の力は強い。 だが、啓介は反撃しなかった。
黒血を使えば止められる。 だが、それをすればまた自分が壊れるかもしれない。
一真のワイヤーが再び伸びる。 啓介の右腕に絡みついた。
「捕まえた」
一真が引く。
啓介は抵抗しなかった。 だが、右手が震えた。
一真が叫ぶ。
「ユリは捕まってるんだぞ!」 「それでもお前は逃げるのか!」
啓介の中で、何かが軋んだ。
ユリ。 拘束具。 白い部屋。 公式記録。 記憶。
そして、一真の言葉。
お前だけが逃げた。
啓介の右手に、黒い線が走った。
「……黙れ」
「血装展開……」
一真の動きが止まる。
「啓介?」
啓介の呼吸が乱れた。 右腕の皮膚の下で、黒いものが脈打つ。
腕部に絡んでいたワイヤーが、音を立てて軋む。
一真のモニターに警告が走った。
AS-01黒血反応、急上昇。 自我維持、低下。
「啓介、待て」
啓介は顔を上げた。
その目は、さっきまでの啓介のものではなかった。
「邪魔をするな」
次の瞬間、ワイヤーが引き裂かれた。
一真は反応する間もなく、腹部に衝撃を受けた。
「ぐっ……!」
身体が浮く。 そのまま壁に叩きつけられる。
FANGの外装に亀裂が走った。
一真は床に落ち、すぐに立ち上がろうとする。
だが、啓介はもう目の前にいた。
速い。
一真が拳を上げるより早く、啓介の腕が振り抜かれる。 一真の身体が通路を転がった。
腕部モニターが警告を出す。
外装損傷。 衝撃値、限界接近。 AS-02、戦闘継続危険。
一真は歯を食いしばった。
「まだ……だ」
立ち上がる。 踏み込む。 拳を放つ。
啓介は片手で受け止めた。
そのまま一真の腕を掴み、床へ叩きつける。
床材が割れた。
「がっ……!」
一真の視界が揺れる。
黒血の啓介は、強すぎた。
ただ強いだけではない。 力の向きに迷いがない。
邪魔なものを壊す。 それだけの動きだった。
一真は起き上がろうとする。
だが、啓介の足が胸部を押さえつけた。
重い。
FANGの外装越しでも、骨がきしむような圧迫だった。
「啓……介……」
啓介は見下ろしている。
だが、その目に一真は映っていないようだった。
「邪魔だ」
また、その言葉。
一真の中で、改ざん映像の声と重なる。
ユリを押し出す啓介。 振り返らない背中。 『邪魔だ』
一真の怒りが燃え上がる。
一真は足を掴み、押し返そうとした。 だが、動かない。
啓介の拳が振り上げられる。
次に受ければ、意識が飛ぶ。 そう分かった。
それでも、一真は目を逸らさなかった。
「俺は……」
声がかすれる。
「まだ……聞いてねえ……」
啓介の拳が落ちた。
◇
ユリは、準備区画の椅子に座らされていた。
両腕は固定されている。 首元には測定具。 正面には、大きなモニター。
女性職員が端末を操作する。
「公式記録との照合を開始します」
画面に映像が流れた。
啓介がユリの腕を掴む。 ユリの身体が前へ出る。 警備員がユリを押さえる。
『邪魔だ』
啓介の声が流れる。
ユリは息を呑んだ。
「違う」
小さな声が漏れた。
映像は続く。
啓介が壁を壊す。 ユリが手を伸ばす。 啓介は振り返らず、壁の向こうへ消える。
「違う……」
ユリは首を振った。
「これは違う」 「私は、自分で残った」
女性職員は淡々と言う。
「あなたの記憶に揺らぎがあります」
「違います」
「映像記録と認識が一致していません」
「違う!」
ユリの声が強くなる。
「啓介は苦しんでいた」 「黒血が暴れかけていた」 「私は、それを止めるために――」
モニターの映像が戻る。
啓介がユリを前へ出す。 『邪魔だ』 ユリが拘束される。
同じ場面が、もう一度流れる。
ユリは目を閉じた。
私が決めた。 私が残った。 啓介は、私を捨てていない。
その記憶を、必死に握りしめる。
けれど、耳の奥で啓介の声が繰り返された。
『邪魔だ』
◇
一真の視界は暗かった。
音が遠い。
『AS-02、応答してください』 『AS-02、戦闘継続不可』 『AS-02――』
管制の声が、遠くで鳴っている。
身体が動かない。 息が苦しい。
床の冷たさだけが、はっきり分かる。
頭の中に、いくつもの顔が浮かんだ。
鬼塚。 黒瀬。 相良。 ユリ。
そして、啓介。
映像の中の啓介。 目の前の啓介。 どちらが本当なのか、まだ分からない。
南條の声が響く。
見たものだけで決めるな。
啓介の声も重なる。
ユリは俺を止めた。
一真は、暗闇の中で拳を握ろうとした。
動かない。
それでも、奥の方で何かが脈打った。
一度。 二度。
熱い。
胸の奥から、赤い熱が広がっていく。
腕部モニターに異常表示が走った。
AS-02。 未登録血反応。 赤血反応、確認。
一真の血装の隙間に、赤い線が走る。 血の流れのように。 炎の筋のように。
砕けた外装の下で、赤い光が脈打つ。
啓介の拳が再び迫る。
その拳を、一真の手が掴んだ。
床が割れた。
だが、一真は今度は押し潰されなかった。
啓介の目がわずかに動く。
一真はゆっくり目を開けた。
その瞳の奥に、赤い光が宿っていた。
「まだ……」
一真は低く言った。
「終わってねえ」
啓介が力を込める。
一真は押し返した。
さっきまで動かなかった身体が動く。 重かった腕が上がる。 崩れかけていた血装が、赤い線に支えられる。
一真は立ち上がった。
啓介の黒い力が迫る。 一真の赤い力がそれを受け止める。
衝撃が通路を揺らした。
◇
管制室が騒然となった。
「AS-02に異常反応!」
「黒血ではありません」
「血装反応、変質しています」
「赤い……?」
大型モニターに表示が出る。
AS-02。 未登録血反応。 赤血反応、上昇。
上席職員の表情が変わる。
「AS-02も監視対象へ移行」
職員たちが慌ただしく端末を操作する。
南條はその表示を見ていた。
驚きはなかった。 だが、目の奥に緊張が走る。
「……目覚めたか」
誰にも聞こえないほど低い声だった。
◇
啓介と一真は、通路の中央でぶつかっていた。
黒血の啓介。 赤血の一真。
啓介の拳が走る。 一真が受ける。
今度は吹き飛ばされない。
一真の拳が返る。 啓介が腕で受け止める。
衝撃で壁に亀裂が入る。
啓介の黒い線が腕を覆い、一真の血装には赤い線が走る。
黒と赤。 二つの血が、暗い通路でぶつかった。
「一真……」
啓介の声が、かすかに戻る。
「お前も……何なんだ」
一真は自分の腕を見た。
分からない。 自分に何が起きているのか、何一つ分からない。
だが、目の前の啓介は止めなければならない。 それだけは分かった。
一真は啓介を見据えた。
「知らねえよ」
赤い光が、血装の内側で脈打つ。
「でも、今のお前を止める力なら」
一真は拳を握った。
「それでいい」
啓介の黒血が唸る。 一真の赤血が応える。
警報音が、さらに強く鳴り響いた。
壊れた通路の中で、二人は再び踏み込んだ。




