第3話 兄と弟と妹
赤い文字列が、静かに点滅していた。
南米第七施設
緊急対応要請
ユリはモニターを見つめたまま、しばらく動けなかった。
館内にはもう緊急招集の空気が広がっている。内勤区画では端末が次々と立ち上がり、各部署へ優先信号が飛び、職員たちが言葉少なに動き始めていた。
けれどユリの耳には、そうした音が少し遠く聞こえていた。
南米第七施設。
その施設コードを見た瞬間、胸の奥で何かがひっかかった。
知っているはずがない。直接関わった記憶もない。
それなのに、その数字の並びだけが妙に心に残る。
手が、わずかに冷たくなる。
「……どうした」
隣に立った啓介が低く問うた。
ユリははっとして首を振る。
「何でもない」
そう答えたものの、自分の声がいつもより少しだけ硬いのが分かった。
啓介はそれ以上追及しなかった。
ただ、短くユリを見て、それからまたモニターへ視線を戻した。
廊下の先では、南條光太の声が響いている。
啓介と一真への待機命令。十分後、作戦室集合。
ユリはもう一度だけモニターを見た。
南米第七施設。
数字の奥に、どこか古い匂いがあった。
白い廊下。消毒液。小さな足音。
そこまで浮かんで、記憶はゆっくりと別の時間へ沈んでいく。
◇
最初に覚えているのは、靴音だった。
硬い床を踏む大人の足音。
その少し後ろを、小さな靴がついていく音。
施設の玄関ホールは、いつも少しひんやりしていた。白い壁。磨かれた床。子どもの声が遠くで反響している。
その日、幼少の一真は、廊下の曲がり角からその様子を眺めていた。
「また来たな」
誰に言うでもなく呟く。
新入り。
といっても、小さな子どもではない。
背が高く、痩せていて、無表情な少年だった。まだ幼いのに、妙に大人びて見える顔。周囲を見ようともしない目。持っている荷物も少ない。
一真は鼻を鳴らした。
「感じ悪」
声に出したつもりはなかった。
けれど、その少年はぴたりと足を止め、一真のいる方を見た。
視線が合う。
ぞくりとした。
怒っているわけではない。睨んでいるわけでもない。
ただ何もないような目で見返されたことが、一真には妙に面白くなかった。
「……何だよ」
強がって胸を張る。
少年は何も答えない。
その隣にいた若い職員が、苦笑して肩をすくめた。
「やめとけ、一真。初日から噛みつくな」
南條光太だった。
今よりずっと若い南條は、白衣ではなく施設職員用のラフなシャツ姿で、まだ研究者というより現場の兄貴分といった雰囲気が強かった。整った顔立ちよりも、まず先に目の鋭さが印象に残る男だったが、子どもたちには必要以上に威圧的ではなかった。
「別に噛みついてねえし」
「顔がそう見える」
一真が口を尖らせると、南條は小さく笑った。
それから隣の少年を軽く見た。
「風間啓介。今日からここで暮らす」
そう紹介されても、啓介は口を開かなかった。
一真は腕を組む。
「ふーん。新入りのくせに、挨拶もなし?」
啓介は一真を見た。
そして、本当に最低限の声量で言った。
「……別に、お前に世話になるわけじゃない」
一真の眉が跳ね上がる。
「は?」
南條が額を押さえた。
「初日からやるなよ、お前ら……」
けれどその声音には、本気で困った響きより、どこか呆れた兄のような響きが混じっていた。
◇
啓介は最初から、施設の中で少し浮いていた。
理由は単純だった。
他の子どもたちと混ざろうとしない。騒がない。媚びない。泣きもしない。
黙っていて、必要なことしか言わない。
だから、気になる。
一真は気に入らなかった。
同い年でもない。二歳上。あとから来たくせに落ち着いていて、何を考えているのか分からない。
それに何より、一真が知っている“大人に守られる子ども”の顔をしていなかった。
ある日の夕方。
中庭の隅で、一真は年上の子どもたちに囲まれていた。
「お前、生意気なんだよ」
「南條さんに気に入られてるからって調子乗るな」
一真は舌打ちする。
「うるせえよ」
言い返した瞬間、肩を押された。
よろける。
