第31話 静寂の夜
TAIDA本部の夜は、静かだった。
昼間のように人が行き交うことはない。
廊下の照明は少し落とされ、端末の確認音だけがところどころで鳴っている。
だが、止まっているわけではなかった。
AS-01。
二十二時以降、専用待機区画へ移送。
SP-07。
明朝八時、次段階照合区画へ移送。
それぞれの準備は、予定どおり進められていた。
職員たちは淡々と確認を行う。
移送担当。
同行職員。
監視員配置。
鎮静処置の可否。
通信端末の一時回収。
誰も声を荒げない。
静かなまま、啓介とユリの明日は組み替えられていく。
◇
ユリは医療監視室にいた。
表向きは、AS-01の経過観察データの確認。
端末上にも、そう表示されている。
だが、ユリが見ていたのは別の画面だった。
夜間保守予定。
東側整備通路。
外周設備区画。
巡回確認ログ。
監視カメラ更新時刻。
すべてを開けるわけではない。
閲覧できる範囲は限られている。
けれど、医療監視に関わる区画の通行予定なら、断片だけは見える。
ユリは指を止めない。
正面ゲートは無理。
地下搬入口も監視が多い。
非常搬出口は、使用すればすぐに警報が入る。
残るのは、夜間保守用の整備通路だけだった。
東側の外周設備区画。
二十一時四十分。
監視カメラの更新処理。
巡回確認の間隔、最大十二分。
ユリは画面を見つめた。
「……十二分」
長くはない。
むしろ、短い。
その時間で待機室付近の監視を抜け、東側整備通路へ入り、外周設備区画まで進む必要がある。
失敗すれば、その時点で終わる。
ユリは深く息を吸った。
怖くないわけではない。
でも、明日を待つ方が怖かった。
◇
啓介の待機室に、職員が来たのは二十時を少し過ぎた頃だった。
扉が開き、監視員二人と白衣の職員が入ってくる。
「AS-01。二十二時以降、専用待機区画へ移送します」
啓介は椅子に座ったまま、顔だけを上げた。
「聞いてる」
「移送後、単独行動は禁止となります」
「通信端末は一時回収」
「黒血反応の常時監視を開始」
「必要時、鎮静処置が許可されます」
淡々と読み上げられる。
啓介は、職員の声を聞きながら右手を見た。
昨日、黒くなりかけた腕。
自分の意思より先に動こうとした指。
それを押さえつけた感覚。
TAIDAは、それを危険だから止めようとしているのではない。
扱えるかどうかを調べている。
「端末は今すぐ回収か」
啓介が聞いた。
「移送時です」
「分かった」
職員は端末に記録を入力した。
「二十一時五十分以降は、待機室から出ないでください」
「その前なら?」
職員が一瞬だけ目を上げた。
「医療確認、または承認済みの移動に限ります」
「そうか」
啓介はそれ以上聞かなかった。
職員たちが出ていく。
扉が閉じる。
啓介は天井の監視カメラを見上げた。
二十一時五十分。
その前に動くしかない。
◇
ユリは医療監視室の端末から、短い確認通知を送った。
文面は自然なものにした。
AS-01経過確認。
二十一時四十分。
東側整備通路付近。
そのまま読めば、ただの医療確認に見える。
だが、啓介には十分だった。
ユリは送信後、すぐに履歴を通常確認ログへ紛れ込ませる。
完全に消すことはできない。
消せばかえって目立つ。
だから、目立たない形で残す。
それが今のユリにできる限界だった。
端末画面に、送信済みの文字が出る。
ユリは小さく息を吐いた。
もう戻れない。
◇
啓介の端末が短く震えた。
待機室の中で、啓介は画面を開く。
AS-01経過確認。
二十一時四十分。
東側整備通路付近。
それだけだった。
啓介は文面を見て、すぐに閉じた。
二十一時四十分。
東側整備通路。
ユリが見つけた時間と場所だ。
啓介は立ち上がり、扉へ向かった。
まだ早い。
だが、準備はしておく必要がある。
血装は使わない。
ここで騒げば、ユリまで逃げ場を失う。
啓介は自分に言い聞かせるように、静かに息を吐いた。
◇
一真は、落ち着かずに本部内を歩いていた。
理由は自分でも分からない。
啓介の顔。
あの沈黙。
「今は」と言った声。
それが頭から離れなかった。
