第18話 残された声
南米本部の仮眠区画は、静かだった。
照明は落とされている。 壁際の端末だけが、薄い青い光を放っていた。 負傷者用の簡易ベッドが並び、何人かの隊員が眠っている。
眠っている、ように見えた。
呻き声。 寝返り。 包帯の擦れる音。 誰も、本当に眠れてはいなかった。
一真も、その一人だった。
ベッドに横になってはいた。 だが、目は閉じられない。
閉じれば、あの音が戻ってくる。
金属が軋む音。 異形の爪がシャッターを叩く音。 GRAVEの装甲が何かを受け止める鈍い音。
そして、鬼塚の声。
『……こいつら、どんだけ居やがるんだよ……っ』
一真は歯を食いしばった。
耳の奥で、まだ続いている。
『最後まで俺が面倒見てやる』
違う。
もう聞こえないはずだ。 あの声は、緊急防塞シャッターの向こうで消えた。
だが、一真の中では消えていなかった。
『全部、俺にぶつけてこい』
一真は勢いよく身体を起こした。
肩に痛みが走る。 縫われた傷が引きつり、包帯の下が熱を持った。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
壁の端末には、南米第七施設の状況が流れていた。
深部区画、燃焼継続。 緊急防塞シャッター周辺、高熱反応。 再侵入困難。 鬼塚豪、生体反応確認不能。
一真は、その文字を睨んだ。
「確認不能ってだけだろ」
返事はない。
それでも、一真は言わずにはいられなかった。
「死んだって、誰が見たんだよ」
仮眠区画の奥で、誰かが身じろぎした。 だが、誰も声をかけてこない。
一真はベッドから立ち上がった。
足元がわずかにふらつく。 身体は重い。 傷も痛む。
だが、横になっている方が耐えられなかった。
◇
情報管理室の前には、警備員が二人立っていた。
一真が近づくと、二人はすぐに姿勢を正した。
「剣城さん、医療区画で安静指示が出ています」
「どけ」
「命令です」
「俺も命令される側だ。分かってる」
一真は足を止めなかった。
警備員の一人が前に出る。
「通せません」
一真はその男を見た。
目が合う。 相手は一瞬だけ息を呑んだ。
一真の顔には、怒鳴る前の静けさがあった。
「鬼塚の戦闘ログを見たい」
「閲覧権限がありません」
「仲間の最後も見せねえのかよ」
「上の許可が必要です」
一真の拳が握られる。
目の前の警備員も、南米から戻ったばかりの部隊の一員だ。 肩に包帯が見える。 額にも傷がある。
こいつに怒りをぶつけても意味がない。
一真は息を吐いた。
「南條さんを呼べ」
「それは――」
「呼べ」
短い言葉だった。
警備員は一瞬迷い、端末に手を伸ばした。
◇
数分後、南條光太が現れた。
白い照明の下でも、その顔色は変わらない。 いつも通り、冷静に見えた。
だが、一真には分かった。 南條も眠っていない。
「剣城」
「鬼塚のログを見せてください」
「今のお前に見せるものではない」
「なら、いつならいいんですか」
南條は答えない。
一真は一歩近づいた。
「鬼塚は俺たちを救った」 「それで、あのシャッターの向こうに残った」
声が低くなる。
「俺は、あいつの最後を知らないまま先に進めって言われても無理です」
南條は一真を見ていた。
しばらく沈黙が続く。
やがて、南條は端末へ歩いた。
「全部は見せられない」
「またそれかよ」
「一部だ」
南條は認証を通した。 画面が切り替わる。
映像はない。 音声ログと、生体反応の波形だけだった。
鬼塚豪。 BR-01。 血装名、GRAVE。
一真の喉が動いた。
音声が流れる。
『急げよ、一真』
最初の声で、一真の拳が震えた。
『俺が戻る場所、残しとけ』
波形が大きく揺れている。 心拍は高い。 呼吸も乱れている。 それでも、声には笑いが混じっていた。
一真は画面から目を離せなかった。
次に、シャッターの降下音が入る。 金属が擦れる音。 異形の声。 衝撃音。