次に来る手を、一真はとっさに避けようとした。だが、その前に別の腕が間に入った。
啓介だった。
啓介は何も言わず、一真の前に立った。
年上の子どもたちは一瞬たじろぐ。
「何だよ、お前」
啓介は答えない。
その無言が、妙に相手を苛立たせた。
拳が飛ぶ。
啓介は半歩だけずれて避ける。次の腕を掴み、そのまま体勢を崩した。喧嘩慣れしている動きだった。大きな音を立てたわけではないのに、相手は尻もちをつく。
残った二人も構えたが、その時、南條の声が飛んだ。
「おい!」
その一声で空気が変わる。
年上の子どもたちは露骨に顔をしかめ、舌打ちを残して去っていった。
一真は地面に手をついたまま、啓介を見上げた。
「……別に、助けなくてもよかったのに」
啓介は視線を逸らしもしない。
「うるさかった」
「は?」
「泣かれたら面倒だろ」
「泣いてねえし!」
啓介はそれ以上何も言わず、そのまま歩き去った。
一真は腹が立った。
でも同時に、さっき自分の前に立った背中が妙に頭に残った。
礼を言うのは負けた気がした。
「……今のは俺でもできた」
去っていく背中に向けて、わざと聞こえるように言う。
啓介は振り返らない。
一真は地面を蹴った。
「何なんだよ、あいつ」
その呟きを、少し離れたところで見ていた南條が聞いていた。
南條は煙草も吸わずにただ壁に寄りかかり、苦笑していた。
「気になるんだな」
「ならねえよ」
「そういう顔してる」
「してない」
南條は笑い、何も言わなかった。
◇
ユリが施設に来たのは、それから二年後だった。
十三歳になった啓介はもう誰にも簡単には絡まれなくなっていたし、十一歳の一真は相変わらず口ばかり達者で、でも昔よりずっと施設の中をうまく立ち回るようになっていた。
その日も、夕方の玄関ホールには冷たい空気が流れていた。
南條が帰ってくる。
そう聞いて、一真は特に意味もなく見に来ていた。啓介は壁際のベンチに座って、本を開いていた。
興味がなさそうな顔をしていたが、帰ってきた南條の足音に、ページをめくる手が一度止まった。
南條の隣には、小さな女の子がいた。
年齢は六つか七つ。
肩までの髪は少し乱れていて、手に握った小さな鞄だけがやけに強く抱えられている。俯いていて、顔もよく見えない。
一真が先に口を開いた。
「……誰」
南條は、いつもより少しだけ静かな声で言った。
「今日からここで暮らす。御崎ユリだ」
返事はない。
ユリは顔を上げなかった。
一真は眉をひそめる。
「泣いてんのか?」
「やめろ」
南條に軽く制され、一真は口をつぐむ。
その間に、啓介が立ち上がっていた。
誰よりも先にユリの前まで歩いていき、その手から鞄を取る。
ユリがびくっと肩を震わせた。
「……持つ」
それだけ言って、啓介は鞄を抱えた。
優しい声ではない。ぶっきらぼうで、短い。
でも拒絶でもなかった。
一真はそのやり取りを見て、少しだけ目を丸くした。
「お前、そういうことするんだ」
啓介は見向きもしない。
「部屋、どこ」
南條が答える前に、一真が口を挟んだ。
「こっち。案内する」
言いながら自分でも、なぜそんなことを言ったのか少し分からなかった。
ただ、泣きそうな小さい子をそのままにしておくのは、妙に落ち着かなかった。
ユリは啓介と一真を交互に見た。
怯えている。けれど、泣きはしない。
それが余計に幼く見えた。
南條はそんな三人を見て、ほんのわずかだけ表情を緩めた。
「頼む」
◇
最初の数日は、ユリはほとんど喋らなかった。
食堂でも静かで、部屋でも静かで、誰かに話しかけられても小さく頷くだけ。
啓介は無理に話しかけない。
一真は最初こそ「そんなに黙ってると余計怖いだろ」と言っていたが、すぐにそれもやめた。
変わったのは、ある日の夕食だった。
ユリがトレイを持ったまま、どこに座ればいいのか分からず立ち尽くしていた。
周りの子どもたちは視線だけ向けて、誰も呼ばない。
一真が先に気づいた。
「おい、こっち」
ユリが顔を上げる。
啓介はすでに自分の席の隣へ視線を向けていた。
