第10話 王太子マクシミリアン
馬車を降りると、並木道は新入生と付き添いの人波で埋まっていた。
式典用に整えられた花壇、磨き上げられた石畳。
案内役の在校生が要所に立ち、新入生たちを大講堂へと流していく。
運営の動線設計は及第点ね、と職業病ともいえる採点をしながら、私も流れに乗った。
すれ違う令嬢たちが、ちらちらとこちらを見ては会釈していく。
公爵家の長女で王太子の婚約者。私の顔と名前は、入学前から知れ渡っているからだろう。
視線を浴びるのは慣れている。前世のプレゼンでも、今世の社交界でも。注目は使いようだ。
大講堂は、花の香りで満ちていた。
高い天井から光が落ち、磨かれた床がそれを照り返している。壇上には国旗と校旗。新入生の席は家格順に並び、私の席は最前列の中央だった。
着席して、まず会場の空気を測る。
ざわめきの密度、視線の流れ、来賓席の顔ぶれ。前世を思い出したからなのか、勝手に作業が始まってしまう。
来賓席には見知った顔もあった。宰相閣下。魔導研究院の紋章をつけた一団。父は領地の政務で欠席だが、公爵家の名代は立ててある。
開式の鐘が鳴り、学園長の式辞が始まった。
長い。そして眠い。
式辞が長いのは、どうやら世界を越えても変わらない様式美らしい。
私は姿勢を保ったまま、案内の紙に目を落とした。
周囲の席から、押し殺した囁きが聞こえてくる。
「殿下はどちらにいらっしゃるのかしら」
「通路側の三列目ですって。ああ、遠目でも麗しいこと」
気づかれない程度に視線を向けると、そこには光り輝くようなイケメンがいる。
なるほど、注目度は申し分ない。彼が動けば学園中が見る。プロジェクトの看板として、これ以上の人材はいないわね。
式辞の次は、新入生代表の宣誓。代表者の名は、マクシミリアン・エーレンベルク。
婚約者の名前を、印刷された文字で見るのは不思議な感覚だった。
ユリアーナの記憶にある彼は、公式の場で挨拶を交わすだけの、遠い人だ。
前世の記憶が混ざった今の私にとっては、几帳面な字の手紙一通で構成された、ほとんど初対面の相手である。
「新入生代表、マクシミリアン・エーレンベルク」
名を呼ばれて、通路側の席から一人の男子生徒が立ち上がった。
――背が、高い。
記憶の中の彼より、頭一つ分は高い気がした。
そうか、ユリアーナが最後に間近で会ったのは二年も前だ。十代の男子の二年を、私は計算に入れていなかった。
金色の髪を短く整え、壇上へ向かう歩幅に迷いがない。壇に上がり、会場をゆっくり見渡してから、彼は口を開いた。
「本日この学び舎に迎えられたことを、心より誇りに思います」
低い。
手紙の字から勝手に想像していた声より、ずっと低くて、よく通る。
几帳面な字面から私が組み立てていた「線の細い秀才」の像が、最初の一声で音を立てて崩れた。
宣誓の内容そのものは、型通りだった。学業への精進、国への奉仕。けれど原稿に目を落とす回数が異様に少ない。要点で必ず顔を上げ、会場の一人一人へ視線を配っている。
あれは、暗記している人間の目線ではない。自分の言葉で話している人間の目線だ。
プレゼンで千本ノックを浴びた社畜として、断言できる。あの十五歳、場数が違う。
宣誓が終わり、拍手が起きた。
私も手を打ちながら、ふと違和感に気づく。
来賓席の一角だけ、拍手の立ち上がりがわずかに遅かった。数人の一団が、周囲を確かめてから申し訳程度に手を叩いている。
どこの家かしらね。まあ、王家の式典に全員が心から拍手する方が珍しいか。
視線を戻すと、壇を下りるマクシミリアンと、一瞬だけ目が合った。
彼は表情を変えずに、私の隣の通路を通って席へ戻っていった。すれ違いざま、便箋と同じ品のいい香りが、ほんの少しだけ鼻先をかすめた。
式が終わると、大講堂はそのまま歓談の場になった。
新入生と在校生、来賓が入り混じり、あちこちで挨拶の輪ができる。私も公爵令嬢として、挨拶行脚に出なければならない。
その一番手は、決まっている。
「ごきげんよう、マクシミリアン殿下」
人の輪の中心にいた彼に歩み寄り、スカートをつまんで礼をした。周囲の令嬢たちの視線が、一斉にこちらへ集まるのが分かる。
「ユリアーナ嬢。息災のようで何よりだ」
「殿下におかれましても、ご壮健のご様子、お慶び申し上げますわ」
完璧に型通りの挨拶だった。教本に載せたいくらいの模範解答の応酬だ。
彼は型通りの微笑を浮かべたまま、半歩だけ距離を詰めた。そして、周囲には届かない高さまで声を落とした。
「手紙の件、感謝する」
一瞬、周囲のざわめきが遠のいた。
グラスの触れ合う音も、令嬢たちの笑いさざめきも、厚い硝子の向こうに押しやられたように薄れて、低い声だけが妙にはっきりと耳に残る。
「あの提案がなければ、動けなかった。礼を言うのが遅くなった」
「……もったいないお言葉ですわ」
辛うじて型通りの返事を絞り出すと、彼はもう半歩下がって、元の距離と元の声量に戻っていた。
「今後の学園生活が、実り多いものであるように」
「殿下も、ご健勝で」
礼をして輪を離れる。とたんに、会場のざわめきが元の音量で耳に戻ってきた。
なんなの、今の。
手紙では確かに褒められた。「とても素晴らしい」の一文は、何度も読み返したから一言一句覚えている。でもあれは文字だ。文字と生身の声では、届く深さがまるで違う。
あの几帳面な字を書く手と、あの低い声が、同じ人間のものだという当たり前の事実に、頭が追いつかない。私の中の彼の人物像は、今日一日で二度も作り直しを食らっている。
……いいえ、落ち着きなさい。あれは単なる社交辞令よ。婚約者への礼儀を、人前で角が立たない形で果たしただけ。
だから、ほら、深呼吸。吸ってー、吐いてー。
そうそう、いい調子。
私は手近な給仕から果実水を受け取り、一口飲んで頭を切り替えた。冷たい杯の感触が、手袋越しでもありがたかった。
さあ、頭もすっきりしたことだし、仕事の時間よ。挨拶行脚のついでに、残る四人の実物確認といきましょう。




