第20話 欠けた記憶
端末には、まだ啓介の検査記録が残っていた。
DARKNESS黒血反応、再上昇。 神経同調異常、確認。 筋肉信号、意思反応に先行。
ユリはその文字を見つめていた。
白い照明。 静かな機械音。 閉じられた扉。
いつもの医療区画のはずなのに、空気が重い。
ユリは端末を操作し、啓介の検査記録を保存しようとした。 その時、上層部からの通知が画面に残っていることに気づいた。
AS-01を監視対象から管理対象へ移行。 必要時、拘束・鎮静を許可。 単独行動制限を強化。
ユリの指が止まる。
「管理対象……」
啓介は捕食者だった。 堕闇最強のハンターだった。 それが今、管理される側へ移されようとしている。
ユリは奥歯を噛んだ。
その下に、もう一つ通知が残っていた。
SP-07関連記録、再照合継続。 母胎適合候補との一致率、再検査中。
ユリの目が、その文字で止まった。
SP-07。
自分の識別コードだった。
「……どうして」
小さな声が漏れる。
啓介の黒血検査の通知に、なぜ自分の記録が並んでいるのか。 しかも、母胎適合候補。
ユリはその言葉を見つめた。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
聞いたことがない言葉ではない。 だが、自分に関わるものとして見たことはなかった。
ユリはすぐに通知の詳細を開こうとした。
画面が切り替わる。
権限がありません。
白い文字が、ただそれだけを告げていた。
ユリはもう一度、認証を入れる。
同じ言葉が並ぶ…
権限がありません。
ユリは端末を握る手に力を込めた。
「私の記録なのに……」
◇
ユリは自分の医療記録を開いた。
何度も見た画面だった。 だが、今は違って見えた。
御崎ユリ。 識別コード、SP-07。 血液適合率、A-Prime。 所属、堕闇内勤区画。 戦闘適性、限定。 初期保護記録、欠損。 出生記録、未登録。 移送元、非公開。 初期検査担当、非公開。
白い画面に、整った文字が並んでいる。
昔から、違和感はあった。
施設出身者の記録は、完全ではないことが多い。 紛争地から保護された者。 身元不明の孤児。 出生登録のない子ども。
そう説明されれば、それ以上聞けなかった。
けれど、南米第七施設を知った今、その空白の意味は変わって見える。
欠けているのではない。
隠されている。
ユリは自分の記録をさらに下へ送った。
古い検査番号。 移送履歴。 保護登録時の担当者。
どれも重要な箇所だけが伏せられている。
ユリは、何度も同じ項目を見返した。
初期保護記録、欠損。
たった一行。
だが、その一行の向こうに、自分の始まりが隠れている。
「私は……どこから来たの」
誰も答えない。
端末の電子音だけが、小さく鳴っていた。
◇
ユリは、啓介の黒血関連記録と自分の記録を照合した。
本来なら、関係があるはずはない。
啓介はAS-01。 自分はSP-07。
啓介は戦闘適合者。 自分は内勤支援。
それなのに、古い検査番号の一部が同じ階層に引っかかった。
ユリは表示された断片を見つめる。
S-07系統。 SP候補群。 A-Prime適合。 初期検査完了。 保持対象。
胸の奥が冷える。
S-07。
南米第七施設で見た番号。 児童適合群の管理タグに刻まれていた番号。
もちろん、同じ意味とは限らない。 施設コードの一部かもしれない。 系統番号の偶然かもしれない。
でも、ユリの身体は先に拒んだ。
南米第七施設のモニターを見た時と同じ感覚。 胸の奥に引っかかる、説明できない冷たさ。
画面の文字が、少し滲んで見えた。
その瞬間、記憶ではない何かが浮かぶ。
白い廊下。
消毒液の匂い。
小さな手を、誰かに引かれている感覚。
靴音。
大人の声。
『この個体は残せ』
ユリは息を止めた。
今の声は何だったのか。
男の声だった。 低く、淡々としていた。 感情のない声。
だが、それが誰だったのかは分からない。
次に、冷たい検査台の感触が浮かんだ。
腕を押さえられる。 首元に何かを当てられる。 名前ではなく、番号で呼ばれる。
SP-07。
いや。
それは本当に自分の記憶なのか。
ユリは目を閉じた。
思い出そうとすると、記憶は遠ざかる。 掴もうとすると、霧のように消えていく。