何も言わない。
でもそこが空けられている。
ユリは小さく歩いてきて、そこへ座った。
それから少しずつ、三人でいる時間が増えた。
啓介は喋らないが、ユリが困る前には動く。
高い棚の物を取る。重いものを持つ。誰かに絡まれそうなら前に立つ。
一真は口で文句を言いながらも、道を教え、食堂のルールを教え、ユリが泣きそうな時は話題を変える。
ユリは二人の後ろをついて歩くようになった。
そのうち、笑うことも増えた。
最初に啓介へ向けた笑顔は小さかった。
一真にはその倍くらい分かりやすく笑った。
それで一真が得意げになると、啓介が呆れたような目をした。
「何だよ」
「別に」
「今バカにしただろ」
「してない」
「してる顔だろ」
ユリが小さく笑う。
その声が聞こえると、なぜか二人とも少しだけ言い合いをやめた。
南條は廊下の角からその様子を見ていた。
見て、笑った。
でもその笑顔は、どこかで少しだけ痛そうでもあった。
◇
温かい記憶ばかりではなかった。
施設には、時々妙な静けさが落ちる日があった。
定期検査の日だ。
その日だけは、職員の足音が硬い。
呼ばれる順番も、声の調子も、いつもと違う。
子どもたちは番号で呼ばれることがある。
名前ではなく、記号のような数字で。
啓介はそれが嫌いだった。
一真も表には出さないが、好きではなかった。
ユリは最初、それが当たり前だと思っていたのか、何も言わなかった。
ある日、ユリだけ検査室から戻るのが遅かった。
一真が苛立ったように廊下を歩き回る。
「長すぎだろ」
啓介は壁に寄りかかったまま、扉を見ていた。
ようやく開いた扉から出てきたユリは、少し顔色が悪かった。
南條が後ろについている。
「大丈夫か」
一真が聞くと、ユリは頷いた。
けれど、その頷きは弱い。
啓介の視線が南條へ向く。
無言の問いだった。
南條は一拍だけ黙ったあと、低く言った。
「いつも通りの検査だ」
一真が鼻を鳴らす。
「その言い方、全然いつも通りじゃないんだけど」
「一真」
「何だよ」
南條はすぐには答えなかった。
それからユリの頭へ軽く手を置く。
「今日は休ませる。食堂は後でいい」
ユリは小さく「はい」と答えた。
啓介はその横顔を見ていた。
何かおかしい。
けれど何がどうおかしいのか、まだ言葉にはできない。
その違和感だけが、薄く胸に残った。
◇
現在へ戻る。
ユリは知らず知らずのうちに、自分の指先を強く握っていた。
モニターの赤い文字列はまだ消えていない。
南米第七施設。
喉の奥が少し乾く。
幼い頃の施設の空気。
定期検査の日の静けさ。
南條の曇った目。
説明できない何かが、南米第七施設のコードを見た瞬間に胸の底から浮き上がってきた。
「……ユリ」
一真の声がして、ユリは振り向いた。
すでに装備区画へ向かう途中らしく、制服の上から軽装の戦闘ジャケットを羽織っている。
「呼ばれてる。南條さん、作戦室だって」
「うん」
頷いて立ち上がる。
その時、一真が少しだけ不思議そうにユリを見た。
「顔、悪いけど」
「平気」
「啓介と同じこと言うなよ」
一真は半分呆れたように笑った。
それが昔と変わらなくて、ユリもほんの少しだけ息を吐いた。
その先の廊下には啓介がいた。
壁際で待つように立っている。何も言わない。
でも、ユリと一真が来るのを待っていたのは分かった。
一真が肩をすくめる。
「ほら、兄貴分が待ってる」
「誰が兄貴分だ」
「昔からそうだろ」
啓介は軽く睨む。
一真は笑う。
ユリはその二人を見て、胸の奥が少しだけ締まった。
あの頃も、何かが始まる前には空気が少しだけ違っていた。
それが何だったのか、当時のユリには分からなかった。
そして今も、まだ分からないままだった。
ただ一つ分かるのは、三人で同じ方を向いて歩ける時間が、ずっと続くわけではないのかもしれないということだけだった。
ユリは小さく息を吸い、二人の後を追った。
南米第七施設。
その名が、三人の運命を大きく動かし始めていることを、まだ誰も知らないまま。




