第43話 いよいよ決戦
決戦の朝は、拍子抜けするほど静かに明けた。
カーテンの隙間から差す光が、机の上の紙の束を照らしている。
一番上に載っているのは、昨夜書き上げた段取り表だ。【作戦名:断罪返し】の題字は、もうすっかり乾いている。
寝台から出て、素足のまま机の前に立った。板張りの床が、指の先から冷たさを上らせてくる。
窓の硝子には、内側から白く曇りが張っていた。指で拭うと、霜の降りた庭が現れる。剪定を終えた薔薇の株が、黒い骨のように並んでいた。
新年の朝である。
もう一度だけ、段取り表を上から読み返した。式次第。合図。札を切る順番。重い札は後ろへ。母の薬の二枚は、一番深いところへ。
直す場所は、どこにもなかった。
日取りを決めたのは、あちらだ。認定の儀は今夜の七日後で、神殿の支度はもう動かせないところまで固まっている。
王宮の新年祝賀会は、国王陛下が臨席なさり、議会も神殿も大貴族も一堂に会する、年に一度の場だ。憂国の重鎮を演じるのに、これ以上の舞台はない。
だから私も、全部をそこへ寄せた。
事故の調査結果の公表は今日。神殿への保留の返事の期限も、当日の三日後に重なるよう文面を調整済み。
マリアンヌが台本の原本を持ったまま動けるのも、今夜だけだ。
散らばった敵とは各個に戦わない。集めて、一度に倒す。
前世の炎上対応で骨身に刻んだ鉄則である。
今まで集めた手札を、今夜、一気に使う。
あとは本番で、いつも通りにやるだけだ。
扉がノックされて、ソフィアが入ってきた。
朝食のワゴンの端には、硝子の細い花瓶に生けられた、白薔薇が一輪。
「温室の一番良い枝を切って参りました」
「ありがとう。ちょうどお願いしようと思っていたの」
段取り表の余白に書いた走り書きを見ていたのね。
決戦の日には、白薔薇を一輪、胸元に差す。
頼む前から用意されているあたり、うちの侍女も大概デキる女である。
冬の薔薇は、夏のものより花が小さい。そのぶん香りが濃く、匂いが鼻の奥に長く残った。
朝食を済ませ、鏡の前に座る。
ソフィアの指が髪を掬い、編み、留めていく。今日はその指が、いつもよりわずかにゆっくり動いている。急がず、丁寧に、時間をかけて。
「飾りは最小限にしてちょうだい。今夜は、着飾る日ではなくてよ」
「かしこまりました」
髪が結い上がり、ドレスの背の釦が一つずつ留められていく。布の張りが背筋を伸ばさせる、戦装束の感触だ。
仕上げに、私は花瓶から白薔薇を取り上げた。棘は、きれいに落としてある。これもソフィアの仕事だ。
「お願い」
ソフィアは何も聞かずに、針と糸で胸元に花を留めた。
さあ、戦う準備は完璧よ。
玄関の広間には、父たちが揃っていた。
冬の日は短い。硝子扉の向こうの庭は、もう夕方の色を含み始めている。
父は濃紺の礼服、兄はその半歩後ろで、外套の襟を直しているところだった。二人とも、新年の祝賀会にふさわしい服装である。
私が階段を降りきると、兄が顔も上げずに言った。
「遅い」
「まだ時間には早くてよ、お兄様」
「早く出れば、早く着く」
いつも通りの、噛み合っているようで噛み合っていない会話である。
けれど私は知っている。兄は昨夜遅くまで、商会の裏付けの資料をまとめてくれていた。廊下の灯りが、日付が変わっても消えなかった。
父は何も言わずに歩み寄り、私の手に小さなものを載せた。
切り札は札を切る人間が持つものだと言った時の、あの書類箱の鍵だ。
鍵は玄関の冷えた空気を吸って、指の腹に硬く冷たい。それでも金属の芯に、父の体温がほんの少しだけ残っていた。
「お預かりいたします」
父は一度だけ頷いた。それだけだったけれど、励ましてくれる父の気持ちが伝わってくるような気がした。
クラウスが扉を開け、深く一礼する。
「馬車の支度が整っております。本日の茶葉は、お帰りの後に。とっておきを仕入れてございます」
「あら、楽しみだわ。冷めないうちに帰るわね」
「お待ち申し上げております」
白薔薇の香りを胸元に乗せて、私は馬車へ乗り込んだ。
向かいに父、その隣に兄。三人で同じ馬車に乗るのは、母の墓参りの朝以来かもしれない。
窓の外を、灯りの入り始めた王都の家並みが流れていった。
誰も口を開かない。
けれど、この家の沈黙は、もう気詰まりではない。
私は膝の上で革の書類入れを一度だけ抱え直した。
重い。この半年分と、八年分と、それから二十年分の重さだ。
角を曲がって、車輪の音が変わった。石畳が王宮への上り坂に入ったのだ。
その時、父が窓の外を見たまま、短く言った。
「今日、お前は一人ではない」
兄が外套の下で、腕を組み直す気配がした。
「手が足りなければ言え」
まったく、この家族は本当に言葉が足りない。
でも、それでも確かに家族として大切に思ってくれている。
「ええ。お二人とも、頼りにしておりますわ」
馬車が門をくぐり、篝火の列が窓を次々に照らしていった。
白亜の王宮が、目の前に現れた。