そして、あの声。
『最後まで俺が面倒見てやる』
一真は奥歯を噛んだ。
『全部、俺にぶつけてこい』
短い沈黙。
次の瞬間、鬼塚の怒号が響いた。
『かかってこいや!!』
波形が激しく乱れる。 音声が割れる。 衝撃音が続く。
一度。 二度。 三度。
生体反応は乱れたまま、少しずつ薄くなっていく。
通信ノイズ。 金属音。 呼吸音。
そして、途切れた。
画面には短い文字が出る。
生体反応、確認不能。
一真は動かなかった。
南條も何も言わない。
しばらくして、一真が低く聞いた。
「これで、終わりにするんですか」
南條は画面を見ていた。
「終わりにしたい者たちはいる」
一真が南條を見る。
「南條さんは」
南條はすぐには答えなかった。
「私は、終わったとは言っていない」
一真の目がわずかに揺れた。
「なら、なぜ探さない」
「建物はまだ崩壊の恐れがある」 「再侵入するにはリスクが大き過ぎる」
「分かってますよ」
一真は言った。
分かっている。 そんなことは分かっている。
でも、納得できない。
「分かってるから、腹が立つんだよ」
◇
南條は別の画面を開いた。
「見ろ」
一真は顔を上げる。
そこには、南米第七施設から帰還した生存者の一覧が表示されていた。
通常戦闘員。 支援班。 負傷者。 後方へ退避した者たち。
南條が言う。
「鬼塚がやらなきゃお前も啓介も他の者も戻らなかった」
一真は画面を睨んだ。
「あいつは、目の前にいる者を見捨てなかった」
一真は何も言えなかった。
その言葉は、綺麗な慰めではない。 だが、鬼塚豪という男を一番短く表していた。
鬼塚は合理性で動いたのではない。 命令で残ったのでもない。
助けたかったから、動いた。
それだけだった。
一真は小さく呟く。
「あいつらしいな」
その声は、怒りよりも痛みに近かった。
◇
医療区画の外で、啓介は壁にもたれていた。
検査は終わっていない。 ユリはまだ奥でデータを追っている。
啓介の右手には、まだわずかな違和感がある。
握る。 開く。
動く。 だが、完全には戻らない。
その動作を何度か繰り返していると、一真が廊下の向こうから歩いてきた。
肩には固定具。 腕には包帯。 顔色は悪い。
それでも目だけは、まだ熱を失っていなかった。
「寝てろって言われてたんじゃないのか」
啓介が言う。
一真は鼻で笑った。
「お前にだけは言われたくねえ」
啓介は何も返さない。
一真は少し離れた壁に背を預けた。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは、一真だった。
「お前、あの時のこと覚えてんのか」
「あの時?」
「制御不能になった時だよ」
啓介は自分の右手を見た。
「全部は覚えていない」
「そうか」
一真の声が少しだけ低くなる。
「鬼塚のこともか」
啓介は答えなかった。
覚えていないわけではない。
黒い視界。 砕ける音。 途切れる声。 床に落ちた管理タグ。
その中で、鬼塚が何をしていたのか。自分はどこまで状況を認識出来ていたのか。
曖昧だった。
「一真」
「責めてるわけじゃねえよ」
一真はそう言った。
だが、声には怒りが残っていた。
「ただ、知っててほしいだけだ」
啓介は一真を見る。
一真はまっすぐ前を見ていた。
「鬼塚は、お前も守ったんだぞ」 「黒瀬だけじゃない」 「俺だけでもない」 「後ろにいた連中も、お前もだ」
啓介は黙っていた。
一真の声が少しだけ震える。
「あいつは、誰かを置いていくのが嫌だったんだ」 「昔からそうだった」 「倒れた奴がいれば、どれだけ怒られても引っ張っていく」 「馬鹿みたいに重い装備で、馬鹿みたいに前に出て」 「それで、最後まで戻る気でいやがった」
啓介は低く言った。
「分かってる」
「分かってねえよ」
一真は即座に返した。