ふと目に入った管制室へ入り、近くの職員に聞いた。
「啓介はどこだ」
職員は端末を確認した。
「AS-01は、二十二時以降に専用待機区画へ移送予定です」
「ユリは」
「SP-07は、明朝八時に次段階照合区画へ移送予定です」
一真の顔が険しくなる。
「また番号かよ」
職員は答えない。
一真は舌打ちし、通路へ出た。
何かがおかしい。
啓介もユリも、自分に何も言わない。
南條も何かを隠している。
全員が、何かを知ったまま黙っている。
それが一真には、どうにも腹立たしかった。
◇
南條は作戦管理端末の前にいた。
監査によって権限は削られている。
それでも、見える範囲はまだある。
AS-01。
二十二時以降、専用待機区画へ移送。
SP-07。
明朝八時、次段階照合区画へ移送。
東側整備通路。
二十一時四十分、夜間保守予定。
監視カメラ更新処理。
巡回確認、遅延許容範囲内。
南條の目が止まった。
偶然にしては、整いすぎている。
だが、まだ何も起きていない。
何かを止める理由もない。
南條は画面を閉じなかった。
「……静かすぎるな」
誰に向けた言葉でもなかった。
◇
一真は南條を見つけた。
作戦管理区画へ続く通路。
人の姿は少ない。
「南條さん」
南條は足を止める。
「何だ」
「啓介とユリ、何かする気じゃないんですか」
南條はすぐには答えなかった。
一真は続ける。
「今日の啓介、何か変でした」
「ユリも、何か隠してる」
「二人とも、明日には別区画へ移される」
南條は低く言う。
「変わらない方がおかしい」
「そういう話じゃない」
一真の声に苛立ちが混じる。
「知ってるなら教えてください」
「知ってどうする」
「もし、啓介たちが何か行動するとして、その意思をお前は力で止めるのか」
一真は黙った。
その通りだった。
啓介たちが何か危ないことをするなら、自分は止めに行く。
少なくとも、何も聞かずに見送ることなどできない。
「なら、止めるべきことなんですか」
南條は一真を見る。
「お前がそう判断するかは、お前次第だ」
「またそれですか」
「一真」
南條の声が少しだけ重くなった。
「今夜は、軽率に動くな」
一真の眉が動く。
「それ、何かあるって言ってるようなもんですよ」
「そう受け取るなら、それでいい」
南條はそれ以上言わず、歩き出した。
一真はその背中を見送る。
止めに行くな。
そう言われた気がした。
だが、何を止めるなと言われたのかは、まだ分からなかった。
◇
ユリは自室に戻っていた。
持っていけるものは少ない。
予備端末。
小型の医療キット。
認証カード。
必要な記録の断片。
荷物と言えるほどの量ではない。
むしろ、ほとんどを置いていくことになる。
ユリは部屋を見回した。
長く過ごした場所だった。
ここで眠り、ここで仕事へ向かい、ここで何度も朝を迎えた。
TAIDAは、自分を拾った場所でもある。
だが、自分を番号で呼び続ける場所でもある。
守られていたのか。
管理されていたのか。
その答えは、もう一つではなかった。
ユリは机の上に残していた端末通知を閉じた。
SP-07。
明朝八時、指定区画へ移動してください。
その文字は消えた。
だが、決定がなくなったわけではない。
ユリは小さく息を吐き、部屋の明かりを消した。
◇
二十一時三十五分。
啓介は待機室の中で立ち上がった。
監視員の交代まで、あと数分。
ユリからの合図は来ている。
扉の外には人がいる。
天井には監視カメラ。
すべてを避けることはできない。
それでも、動くしかなかった。
啓介は右手を握る。
黒血は静かだった。
このまま眠っていてくれればいい。
騒ぎを起こすために出るのではない。
自分たちのことを、自分たちで決めるために出る。
啓介は扉の前に立った。
同じ頃、ユリは東側整備通路へ向かっていた。
廊下は静かだった。
あまりにも静かだった。
だからこそ、足音が大きく聞こえた。
南條は端末の前で動かなかった。
一真は落ち着かないまま、別の通路を歩いていた。
同じ夜の中で、それぞれが違う場所にいた。
TAIDA本部は静まり返っている。
だが、その静けさの中で、もう誰も元の場所には戻れなかった。




