第9話 いよいよ入学式へ
入学式の朝は、白薔薇の香りで始まった。
枕元の花瓶に、今朝も一輪挿してある。ソフィアが夜明け前に摘んできたものだ。深く吸い込むと、頭の芯が静かに冴えていく。
寝台から下りて窓を少し開けると、春の庭の匂いが流れ込んできた。土と若葉と、湿った朝露の匂い。空には雲一つない。
絶好の、初出社日和だわ。
厳密に言えば初登校なのだけれど、気分は社畜なので間違いではない。
鏡台の前に座ると、ソフィアが制服を抱えて入ってきた。王立ローゼンハイム学園の制服で、濃紺の生地に金糸の縁取りが入った、仕立てあがったばかりの一着だ。
仮縫いには三度も付き合わされた。
私は二回目で切り上げるつもりだったのに、ソフィアが「袖丈が半分ほどずれております」と譲らなかったのだ。半分とは、指先の半分のことである。細かい。
その執念の成果が、今、衣装掛けで艶やかに待っている。
「お嬢様、本日は最初から最後まで、私がお支度いたします」
「いつもそうしてくれているじゃない」
「いつもより気合が入っている、という意味でございます」
真顔で言うものだから、つい笑ってしまった。
袖を通すと、新しい生地特有の張りが腕に触れた。
ソフィアの指が背中のボタンを一つずつ留めていき、最後に襟を整える。
髪は編み込んでから結い上げる、普段より手の込んだ形だった。鏡越しに、ソフィアの指先が規則正しく動くのを眺める。
「緊張していらっしゃいますか」
「いいえ、全然」
「さようですか。……昨夜、書きものを日付が変わるまでなさっていた方のお言葉とは思えませんが」
手厳しい。
でも、昨夜のあれは緊張ではなく、最終確認だ。入学後に動かす計画の資料を、もう一度だけ点検していただけである。
まあ、三回も読み直した時点で、点検の域は超えていたかもしれないけれど。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様。学園でのお話、お帰りになりましたら聞かせてくださいね」
仕上げのリボンを結び終えて、ソフィアは鏡の中で目を細めた。その顔がやけに誇らしげで、なんだか背筋が伸びる。
「ええ、約束するわ」
玄関ホールへ下りると、兄が階段の下に立っていた。
登城の予定があると聞いていたのに、まだ屋敷にいる。
この時間にいるなんて、絶対に偶然……ではないわね。
「お兄様、お見送りしてくださいますの?」
「通りかかっただけだ」
通りかかっただけの人間は、玄関の真ん中で腕を組んで待っていたりしない。
そう思ったけれど、そんな兄の不器用な愛情表現が嬉しくて、口元が緩んでしまう。
兄は私の頭のてっぺんから爪先まで視線を往復させて、小さく頷いた。検品かしら。
「気をつけて行ってこい」
「行って参ります」
それだけだった。それだけなのに、扉を出る足が軽くなるのだから、我が家の会話の燃費は相当いい。
馬車寄せにはクラウスが立っていて、馬車の扉を開けながら一礼した。
「お帰りの頃には、書庫の資料を整えておきます」
「ありがとう。頼りにしているわ」
馬車が動き出す。窓の外を、見慣れた庭の白薔薇が流れて消えた。
膝の上で手を組み、頭の中の計画書を開く。
第一手、聖属性特別研究枠の提案と設立は完了。
第二手、王太子経由の案内も完了。ミリア・レーヴェンは今頃、研究院で入所の手続きをしているはずだ。
これでヒロインの円満退場も同時に完了となる。
残るは第三手、攻略対象五人の放課後をプロジェクトで埋めること。
そして第四手、取り巻き令嬢三人の広報転換。
今までがうまくいったからといって気を抜いてはいけない。
ここからが本番だ。
入学は着任、学園は現場とみなす。
ならば、断罪という名の重大事故を防ぐには、現場を押さえるのが一番早い。
ユリアーナの記憶の中の学園は、社交界の予行演習の場だった。
誰と親しくし、誰と距離を置くか。家格の地図を頭に入れて、間違えないように歩く場所。
でも今の私にとっては、勝負の舞台だ。同じ景色でも、立ち位置が変われば見え方は変わる。
街道を進むにつれ、窓の外の景色が変わっていく。貴族街から、隣接する緑あふれる学園の敷地へと。
前方に、白い尖塔が見えた。
王立ローゼンハイム学園。朝日を受けた時計塔と、左右に翼を広げる白亜の校舎。正門へ続く並木道には、馬車の列ができている。
正直、見覚えがあるどころの話ではなかった。
ゲームを起動するたびに流れる、オープニング画面の構図そのままだ。あとはタイトルロゴと「はじめから」の文字が浮かべば完璧である。
思わず窓枠を掴んだ手に、力がこもった。
冗談みたいな既視感なのに、車輪の振動は膝に伝わってくるし、開けた窓からは並木の若葉の匂いがする。これは画面の中ではない。私が今から通う、現実の学園だ。
そして今日これから、あの校舎のどこかで、攻略対象たちと顔を合わせる。
ノートの上で散々分析した五人。データは頭に入っている。あとは実物と答え合わせをするだけだ。
馬車が正門をくぐった。私は窓枠から手を離し、公爵家の令嬢にふさわしい佇まいを心掛け、背筋を伸ばして到着を待った。