ただ、身体だけが覚えていた。
白い壁。 消毒液。 大人の手。 番号。
ユリはゆっくり目を開けた。
端末の画面には、まだ同じ文字が残っている。
保持対象。
「……何のために」
◇
南條は作戦室にいた。
大型モニターには、南米第七施設の処理記録が表示されている。 だが、南條はそれを見ていなかった。
机の端末に、上層部への返信文を作っている途中だった。
DARKNESS黒血反応。 SP-07再照合。 外部送信経路。 AL-α待機準備。
今はどれも表に出すべきではない。
南條は眉間を押さえた。
その時、作戦室の扉が開いた。
ユリが立っていた。
「御崎」
南條は顔を上げる。
ユリは一歩、中へ入った。
表情は落ち着いている。 だが、その顔色は少し白かった。
「聞きたいことがあります」
「今は休め」
「答えてください」
短い声だった。
南條は手を止めた。
ユリはまっすぐ南條を見る。
「私は、どこから来たんですか」
作戦室の空気が止まった。
南條は何も言わなかった。
ユリは続ける。
「出生記録がありません」 「初期保護記録も欠けています」 「移送元も非公開」 「初期検査担当も非公開」
言葉は静かだった。 だが、一つ一つが刃のように落ちた。
「私は、何処の施設出身者なんですか」
南條は目を逸らさない。
「お前は堕闇の職員だ」
「そういう答えが欲しいわけじゃありません」
ユリの声が少しだけ揺れる。
「南米第七施設と、私の記録は関係ありますか」
南條の指が、わずかに止まった。
本当に小さな反応だった。 だが、ユリは見逃さなかった。
「……あるんですね」
南條は低く言った。
「今は知るべきではない」
ユリの目が揺れた。
「それは、私の記録です」
「知れば戻れなくなる」
「もう戻れていません」
その言葉は、啓介と同じだった。
南條の表情がわずかに硬くなる。
ユリは一歩近づいた。
「私は、保護されたんですか」 「それとも、選別されたんですか」
南條は答えない。
「母胎適合候補とは何ですか」
南條の目がわずかに細くなった。
ユリはその反応で、確信した。
南條は知っている。 少なくとも、自分より多くのことを知っている。
「南條さん」
呼び方は昔のままだった。
「私に、何を隠しているんですか」
南條はしばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「守るためだ」
ユリは小さく首を振った。
「何からですか」
答えは返ってこない。
「組織からですか」 「私自身からですか」 「それとも、啓介からですか」
南條は目を伏せなかった。 だが、答えもしなかった。
ユリは静かに言った。
「隠されたまま守られるのは、もう嫌です」
南條の表情がほんの少し変わる。
痛みに近いものだった。
「御崎」
「私は、自分のことを知りたい」
南條は口を開きかけた。 だが、何も言わなかった。
ユリはそれを見て、深く息を吐いた。
「分かりました」
背を向ける。
「自分で調べます」
「御崎」
南條の声が追う。
ユリは振り返らない。
「止めないでください」
そのまま、作戦室を出ていった。
扉が閉まる。
南條は一人、残された。
しばらく動かなかった。
やがて、低く呟く。
「……早すぎる」
その声には、焦りと後悔が混じっていた。
◇
廊下で、ユリは足を止めた。
壁に手をつく。
呼吸が少し乱れていた。
南條は否定しなかった。
それだけで、十分だった。
私の記録は、ただの不備ではない。 意図的に伏せられている。
そして、その理由は自分の身体か、血か、適合率にある。
「……嫌」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
その時、廊下の向こうから啓介が歩いてきた。
右手を軽く押さえている。 黒血の検査の影響がまだ残っているのだろう。
啓介はユリを見て、すぐに表情を変えた。
「何かあったのか」
ユリは首を振りかけた。
いつものように、何でもないと言えばいい。 そう思った。
だが、言葉が出なかった。
啓介は近づく。
「ユリ」
ユリは少しだけ目を伏せた。
「私の記録も、欠けてる」
啓介の目が細くなる。
「前に言っていたやつか」
