第6話 母の思い出
書庫の扉を開けると、閲覧机の前にクラウスがいた。最近の彼は、執事というより司書の仕事のほうが多いのではないだろうか。
声をかけようとしたところで、棚の陰から別の人影が現れた。
「ユリアーナか」
兄だった。腕に何冊か本を抱え、こちらを見て少し目を細める。
「ごきげんよう、お兄様」
「最近、よくここに来ているそうだな」
兄の視線が、私の手元の資料の束に向いた。
「学園に入学する前に、調べものをしておりましたの」
嘘ではない。学園の授業に関する調べものではないだけで。
「あまり無理はしないように」
それだけ言って、兄は書庫を出ていった。
……ツンデレか?
これが噂に聞くツンデレというやつなのか?
なんとなく照れ臭くなって視線を泳がせると、目元を和ませているクラウスと目が合った。
私はごまかすように、持っていた資料を掲げる。
「お父様から、宰相様へ送る提案書の清書を任されたの。書き方を教えてちょうだい」
「かしこまりました。どのような提案書か、お伺いしてもよろしいですか」
「ええ、これよ」
資料を渡すと、クラウスの目に驚きの色が少しずつ増えていくのが分かった。
だが、さすがは仕事のできる執事。それ以上の感情は表に出さない。
「なるほど、承知いたしました。こちらの様式は、冒頭の差出人の書き方がやや特殊でございまして……」
丁寧な説明が続いた。
外交文書の取り扱いから、貴族間の書簡の礼儀作法まで。記憶を掘り返しても、クラウスはこの家の事務全般を支える、影の実力者のような人物だ。
ゲームには登場しなかったけれど、これほどの執事を抱えている我が家、実は相当に凄いのでは。
いやまあ、公爵家という家柄なのだからそれだけでも凄いのは確かなんだけれど、名前だけの家ではないと実感する。
説明が一段落すると、クラウスはハーブティーのカップを無言で私の手元に近づけた。
さっきの兄と同じだ。この屋敷の人間は、あまり言葉で気持ちを表現しない。
今の私には社畜の記憶があるから分かるけれど、これじゃあ子供だったユリアーナが理解できなくて愛されていないと思いこむのも無理はないわ。
だからこそ、唯一自分を愛してくれる存在だと思いこんで、婚約者に執着するんだけれど。
カップを持ち上げて一口飲むと、ハーブの香りが鼻の奥を通り抜けた。
それから、教わったとおりに清書を始める。
クラウスはしばらく私の手元を見ていたが、やがて途中だったらしい棚の整理を再開した。
一区切りついて顔を上げると、新しいお茶がすっと置かれた。このタイミングが神がかっている。
さすがだわ。
お茶を飲みながら、手の平を軽く揉む。羽根ペンは使いづらい。前世のボールペンが恋しい。
何気なく、クラウスが整理している書棚を見た。
赤い背表紙に、見覚えがあった。
「覚えていらっしゃいますか。お嬢様がお好きだった本です」
そうだ。あの赤い表紙は花の図鑑だ。白い薔薇の絵と、添えられた花言葉に惹かれたのだった。
「ねえ、クラウス。白薔薇の花言葉を知っている?」
「白薔薇でございますか。確か、純粋、清純、深い尊敬……といったところかと」
私と母の思い出は、白薔薇に包まれている。
カップを机に戻して、また羽根ペンを取った。
「クラウス」
「はい」
「お母様は、どんな方だったかしら」
棚を整理していた手が、一瞬だけ止まった。
「優しい方でございました。ただ、お気持ちを表に出すことが苦手で」
「似ているわね、この家の人たちは」
そう言うと、クラウスが珍しく少しだけ笑った。口元だけの、控えめな笑いだった。
「さようでございますね」
羽根ペンを走らせながら、続きを聞いた。
「お母様は、お父様と仲がよかったの?」
「それは……」
クラウスはしばらく間を置いた。棚の背表紙に指を添え、言葉を選んでいる様子だった。
「お二人とも、言葉の少ない方でございましたので、側から見ていると分かりにくかったかもしれません。ですが」
一拍置いてから、続けた。
「旦那様が書斎を空けるのは、奥様が体調を崩された時だけでございました」
ペンを持つ手が、驚きで止まる。
父が書斎から出る。それがどれほどのことか、この屋敷で暮らした記憶があれば分かる。
「そう」
それ以上は聞かなかった。クラウスも、それ以上は言わなかった。
書庫の中に、羽根ペンの音だけが続いた。魔導ランプの光が紙の上に落ちて、インクが乾くにつれて、文字の色が少しずつ濃くなっていく。
最後の署名を書き終えた時、窓の外は橙色になっていた。
「クラウス、終わったわ」
「ご苦労様でございました」
クラウスは棚から離れて近づき、清書を一瞥した。確認するように視線を流して、小さく頷く。
「問題はございません」
「よかった。これをお父様にお渡しして」
「かしこまりました」
紙を受け取る手つきが丁寧だった。ただの書類ではなく、大切なものを扱うような受け取り方だ。
立ち上がって伸びをすると、背中の節が小さく鳴った。
「今日はありがとう。助かったわ」
「いいえ。……お嬢様」
部屋を出ようとしたところで、呼び止められた。振り返ると、老執事は視線を少し落としたまま言った。
「奥様も、体調のよろしい時は、よくあのように書き物をなさっておいででした。とても丁寧で美しい字でございましたよ」
私の字が母に似ている、ということだろうか。それとも、ただそれだけを言いたかったのだろうか。
どちらでもいい気がした。
書庫を出ると、廊下はもうすっかり夕暮れの色だった。
これで、今の私にできることは全部やった。あとは宰相へ提出してもらって、返答を待つだけだ。
一ヶ月後に「検討に値する」の一言でも引き出せれば上々だろう。




