第5話 公爵令嬢動き出す
提案書を仕上げて父にアポイントを取ったのは、着手から三日後の昼過ぎだった。
前日の朝、ソフィアに「お父様に三十分ほどお時間をいただけるよう、お伝えしてくれる?」と頼むと、彼女は少し驚いた顔をした。
驚いたのは用件ではなく、私が自分から父に面会を求めたことに対してだ。
それくらい、普段のユリアーナは父の書斎に近づかなかった。
記憶を辿ると、確かにそうだ。
父の書斎は、自分から訪ねる場所ではなく、呼ばれて向かう場所だった。勉強の成果を確認される時。社交の予定を伝えられる時。それ以外は、分厚い扉の内と外で隔てられていた。
だから今日は、ある意味でユリアーナの人生初の「アポ取り」だ。
書斎へ続く廊下を歩きながら、一度だけ深呼吸をした。
思い出すのは、客先プレゼンの前に必ずあった社内レビューだ。本番より辛いと社内で悪名高い、あれ。
各部の部長が並ぶ会議室に、社長が突然臨席することもあった。上から順に詰められ、削られ、ようやく通れば「次は本番だ」と言われる。
前世なら、あの会議室で何度詰められても「理屈が通ればいい」と信じていられた。
でも今日、扉の向こうで待っているのは父だ。理屈だけでは足りない。この提案がヴァイスフェルト公爵家の利益にもなると、示さなければならない。
書斎の前で足を止めて、息を整える。
資料を持つ手の平が、うっすらと湿っていた。
重厚な扉をノックして、「どうぞ」という低い声を聞いてから押し開けると、インクと革の匂いが濃く流れてきた。
父、ヴィルヘルム・ヴァイスフェルト公爵は、書類の山に囲まれていた。
広い執務机の上に、束になった書類が三カ所。父はその真ん中に座って、羽根ペンを動かしている。
ゲームの設定では「厳格な父」の一言で片付けられていたが、実物は、いかにも大貴族の当主といった風格で威圧感が凄い。
高い鼻梁。細い眉。ユリアーナより少し暗い、濃いプラチナブロンドの髪は後ろに撫でつけられ、こめかみのあたりにだけ白いものが混じっている。
書類から顔を上げた時の目は、鷹のように鋭かった。
「ユリアーナ。座れ」
示されたのは来客用の椅子ではなく、執務机の斜め前の椅子だった。資料を見せながら話せる位置だ。
この人は会話を「作業」として処理する人間なのだと、前世の経験が即座に教えてくれる。
事務的に進めたい私には、むしろやりやすい相手だ。
椅子を引いて腰を下ろし、資料の束を膝の上で揃えた。
「珍しいな、お前から来るとは」
「提案があって参りました」
「ふむ」
父の右の眉が、ほんのわずかに動いた。顔も言葉も動かないが、それが「続けろ」の合図だと分かる。
私は最初の一枚を机の端に置いた。
「先日、書庫で王立魔導研究院の年次報告書を読みました。聖属性の研究体制に関する外交文書と、近隣国の比較資料も合わせて確認しています。気になった点を整理して参りました」
父が書類を手に取った。
目を走らせる速度が速い。内容を読む前に、まず構成を確認している。前世で何度も見た、有能なクライアントの「ファーストスキャン」と同じ動きだ。視点が定まったところで、精読が始まる。
私は父の沈黙を邪魔しなかった。
プレゼンで一番やってはいけないのは、相手が読んでいる間に補足説明を始めることだ。
読む速度と話す速度はズレている。両方同時に処理させれば、混乱させるだけ。「読んでいる間は黙る」は鉄則だ。
父が一枚目を置き、二枚目を取った。ここで一段、眉の角度が変わった。
「なるほど。続けなさい」
来た。
この言葉が出れば、勝率が上がった合図だ。油断せずに、畳みかける。
「現在、王立魔導研究院には聖属性を専門に扱う研究枠が存在しません。聖属性の保有者が確認されても、学園に通学し、一般課程に組み込まれるのみです」
二枚目の数字を指し示しながら続ける。
「一方、隣国アルテシアでは十年前に聖属性専門の研究機関を設立し、早期の専門教育を実施した結果、治癒魔法の効率が三割向上したと報告されています。公式の外交文書に残る、信頼できる数値です」
父は今度は書類ではなく、私を見た。
手ごたえは十分ね。
「この国の過去五十年間の聖属性保有者の出現記録も確認しました。一般課程に組み込まれた保有者のうち、平民出身の半数以上が学業に馴染めず、治癒魔導士の資格を取れないまま退学しています。専門性を活かす前に、道が閉ざされているのです」
そう言って、畳みかけるように三枚目を出す。
「そこで提案です。王立魔導研究院に聖属性特別研究枠を新設し、保有者を特待生として迎え入れる制度を設けていただきたいのです。学費は全額免除、研究費は支給。身分を問わず、実力で評価される環境です。研究成果は国に還元され、長期的には治癒魔法の効率向上と人材の戦略的育成につながります。費用対効果の試算はこちらに」
最後の一枚を差し出すと、父はすぐに数字の列へ視線を落とした。
沈黙が続く。
前世の私なら、三十秒を超えた時点で何か言いたくなって、余計な口を開いていただろう。あの頃はまだ修行が足りなかった。
今は分かる。考えている人間に言葉を挟むのは、場の空気を壊す一番手っ取り早い方法だ。
父は最後の資料を机に置いてから、少し背もたれに体を預けた。
「ユリアーナ」
「はい」
「お前は今、十五歳だったか」
問いの意図が分からず、正直に答える。
「はい」
「十五とは思えない、素晴らしい提案だ」
「お父様の教育の賜物です」
嘘だ。社畜七年の賜物だ。
父はかすかに目を細めた。誇らしげにも、呆れているようにも見える、どうとでも取れる表情だった。
それ以上の感想は言わない。代わりに、机の上で指を一度だけ、とん、と叩いた。
「宰相に書簡を送る。いい機会だ、提案書の清書もしてみろ」
意味を理解するまで、一瞬かかった。
――父が、私の提案を採用した。
「はい、もちろんです」
「三日以内に用意できるか。書式は書庫の外交文書を参考にすれば分かる」
「できます!」
思わず前のめりになった。
「詳しいことはクラウスに聞け。この時間なら書庫にいるだろう」
「分かりました」
礼をして、書斎を辞す。
扉を閉めた瞬間、廊下の空気が書斎よりずっと軽い気がした。
勝った。つかみはオッケーだ。
心の中でガッツポーズをしながら、軽くなった足取りでそのまま書庫へ向かった。