ユリは頷いた。
「でも、ただの欠損じゃない」 「啓介の黒血反応と同じ場所で、隠されてる」
啓介の顔が変わった。
「お前まで……」
ユリは自分の両手を見た。
「私は、ただの後方支援だと思ってた」 「前列ではない」 「前列にいる人たちを支える側だって」
少し間を置く。
「でも、違うのかもしれない」
啓介は静かに聞いていた。
ユリの声がさらに低くなる。
「SP-07」 「A-Prime」 「母胎適合候補」 「保持対象」
啓介の表情が硬くなった。
「その言葉をどこで見た」
「私の記録の奥」
「南條さんは」
「知ってる」
ユリは短く答えた。
「でも、話してくれない」
啓介は拳を握った。
右手に力が入る。 だが、すぐに緩めた。
ユリがそれに気づく。
「無理に動かないで」
「放っておけるか」
「今のあなたが動けば、すぐに止められる」
「それでも」
啓介はユリを見る。
「お前のことだ」
ユリは言葉を失った。
啓介は続ける。
「俺の身体も、お前の記録の事も何か隠されている」 「なら、関係がある」
「でも今は危険よ」
「分かってる」
「分かってない」
ユリの声が少しだけ強くなる。
「あなたは今、管理対象にされかけてる」 「単独行動も制限される」 「黒血がもう一度反応したら、次は本当に拘束されるかもしれない」
啓介は黙った。
ユリは小さく息を吐く。
「だから、今は私が調べる」
「一人でか」
「一人じゃない」
ユリは啓介を見た。
「あなたがいる」
啓介は何も返せなかった。
白い廊下の中で、二人はしばらく向かい合っていた。
どちらも、自分自身のことが分からなくなっている。
啓介は自分の身体を。 ユリは自分の過去を。
組織に握られている。
◇
夜。
ユリは医療区画へ戻った。
正規の経路では、もう開けない。 ならば、別の経路を使うしかない。
通信補助回線。 検査データの一時保存領域。 古い認証ログ。 南米第七施設から持ち帰られた破損データの照合痕。
ユリは複数の画面を開き、手早く組み替えていく。
違法に近い。 いや、組織の内部規定では完全に違反だ。
それでも、手は止まらなかった。
数秒だけでいい。
自分の記録の奥を見ることができればいい。
セキュリティに何度も弾かれる。
権限がありません。 接続拒否。 認証失敗。 上位承認が必要です。
ユリは諦めなかった。
さらに古い検査番号を入力する。
S-07系統。 SP候補群。 A-Prime。
画面が一瞬だけ黒くなる。
次の瞬間、短い記録が開いた。
ユリは息を呑む。
SP-07。 A-Prime。 初期適合検査、完了。 保持対象。 移送処理、国内中枢施設へ。 母胎適合候補、照合継続。 関連施設、第七系統。
文字が、目に刺さる。
ユリはさらに下へ目を走らせた。
そこに、一行だけ表示されていた。
保持理由。 次世代適合計画に必要。
ユリの呼吸が止まる。
「……必要」
その言葉が、自分の胸の中でひどく冷たく響いた。
必要だから残された…
ユリは画面に手を伸ばした。
その瞬間、端末が強制的に切り替わる。
権限がありません。
白い画面。
それだけ。
ユリは動けなかった。
画面に映る自分の顔が、ひどく遠く見えた。
◇
白い廊下が浮かんだ。
幼い自分が歩いている。
誰かに手を引かれている。 見上げても、顔は見えない。
大人の声がする。
『この個体は残せ』
別の声。
『A-Prime反応、確認』
冷たい検査台。
腕に走る痛み。
泣きたかった。 でも、声が出なかった。
名前を呼ばれた記憶はない。
番号だけがあった。
SP-07。
ユリははっとして目を開けた。
医療区画だった。
白い壁。 白い照明。 冷たい端末。
昔の白い廊下と、今の医療区画が重なる。
自分は拾われたのか。 保護されたのか。 それとも、最初から選ばれていたのか。
答えは、白い画面の向こうで閉ざされている。
ユリはゆっくりと端末から手を離した。
その指先は、わずかに震えていた。
「私は……」
声は途中で止まった。
自分が何者なのか。 今までよりも、分からなくなっていた。
ただ一つだけ、はっきりしたことがある。
記録は欠けているのではない。
意図して何かが、それを見せないようにしている。
そして、それは隠された場所に、きっとある。




