第40話 セバスティアンの故郷
数日後の放課後、私は学園の教材倉庫にいた。
石造りの小部屋には、紙とインクと埃の混ざった、乾いた匂いが籠もっている。
棚には刷り上がったばかりの教材が、紐でくくられて積んであった。
平民向け初等教育の拡充案は、教会学校三つでの仮運用で成果を出したので、配布先を広げる段階に入っている。今日はその発送の割り振りだ。
「王都の東で二十部、南の二校で三十部。……それで、あの、ユリアーナ様。一つ、ご相談が」
木箱の数を指差しで確かめていたセバスティアンが、手元のノートから顔を上げた。
「北部にも、送らせていただけませんか。街道沿いに教会学校が二つあります。送料は、その、僕の給金から出して頂ければと思うのですが……」
「その必要はなくてよ。送料ごと予算に入れるわ。むしろ、どうして最初の案に入れなかったの。北部は、あなたの故郷でしょう」
彼の手が、ノートの上で止まった。
「ご存じ、でしたか」
「学籍の書類の、出身地の欄に書いてあったもの。それ以上のことは、知らないわ」
嘘ではない。書類の上の出身地と、父の書斎で読んだ穀物の記録。二つを繋ぐ線は、まだ私の頭の中にしかない。
セバスティアンは積まれた木箱に視線を置いたまま、しばらく黙っていた。
それから、値札の貼られた教材の表紙を、指の腹でそっと撫でた。
「僕の村は、街道から外れた、小さな村でした」
静かな声だった。
「八年前の飢饉の年、僕は七歳でした。秋の初めに、見たことのない商会の荷馬車が来て、村の麦を全部、買っていきました」
値札を撫でていた指が、教材の角で止まる。
「うちの村は、代々、東の商会に卸していました。父は渋りましたが、村長が押し切ったんです。新しい商会の方が、二割高く買うと言ったので。……皆、喜んでいました。冬の前に、その麦が十倍で戻ってくるまでは。多分、他の領地では既に不作の傾向が出ていたんでしょう。でも村にいる僕らに、そんな情報は届かなかった」
教材の角に置かれた指が、そこで離れた。
「父は、冬の終わりに。母と妹は、次の春に。流行り病、ということになっていますが」
「それ以上は言わなくていいわ」
飢えて弱った体に、病は選り取り見取りだ。死因の欄に飢饉と書かれない死は、前世の統計にも山ほど埋まっていた。
「商会に入ってから、一度だけ調べました。あの荷馬車の商会を」
「何か出まして?」
「何も。名前も、看板の色も、村の誰も覚えていませんでした。春には解散していて、登記に残っていたのは、聞いたこともない代理人の名前が一つだけ。……顔のない商会です」
顔がないのではない。顔を作らずに済むように、作られたのだ。
三つとも、麦を買うためだけの器。買い終われば畳んで捨てる。仕入れの金だけが、同じ両替商から出ていた。
「一つ、伺ってもよろしい? 北部で穀物を買い付けるには、王宮の許可が要りますわね」
「はい。うちの商会でも、北部の許可を取るのに三年かかりました。ですが、あの商会は、秋の初めには荷馬車を出しています」
三年の手続きを、一夜で通した誰か。
商会を作るより、許可を通す方がずっと難しい。難しい方を平気でやってのける手段が、議会の側にある。
私は頭の中の一覧表に、項目を一つ足した。八年前、三つの商会に商いの許可を出したのは誰か。
「それで、あなたはどうやって王都までいらしたの」
「村を出る時は、王都なんて考えていませんでした」
彼は教材の束の荷紐を、指で軽く整えた。
「隣の村へ行けば、麦を分けてもらえると聞いたんです。行ったら、そこも同じでした。それで、次の村へ。その次も。……南へ行けばまだ食べ物があったので、南へ歩いただけです。街道に出て、荷馬車の轍を辿りました」
「その先が、王都だった」
「はい。三か月かかりました」
三か月も……。七歳の足で、ただ一人で。
それはどれほど過酷な道のりだったことだろう。
「王都に着いて市場の隅で倒れかけていたところを、ブラウン商会の会頭に拾われたんです。屋台の釣り銭のごまかしを、通りすがりに指摘したのが目に留まったそうです。読み書きと算術を仕込まれて、十三の年に、跡取り候補にすると言われました。血の繋がりはありません。『才を買った』というのが、会頭の口癖です」
入学前からの疑問が、やっと分かった。
貧しい家の出身で、どうやって有力商会の跡取りになったのだろうかという、あの問いの答えは、飢饉と、行き倒れと、釣り銭だった。
「教材に値札を貼るのは、値段の裏側を、疑えるようにするためです」
彼は教材の表紙を、もう一度撫でた。
「商人が相場より高く買う時は、必ず理由があります。もっと高く売れる当てがあるか、急いで手に入れたいか。……どちらにしても、高く買い取る理由を、売る側が知っていなければ容易に損をしてしまう」
「二割の理由を、誰も聞かなかったのね」
「はい。得をしたと思って、それで終わりました。父も、村長も、僕も」
彼の声が、そこで一度だけ低くなった。
「読み書きと算術を覚えて最初に分かったのが、それでした。数を数えられるだけでは足りない。なぜその値段なのかを考えられないといけません」
「だから、あなたはパンの値段から教える」
彼はそこで顔を上げて、いつもの、少し硬い笑い方をした。
「はい」
「三つの学校の子たちの計算能力の向上が証明しているし、とてもいい教材だと思うわ」
「ありがとうございます」
セバスティアンの今度の笑みは、少し柔らかい。
かつて彼の村で穀物を買い占めた商会の名前を、彼は知らない。荷馬車の商会は春には消えてしまって、村から辿れる糸は残っていないから。
でも、私は知っている。
三つの商会の背後に、どの家が――誰がいたのかを。
でも、それは伝えないでおく。
今言えば、彼は復讐に走る。学園も商会も教材も捨てて、たった一人で、あの家に向かっていってしまう。
商機を逃さない合理的な性格だと思っていたけれど……案外、情にもろい。育ての親に似たのかしら。
それが分かる程度には、彼の性格が分かってきた。
私はノートを開いて、発送先の一覧に手を伸ばした。
「村の名前を教えてくださる。教会学校の分と、村へ直接の分。二口に分けて送りましょう」
「えっ。村に直接、ですか。学校のない村に教材だけ届いても……」
「教材と一緒に、教師の派遣願いの書式を同封するの。村から願いが出れば、派遣の予算をつける根拠になるわ」
セバスティアンは目を丸くして、それから深く頭を下げた。
下げた頭の向こうで、教材の束の荷紐が、きし、と小さく鳴った。
私はその音を聞きながら、彼の言った村の名前の綴りを、一字ずつ確かめて書き終えた。