だが次の瞬間、言い過ぎたと分かったのか、視線を落とした。
「……いや」
短く息を吐く。
「悪い」
啓介は首を振った。
「謝るな」
一真は壁に頭を預ける。
「鬼塚が死ぬつもりだったなら、まだ少しは納得できたかもしれねえ」 「でも、違うんだよ」 「あいつは戻る気だった」 「一発殴って、文句言って、また笑う気だった」
啓介は目を伏せた。
その通りだった。
鬼塚は、自分の死を選んだ英雄ではない。 戻るつもりで、残った男だ。
だから苦しい。
◇
医療区画の奥で、ユリは端末を見つめていた。
啓介の黒血反応を追っていたはずだった。 だが、その途中で、別のログに引っかかった。
BR-01。 鬼塚豪。 最終生体反応。
通常なら、確認不能で閉じられるはずのデータだった。
だが最後の数秒に、妙な乱れがある。
心拍が落ちる。 通信が途切れる。 その直前、一度だけ反応が大きく跳ねている。
「……何?」
ユリは画面を拡大した。
ノイズか。 装備破損か。 血装外殻の残留反応か。
判断できない。
ただ、完全に消えたというより、何かに遮られたようにも見えた。
ユリはさらに深い記録を開こうとする。
画面が切り替わった。
権限がありません。
ユリの指が止まる。
まただった。
啓介の黒血反応も。 自分の記録も。 そして、鬼塚の最終ログも。
大事なところで、必ず閉じられる。
ユリは唇を結んだ。
「何を隠してるの……」
返事はない。
端末の白い画面だけが、冷たく光っていた。
◇
夜明け前の格納庫には、低い機械音が響いていた。
帰還した機材が並べられている。 破損した銃器。 焼けた装甲片。 折れた補助具。 血の付いた搬送ベルト。
南米第七施設から戻ったものは、どれも壊れていた。
一真は一人でそこにいた。
鬼塚の装備はない。 回収されていない。
それが、何よりも重かった。
あいつが使っていた重い外殻も。 傷だらけの腕部装甲も。 隔壁をこじ開けた両手も。
何も戻ってきていない。
一真は、整備台の上に置かれた小さな破片に目を止めた。
黒く焦げた装甲片。 端には赤黒いものが乾いている。
近くにいた整備員が言った。
「緊急防塞シャッターの外側に付着していたものです」 「GRAVEの外殻片と思われます」
一真はそれを手に取らなかった。
触れたら、何かが壊れそうだった。
そこへ、啓介が来た。
一真は振り返らない。
「また眠れねえのか」
啓介は答えた。
「お前もだろ」
「俺は寝る気がねえ」
「そうか」
二人は整備台の前に立った。
黒く焼けた装甲片。 それだけが、鬼塚豪が戻ってきた証のように置かれている。
一真が呟いた。
「あいつ、最後まで戻る気だったんだよな」
「ああ」
「死ぬつもりじゃなかった」
「ああ」
「だったら」
一真は奥歯を噛んだ。
「勝手に終わらせられてたまるか」
啓介は何も言わなかった。
一真は続ける。
「俺は、あいつの声を忘れねえ」
啓介は静かに頷いた。
「俺もだ」
格納庫の外では、空が少しずつ明るくなり始めていた。
南米の夜が明けていく。
だが、二人の中に残ったものは、まだ夜の底に沈んでいた。
◇
南條は一人、作戦室にいた。
端末には、鬼塚豪の最終ログが再処理されている。
BR-01。 GRAVE。 生体反応確認不能。 通信途絶。 回収不能。
見慣れた文字が並ぶ。
だが、その下に一瞬だけ別の表示が出た。
BR-01最終反応、照合不可。
南條の眉がわずかに動く。
生存を示すものではない。 希望と呼べるものでもない。
だが、完全な終わりとも言い切れない。
南條はしばらくその画面を見つめていた。
やがて、端末を閉じる。
「……お前まで、厄介なものを残していったな」
低く、呟く。
「鬼塚」
画面が暗くなる。
その暗い画面に、南條の顔だけが映っていた。
南米で消えた声は、まだ誰かの中に残っている。
そして、その声は、これから先も彼らを止まらせない。




