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DARKNESS ―奪われた自由のために―  作者: Ilysiasnorm


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第2話 DARKNESS

暗闇の底で、乾いた電子音が鳴っていた。

『――ダークネス、出ろ』

 低い男の声が、意識の奥を叩く。

『対象、移動を開始した。繰り返す。ダークネス、出ろ』

 雨音はもうない。

 代わりに耳へ流れ込んでくるのは、無機質な通信音と、遠くで回る換気装置の低い唸りだった。

 風間啓介はゆっくりと目を開けた。

 薄暗い待機室。壁一面のモニター。時計の針は午前二時を少し回っている。黒い戦闘服の上着を掴むと、啓介は無言で立ち上がった。

 端末の画面には、対象の現在位置が表示されている。

 都心部の外れ。再開発から取り残された古いオフィス街。雨こそ降っていないが、夜気は湿っていた。

『三分以内に接触可能地点へ入れ』

「了解」

 短く返し、啓介は通信を切った。

 部屋を出る。

 通路は白く、清潔すぎるほど清潔だった。人を守るための施設ではない。人を管理し、消耗させ、入れ替えるための施設。そんな冷たさが、ここには最初から染みついている。

 エレベーターの扉が開く。地上階。

 待機していた無人車両に乗り込むと、運転席のない黒塗りの車は静かに走り出した。

 目的地に着くまで、啓介は一度も窓の外を見なかった。

     ◇

 古びた雑居ビルの屋上。

 ビル風が、啓介の前髪をわずかに揺らした。

 双眼スコープ越しに見えるのは、通りを早足で歩く一人の男。

 四十代半ば。地方支部の会計担当だった人間。表向きは失踪扱いだが、実際は機密情報を持ったまま外部と接触しようとしている。回収、もしくは処理。命令はそれだけだった。

 男は何度も後ろを振り返っていた。

 気づいている。追われていることを。

 だが遅い。

 啓介はスコープを外すと、屋上の縁に片足をかけた。四階分の高さなど躊躇う理由にならない。次の瞬間には、闇へ溶けるように落下していた。

 着地音はほとんど出ない。

 地面へ降りた啓介は、そのまま建物の影を滑るように進む。

 対象は細い路地へ入った。

 外灯が一本切れている。逃げ込むには悪くない暗さだ。だが、それは追う側にも同じことだった。

 啓介は路地の出口側へ先回りし、壁に背を預けて立った。

 数秒後、男が飛び込んでくる。

 啓介を見た瞬間、その顔から血の気が引いた。

「ひっ……!」

 啓介は何も言わない。

 男は震える手で拳銃を抜いた。銃口が定まるより早く、啓介の身体はもう動いていた。

 踏み込みは一歩。

 銃を持つ手首を払う。鈍い音とともに拳銃が弾かれる。男が悲鳴を上げる前に、啓介の肘が鳩尾へ沈んだ。呼吸が詰まる。膝が折れる。その肩を掴み、壁へ叩きつける。

「待っ……待ってくれ……! 金なら――」

「お前に訊くことはない」

 啓介の声は低く、乾いていた。

 男は啓介の腕を振り払おうとし、爪を立てる。必死の抵抗だった。だがその程度で揺らぐほど、啓介は軽くなかった。

 耳の奥で通信が入る。

『対象確認。生体反応正常。回収優先だ』

「了解」

 啓介は男の首筋へ小型注射器を押し当てた。薬液が流れ込む。男の身体から力が抜け、白目を剥いて崩れ落ちた。

 任務完了。

 それだけのはずだった。

 だが、男が倒れる寸前に啓介の左脇腹へ爪を引っかけた。布が裂ける。そこに古い傷があった。浅くはない。完全に塞がっていたはずだが、嫌な熱が走る。

 啓介は一瞬だけ眉を寄せた。

『どうした』

「問題ない」

『……回収班が着くまで三十秒』

「持つ」

 啓介は男の身体を乱暴に引きずり、路地の奥へ寄せた。回収班の無人搬送車が静かに入り込んでくる。

 それを見届け、啓介は踵を返した。

 夜の路地は静かだった。

 まるで、今ここで一つ人生が消えかけたことなど最初から存在しなかったように。

     ◇

 堕闇《Taida》本部は、夜でも昼でも同じ色をしていた。

 白。灰。黒。

 感情を塗りつぶすための色だ。

 報告室のドアが開く。

 中には南條光太がいた。端末を前に座り、資料へ視線を落としている。顔を上げたのは、啓介が入ってから三秒後だった。

「結果は」

「対象確保。外部接触前に回収完了」

「損耗は」

「なし」

 啓介はそう答えたあと、一瞬だけ間を置いた。

「軽微な裂傷」

 南條の視線が啓介の左脇腹へ落ちる。

 しかしそれ以上は聞かない。

「なら問題ない」

 端末へ視線を戻し、南條は短く入力を済ませる。

「今回も処理は綺麗だ。回収班からの報告でも、痕跡は最低限に抑えられている」

 褒め言葉には聞こえなかった。

 評価ではある。だが、それ以上でもそれ以下でもない。

「次の待機命令が出るまで自由だ」

「了解」

 踵を返しかけた啓介へ、別の声が飛んだ。

「相変わらずだな、お前は」

 壁際にもたれていた青年が、ゆっくり身を起こす。

 剣城一真だった。

 年は啓介より少し下。鋭い目と、必要以上に崩さない姿勢。堕闇の中でも実戦能力は高い。だが、啓介にだけはまだ届かない。

