第32話 脱出へ
二十一時四十分。
啓介は待機室の扉の前に立っていた。
外には監視員がいる。
天井には監視カメラ。
端末には、ユリから届いた確認通知が残っている。
AS-01経過確認。
二十一時四十分。
東側整備通路付近。
啓介は短く息を吐いた。
扉を開ける。
監視員がすぐに顔を向けた。
「AS-01。移動許可は確認されていますか」
「医療確認だ」
啓介は端末を見せる。
監視員は端末で照合した。
数秒の沈黙。
「確認しました。東側整備通路付近まで同行します」
「一人で行ける」
「規定です」
啓介は監視員を見た。
ここで揉めるわけにはいかない。
「分かった」
啓介は歩き出した。
監視員が後ろにつく。
廊下は静かだった。
昼間より照明は落ちている。
遠くで端末の確認音が鳴る。
何も起きていないように見える。
だが、啓介の胸の奥では、時間だけが早く進んでいた。
◇
ユリは東側整備通路の手前にいた。
端末には、監視カメラの更新状況が表示されている。
更新処理中。
巡回確認、遅延中。
残り時間、十一分。
思っていたより短い。
それでも、今しかなかった。
ユリは通路の奥を見る。
足音が近づいてくる。
啓介だった。
後ろに監視員が一人ついている。
ユリはすぐに表情を整えた。
「AS-01の経過確認です」
監視員が端末を見る。
「ここで行うのですか」
「黒血反応の移動時変化を確認します。医療監視室に記録済みです」
ユリは淡々と答えた。
監視員は少し迷ったが、端末上の予定と照合して頷いた。
「五分以内に終了してください」
「分かりました」
監視員が少し離れる。
その瞬間、ユリは小さく言った。
「今なら行ける」
啓介は頷く。
「時間は」
「十一分。たぶん、それ以下」
「十分だ」
「十分じゃない」
ユリは短く返した。
「でも、行くしかない」
二人は同時に動いた。
◇
東側整備通路の認証盤に、ユリがカードを当てる。
認証中。
医療確認補助経路。
一時通行許可。
扉が開く。
啓介とユリは中へ入った。
背後で扉が閉じる。
通路は狭かった。
壁には配管とケーブルが走っている。
床は鉄板で、足音が小さく響いた。
ユリは端末を確認しながら進む。
「この先で外周設備区画に出る」
「警備は」
「予定では少ない。でも、完全には分からない」
「分かった」
啓介は周囲を見ながら歩く。
このまま進めればいい。
そう思った時だった。
通路の奥に、人影が見えた。
警備員が二人。
巡回予定にはなかったはずの配置だった。
一人がすぐに端末を見た。
「AS-01、停止してください」
啓介とユリは足を止めた。
ユリが前に出る。
「医療確認中です」
「確認経路と現在位置が一致しません」
警備員が通信を開く。
「東側整備通路でAS-01とSP-07を確認。照合を――」
啓介が一歩前へ出た。
「通信を切れ」
警備員が拘束具を構える。
「AS-01、待機命令に従ってください」
別の警備員がユリに向かう。
「SP-07、こちらへ」
啓介の目が変わった。
拘束具が腕にかかった瞬間、啓介はそれを掴んだ。
金属が軋む。
警備員の顔色が変わる。
「なっ――」
啓介は拘束具を引き裂き、金属の輪がひしゃげ、床に落ちた。
啓介自身も、一瞬だけ自分の手を見た。
だが、次の警備員が動く方が早かった。
衝撃弾が撃ち込まれる。
啓介は避けず、腕で受けた。
そのまま踏み込み、相手の胸元を押す。
警備員の身体が通路の壁まで飛んだ。
ユリの息が止まる。
「啓介……」
黒血が、身体の内側から漏れている。
啓介はもう一人の警備員へ向き直る。
その目は、いつもの啓介とは明らかに違っていた。
「どけ」
低い声だった。
警備員が後退する。
啓介は進んだ。
◇
通路の警告灯が橙色に変わった。
管制側に、異常が届き始めている。
ユリは端末を見る。
AS-01、指定範囲外移動の可能性。
SP-07、医療確認経路逸脱。
照合中。
「急いで」
ユリが言う。
啓介は返事をしなかった。
その先の正規通路が閉じ始めていた。
外周設備区画へ向かう扉が、半分ほど下りている。
ユリが端末を操作する。
「待って。別の経路を――」
啓介は正面の壁を見た。
配管の奥にある厚い壁。
ユリが顔を上げる。
「啓介、そこは出口じゃない」
啓介は壁を見たまま言った。
「邪魔だ」
ユリの背筋が冷えた。
その言葉は、自分に向けられたものではない。
けれど、今の啓介には、目の前のものすべてが邪魔に見えている。
「啓介、やめて」
啓介は止まらなかった。
拳を振る。
壁に大きな亀裂が走った。
二撃目。
壁材が砕け、配管の一部が折れる。
警告音が短く鳴った。
三撃目で、人一人が通れるほどの穴が開いた。
冷たい風が流れ込む。
その先には、外周設備区画へ続く保守用の空間が見えた。
突破口はできた。
