第42話 最後の一手
そう思っていたら、最後の一手は、思いもよらない方角から来た。
週明けの放課後、校舎裏の中庭である。
定例会を終えて資料室へ戻る近道は、生け垣に挟まれた細い通路を抜ける。人気のない、風の通り道だ。生け垣の葉はもう半分ほど色を落として、乾いた匂いがした。
その通路の先に、蜂蜜色の巻き毛が立っていた。
マリアンヌ・ヘルムシュタット。付き添いはいない。扇も持っていない。
偶然を装う気配すら、彼女はまとっていなかった。私の通り道を調べ上げて、待ち構えていた立ち方だ。
「ごきげんよう、マリアンヌ様」
「挨拶はいいわ」
初めて聞く、彼女の素の声だ。低くて、硬くて、それでいて震えの奥に芯が通っている。
「時間がないの。人払いも、五分が限度よ」
彼女は胸元から、四つ折りの紙を取り出した。差し出す指の先が、白い。
力を入れすぎて、白いのだろう。
「今、ここで読んで」
受け取って、開く。
上等な便箋の、書き写しだった。写した文字は所々乱れているのに、元の文面の几帳面さが透けて見える。
読み進めるうちに、言葉を失う。
一枚目。
研究院の予算から、私が私的に金を抜いたとする、出納の記録の抜き書き。日付も金額も、本物の予算の書類と噛み合う数字が並んでいる。
二枚目。
ミリアの署名が入るはずの、告発文の下書き。研究院に強要されて危険な実験をやらされた、学園に戻りたいのに公爵令嬢が許さないという文面で、署名の欄だけが、空白のままだ。
そして三枚目は、台本だった。
新年祝賀会の際、しかるべき合図の後に、証人として読み上げる証言の台本。余白に、朱で直しまで入っている。ここは涙声で、とか、ここで一度言葉を詰まらせて、とか。
演出指示つきの、反吐が出るほど丁寧な、プロの仕事だ。
それにしても、と思う。
王家主催の新年祝賀会で、断罪劇を始めようだなんて。
学園の卒業パーティーで婚約者を吊るし上げるのも十分に非常識だけれど、これはその上をいく。
前世でいえば、全社の年始の挨拶の席で、いきなり特定の社員の懲戒を読み上げるようなものだ。誰も止められない代わりに、後で必ず問題になるやつ。
……いいえ、待って。
誰も止められない。そこが狙いなのね。
議会も神殿も大貴族も、大広間に集まる。
陛下の前で認められた話は、後から取り消しが利かない。一晩で全部の口を揃えてしまえる場所は、この国にあそこしかない。
非常識なのではなく、非常識を承知で選んだのだ。
「これをあなたが読み上げる役なの?」
「ええ。断れば、借用書をよそへ回すと言われたわ。……港の金貸しよ。船の荷を担保に取って、返せなければ乗っていた人ごと持っていくような手合い。あの方は取り立てをなさらないの。売るだけ」
生け垣の葉が、風で乾いた音を立てた。
自分の手では何もしない。紙を一枚、別の机へ移すだけ。
二十年前、値を吊り上げさせて、吊り上げた工房を悪評で潰した手口と同じだ。火を付ける手と、消しに来る手を、決して同じ袖から出さない。
「買った側が、伯爵家の娘に何をさせて元を取るか。……そこまでは、考えたくないの」
マリアンヌが、写しの端を握り直してから私を見る。
そこに諦めの表情はない。むしろ覚悟を決めた顔だ。
「写しは差し上げる。原本と台本は、当日まで私が持つわ。手放せば、すぐに知られるもの」
「なぜ、私に見せるの」
「あなたが、私を庇ったから。理由はそれだけよ」
敵に貸しは作りたくない、ということかしら。
矜持の高さは素晴らしいわ。でも、プレゼンをするならば相手の利だけではなく自分の利も考えなくてはダメよ。
「共闘、と受け取ってよろしいのかしら」
「勘違いしないで」
マリアンヌの顎が、式典の壇上と同じ角度でつんと上がった。
「あなたのためじゃない。家と、私自身のためよ。操り人形にされた挙句に破滅するくらいなら、自分のやり方で破滅するの。うまくいけば修道院へ逃げられるもの」
「いいえ、破滅はさせません」
とっさに声をかけると、マリアンヌは片方の眉を上げる。
「できもしない約束をしないでちょうだい」
「私が、あの方よりも高くあなたを買います」
蜂蜜色の巻き毛が、風で頬にかかった。彼女はそれを払わずに、こちらを見る。
「うちの負債がいくらか、知らないくせに」
「存じておりますわ。年の収入の四倍でしょう」
彼女の眉が、わずかに動いた。
「ですけれど、その四倍のうち、まともな値段がいくらだとお思いになって」
「何がおっしゃりたいの」
「同じ薬が、同じ月に、他家へいくらで売られていたか。八年分の値の一覧が、こちらの手元にありますの」
迷うようなマリアンヌの目が私を見る。
「定価で計算し直せば、残るのは年の収入に届くか届かないか。その程度なら、私個人で立て替えられます」
「個人で?」
疑うような、信じたいような気持なのだろう。揺れるまなざしが彼女の心を映している。
「母の遺したものがあります。使い道を探しておりましたのよ」
嘘ではない。八年前、薬を待って亡くなった母の遺したお金だ。同じギルドに薬代で苦しめられた家の救済に使うのなら、正しい使い道だろう。
「返済は私宛てに、十年でも二十年でも。利息は取りません。ただし、立て替えるのは正価の分だけです。あちらが不当に値上げした分は、こちらで争います。あなたのお父様が寝込んでいらした八年間に、薬代がどう動いたか、全部並べて、責任者の方に説明していただきますの」
「なぜ、そこまで」
「利のある取引ですもの。あなたが壇上で口を開いてくださるなら、こちらは伯爵領一年分より高いものを手に入れますわ」
「……安く見られたものね」
「あら。高く買ったつもりですけれど」
そう言って笑みを浮かべれば、マリアンヌもまたいつものツンとした顔に戻る。
それから背を向けて、細い通路を遠ざかっていく。
最後の一手が、これで揃った。




