第8話 順調に進行中
宰相から「検討に値する」という返答が届いたのは、書簡を送ってからちょうど一ヶ月後だった。
「やったわ。次の段階ね」
報告を受けて、下書きのままだった王太子への手紙を机に広げる。
インクの匂いが部屋にふわりと広がった。
窓の外には月が出ていて、庭の薔薇の輪郭がうっすら白く浮かんでいる。
内容は固まっている。感情に訴える文面は書かない。
ゲームのマクシミリアンの印象は「誠実だが冷淡で、感情を表に出さない」だ。ヒロインには違う顔を見せていたが、ユリアーナに対しては終始、義務的だった。
だから、理屈と国益だけで押す。
手紙の要旨はこうだ。
聖属性保有者の入学が確認されたと聞いた。父が宰相へ正式に提案した研究院の特別研究枠について、王太子から本人へ案内を届けてほしい。私が直接ご案内する場合、婚約者という立場から誤解を生む恐れがある。本人が自由意思で判断できる状況を作ることが目的です。
「こんなところかしら」
書き終えて読み直すと、一カ所だけ引っかかった。「先日、設立の動きが始まった」では曖昧すぎる。「先日、父が宰相へ正式に提案書を送りました」のほうが、具体性が増すだろう。
ユリアーナの記憶にある彼なら、情報は正確なほど響くはずだ。
書き直して、もう一度読む。
よし。これならば問題ない。
最後の一行を清書して、インクが乾くのを待つ。畳んで、封をして、蝋を垂らし、ヴァイスフェルト家の紋章を押した。
うん、完璧。
手紙を机の隅に置いて、少しだけ窓の外を見た。
マクシミリアンは、どんな人間だろう。
記憶の中の彼は、いつも王子様然として穏やかに微笑んでいた。でも、本当の彼を見たことがあっただろうか。本心を聞いたことは。
貴族は感情を表に出さない。王族ならなおさら、微笑みの奥に真意を隠す。ユリアーナは、そういうものだと思っていた。
でも社畜は違う。私にとって、マクシミリアンはクライアントだ。
どれだけ事前準備をしても、クライアントの本当の反応は会うまで分からない。その不確定性が、あの仕事の面白さの一つでもあった。
人間は予測を外す。そして大抵、外れたほうが面白い。
私は手紙から目を離して、今日の段取りリストを閉じた。
明日、ソフィアに頼んで王宮へ送ってもらおう。やることはまだ山積みだけれど、今日はここまで。せっかく転生したのだし、二度目の過労死はごめんだ。
マクシミリアンからの返信は、三日後に届いた。
緊張しながら封を開ける。
さすが王族というべきか、便箋から品の良い香りがした。私も香水を振りかけるべきだったかしら。一応、婚約者なわけだし。
「几帳面な字だわ」
紙面の字は、とても彼らしかった。几帳面だけれど、堅すぎない。王家に相応しい体裁を保ちながら、どこかに筆圧の強さが滲んでいる。急いで書いた字ではない。じっくり考えてから書いた字だ。
内容は、提案への賛同と、ミリアへの案内を手配するという旨だった。
そして最後に、一文あった。
『研究院の特別研究枠については、ユリアーナの提案だと聞いた。とても素晴らしい』
……褒められた。
ゲームでは冷淡な態度しか見せなかったマクシミリアンに、褒められた。
少しだけ頬が熱くなった。
いや、これは作戦の一環だ。感情を挟むな。社畜は感情で仕事をしない。
それでも頬が緩むのは、きっと気のせいだ。
なんとなく窓の外を見てしまう。昼の光の中で、白い薔薇が揺れていた。
別に、嬉しいわけではない。
もう一度だけそう思って、ようやく手紙を文箱にしまった。
入学式まで、残り三週間だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ミリアからの返答が届いたのは、それからさらに二週間後のことだ。
『謹んでお受けいたします』
「やったわ!」
自室で小さくガッツポーズをした。
入学式まで残り一週間というところで、ヒロインは学園ルートから離脱した。第一手、完了だ。
「ぎりぎりだったわね。でも、間に合った」
この世界に来て、まだ二ヶ月と少し。今のところ、計画は狂いなく進んでいる。
ふと、前世の記憶が浮かんだ。
最初の頃は、あちらのほうが圧倒的に鮮明だった。
終電の匂い。キーボードの感触。蛍光灯の下、冷めたコーヒーを飲みながら資料を直していた深夜の感覚。そういうものが、ユリアーナの記憶を上書きしようとしていた。
今は、だいぶ違う。
二つの記憶が、ちょうどいい具合に混ざってきている。
書庫のインクの匂いも、クラウスのカップの置き方も、父が机を叩く時の音も、ちゃんと「自分のこと」として感じられる。
ただ、人への感情は、まだ薄い。
前世の私の対人関係は希薄だった。仕事の人間関係しかなかったと言っていい。
だから父にも、兄にも、ソフィアやクラウスにも、どこかガラス越しに見ているような感覚が残っている。
婚約者のマクシミリアンに至っては、ゲームの情報と数通の手紙で構成された人物像しかない。
でも。
「そもそもうちの家族は、会話がなさすぎるのよ」
声に出してみると、少しおかしくなった。
父は指を一度叩いて提案を採用し、兄は黙ったまま「無理はするな」とだけ言い、クラウスは何も言わずにハーブティーを淹れてくれる。
全員、感情の出し方が壊滅的だ。
それでも、社畜七年で磨いた観察力で見ていれば、なんとなく分かることがある。
不器用なりに、愛されている。
それが分かると、彼らとの間を隔てているガラスが、少しだけ薄くなる気がした。
学園で会う人間たちも、きっと同じだろう。
マクシミリアンも、挨拶程度しか交わしたことのないリヒャルトたちも、実際に顔を合わせれば、ゲームの設定とは違う何かが見えてくるはずだ。
それはそれで、少し楽しみだった。
私は机の引き出しを開けて、計画書を取り出した。
羽根ペンにインクを含ませ、第一手と第二手の行の頭に、小さく完了の印をつける。
残るは第三手と第四手。舞台は、一週間後の学園だ。
インクが乾いたのを確かめて計画書を引き出しに戻し、明日ソフィアに頼む制服の仮縫いの予定を、段取りリストの一番上に書き加えた。