「また最前列か。さすが“ダークネス”は扱いが違うな」

「任務が回るだけだ」

「そういうところだよ」

 剣城は鼻で笑った。

 軽口の形をしているが、奥にあるのは対抗心だ。

「お前がいなければ、俺が出てた案件もいくつかある」

「なら次は取れ」

「簡単に言うな」

 啓介はそれ以上返さなかった。

 剣城が舌打ち混じりに息を吐く。

 南條は二人のやり取りを止めない。止める必要がないからだ。感情の衝突も、管理できる範囲ならただの資源でしかない。

「剣城、お前にも次の案件が来る。焦るな」

「焦ってません」

 そう答える声には、少しだけ熱が混じっていた。

 啓介は報告室を出た。

     ◇

 負傷処置室の照明は、少しだけ柔らかい。

 他の区画と比べれば、だが。

 無人のはずのそこに、人影があった。

 端末に向かい、記録を確認していた女が顔を上げる。

 御崎ユリだった。

 白い照明の下でも、その目だけは妙に静かだった。啓介はその目を知っている。誰かに向けて簡単に開かれる目ではない。

「帰ったのね」

「ああ」

 ユリの視線が、啓介の脇腹へ落ちる。裂けた布の部分で止まった。

「……右じゃなくて左」

「浅い」

「あなたの浅いは信用できない」

 ユリは端末を閉じ、処置台の横へ歩み寄った。

 手袋をはめる動作が無駄なく綺麗だ。派手な仕草はない。けれど、それだけでこの女性が堕闇《Taida》の中でも違う場所にいることが分かる。

「座って」

「問題ない」

「そう言って、前も開いた」

「見てたのか」

「記録に残るから」

 そう言いながらも、ユリの声は少しだけ柔らかかった。

 啓介は小さく息を吐き、処置台へ腰を下ろした。ユリが布をめくる。傷口を見た途端、眉が寄った。

「浅くない」

「死なない」

「そういう話じゃない」

 消毒液が傷へ触れる。

 鈍い痛み。だが顔には出さない。出したところで何かが変わるわけでもない。

 ユリは淡々と処置を進めた。

 ガーゼ、固定、止血確認。指先に迷いがない。

「無茶しすぎ」

「任務だ」

「任務なら壊れてもいいの」

「壊れてない」

 その返答に、ユリの手が一瞬だけ止まる。

「……あなたはいつも、自分の傷を軽く見すぎる」

 責める口調ではなかった。

 むしろ、どうしようもなく知っている者の声だった。

 啓介は少しだけ視線を落とした。

「お前に言われると、無視しにくい」

 ユリの目が、ほんのわずかに揺れる。

 だが彼女はすぐに表情を戻し、固定具を締めた。

「終わり。今日は安静にして」

「努力する」

「しない顔してる」

「……記録に残るか?」

「残す」

 その答えに、啓介はわずかに口元を緩めた。

 たぶん、笑ったと呼べるほど大きくはない。けれどユリはそれを見逃さなかった。

 その沈黙は居心地が悪くない。

 堕闇《Taida》の中では珍しい種類の沈黙だった。

     ◇

 本部の上層フロアへ戻る廊下で、啓介は大型モニターの前を通る。

 無音で流れる世界ニュース。

 字幕だけが冷たく並んでいた。

《南米地域で武装衝突激化》

《欧州難民支援、thejapan系財団が追加援助》

《孤児保護プログラム拡大へ》

 啓介は足を止めなかった。

 けれど、ユリは隣で一瞬だけ画面を見た。

「また増えてる」

「何が」

「保護施設の数」

 啓介は画面を一瞥する。

 白い建物。笑う子ども。支援物資。慈善の顔。

「いいことなんじゃないのか」

「……そうならいいけど」

 ユリはそれ以上言わなかった。

 だが、言葉の端に小さな引っかかりが残った。

 その時、廊下の先から早足の足音が響く。職員の一人が南條のもとへ駆け込んでいくのが見えた。

 数秒後、館内の空気が変わった。

 緊急呼び出しの低い電子音。

 普段の任務連絡とは違う、ひとつ階層の深い優先信号。

 啓介とユリは足を止める。

 モニターには、赤い封鎖指定の文字列が表示された。

南米第七施設

緊急対応要請

 その下にはさらに細かい表示。

現地部隊応答なし

通信途絶

生体反応異常

至急、精鋭部隊招集

 ユリの目が、その施設コードで止まった。

 ほんの一瞬。

 だが確かに何かを思い出しかけたような、不自然な空白が生まれる。

「……どうした」

 啓介が問うと、ユリはすぐに首を振った。

「何でもない」

 その声はいつも通りだった。

 けれど、完全にはいつも通りではなかった。

 啓介は画面を見上げたまま、理由のないざわつきを覚える。

 嫌な予感だった。

 ただの任務では終わらない。

 まだ何も始まっていないのに、そう思った。

 廊下の先で、南條光太の低い声が響く。

「風間啓介、剣城一真、即時待機。詳細は十分後、作戦室で通達する」

 命令が落ちる。

 啓介はゆっくり息を吐いた。

 ユリは何も言わず、ただ赤い文字列を見つめている。

 南米第七施設。

 その名が、この先のすべてを変えることを、まだ誰も知らない。

 だが確かに、何かが始まっていた。

 静かに。

 取り返しのつかない形で。

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