だが、ユリは喜べなかった。
啓介が壁に手をついたまま、動きを止めたからだ。
◇
「啓介?」
ユリが近づく。
啓介は右手を押さえていた。
呼吸が荒い。
額に汗が滲んでいる。
「……来るな」
掠れた声だった。
ユリは足を止めた。
「黒血?」
啓介は答えない。
右手の皮膚の下に、黒い線のようなものが浮かんでは消える。
ユリは端末を開いた。
AS-01黒血反応、急上昇。
外部干渉、継続中。
自我維持、低下。
ユリの表情が変わる。
「外から干渉されてる……」
TAIDAが啓介を止めるために起動した処理。
それが、逆に黒血を刺激している。
啓介は壁に指を食い込ませた。
「……音が、うるさい」
周囲に大きな音はない。
警告音。
端末の電子音。
遠くの足音。
そのすべてが、今の啓介には近すぎるのだろう。
啓介の視線が揺れる。
一瞬、ユリを見ているのに、ユリを見ていないようだった。
「啓介、私を見て」
ユリが言う。
啓介はゆっくり顔を向ける。
だが、反応が遅い。
「……ユリ」
名前を呼んだ。
それでも、声の奥には危うさが残っていた。
このまま進めば、啓介は本当に戻れなくなるかもしれない。
ユリは端末の地図を見た。
近くに医療制御端末がある。
東側整備通路の管理室。
そこからなら、AS-01への干渉値を一時的に下げられる可能性がある。
だが、その操作は権限外になる。
使えば、位置は確実に特定される。
ユリは顔を上げた。
「啓介、先に行って」
啓介の目が動く。
「何言ってる」
「このままだと、あなたの身体がもたない」
「外からの干渉を止める」
「一緒に来い」
啓介が言う。
苦しそうなのに、その言葉だけははっきりしていた。
ユリは首を振った。
「あなたがここに残ったら、もっと反応が上がる」
「だからって、お前を置いて――」
「置いていくんじゃない」
ユリは啓介を見た。
「私が決めるの」
啓介は言葉を失った。
ユリの声は震えていなかった。
「私は、また誰かに決められるのは嫌だった」
「だから、今は私が決める」
啓介の右手が震える。
黒い線がまた浮かびかける。
ユリは一歩下がった。
「行って」
「ユリ」
「行って。あなたがここで壊れたら、何も残らない」
啓介は歯を食いしばった。
戻りたい。
一緒に連れて行きたい。
だが、今の自分が戻れば、ユリを傷つけるかもしれない。
その事実だけは、啓介にも分かっていた。
ユリはもう一度言った。
「行って」
啓介は、砕いた壁の向こうを見た。
そして、一歩を踏み出した。
◇
ユリは啓介の背中を見送らなかった。
すぐに反対側へ走る。
東側整備通路の管理室。
扉の認証盤にカードを当てる。
警告表示が出る。
権限確認。
医療監視補助。
制御権限、不足。
ユリは端末を接続する。
「分かってる」
指を走らせる。
直接の制御はできない。
だが、医療監視側から干渉値の緊急低下申請を割り込ませることはできる。
成功する保証はない。
それでも、やるしかない。
画面に警告が重なる。
SP-07。
権限外操作。
操作履歴を記録します。
ユリは止めない。
AS-01干渉値。
強制拘束処理、稼働中。
黒血反応、上昇。
ユリは震える指を押さえ、最後の入力を行った。
干渉値、低下処理。
医療危険回避申請。
強制割込。
数秒。
長い数秒だった。
画面が切り替わる。
AS-01黒血反応、低下。
自我維持、回復傾向。
干渉波、一時停止。
ユリは小さく息を吐いた。
「……よかった」
その瞬間、背後の扉が開いた。
◇
警備員が三人、管理室へ入ってきた。
「SP-07、端末から離れてください」
ユリは振り返った。
逃げ道はない。
画面には、まだAS-01の反応が表示されている。
AS-01。
反応安定。
それだけを確認して、ユリは端末から手を離した。
「SP-07を確保」
警備員が近づく。
腕を取られる。
拘束具がかかる。
怖くないわけではなかった。
それでも、ユリは暴れなかった。
自分で選んだ結果だった。
◇
啓介は外周設備区画の奥へ進んでいた。
右手の震えは少しずつ収まっている。
呼吸も戻り始めていた。
だが、ユリが来ない。
振り返る。
戻ろうとする足が、一度止まる。
その時、警報が鳴った。
低い警告音が、通路全体に広がっていく。
管制放送が流れる。
『SP-07、確保』
『AS-01、所在不明』
『全区画、移動制限を開始』
啓介の顔から表情が消えた。
ユリが残った理由は分かっている。
自分を止めるためだった。
自分を、自分のままで行かせるためだった。
それでも、胸の奥が焼けるように痛んだ。
戻れば、すべてが終わる。
進めば、ユリを置いていくことになる。
啓介は拳を握った。
耳の奥に、ユリの声が残っていた。
『私が決めるの』
啓介は目を閉じた。
そして、前を向いた。




