第39話 全ての糸が繋がる
三つ目の束の一番上には、見覚えのある文書が載っていた。
騎士団の訓練制度の問題点を挙げた、あの内部文書。書庫で写しを読んだものだ。ただし、こちらには署名がある。アイゼンハルト。バルトロウの家名だ。
「原本、ですのね。どうして、うちに」
「十年前、騎士団の制度改革案が議会に掛かった。掛かって、審議未了で三度潰された。潰した中心が、当時の予算委員会だ」
父は文書の端を、指の背で一度だけ弾いた。
「三度目の後、アイゼンハルトがこれを持って来た。『自分の代では、もう通らん。いつか使ってくれ』と言い残してな。書庫の写しは、検討用にクラウスへ作らせたものだ」
書庫であの写しを見つけた日、どうしてこんなものがうちの棚に、と首をひねった。
答えは、こんなに近くにあったのか。
視線を感じて扉の脇を見ると、クラウスが目礼をよこした。あの日、写しについて何も言わなかった老執事は、今日も余計なことを言わない。
そこで、父の手が止まった。
箱の底に、まだ一つ、束が残っている。細い麻紐で十字に縛られた、薄い束だ。他と違って写しではない。原本の紙の、重たい黄ばみ方をしている。
あの夜、父はこの束だけ、机に出さなかった。話が長くなる、と言ったあの夜にさえ。
「これは、お前に見せるかどうか迷った」
父の親指が、箱の角の擦り切れを、ゆっくりと一度なぞる。
「だが、お前はもうこの件の指揮を執っている。指揮官に伏せていい情報などないからな」
紐が解かれると、乾いた麻の匂いが、ふっと立った。
一番上の紙は、ギルドの中央工房の薬の入出庫の写しだった。日付は、八年前の春。
読み進めて、指が止まった。
解熱の特効薬。北方産。在庫、十二。
その二行下、同じ薬の名前。十日後の日付で、出庫の記録。売り先は南方の伯爵家。値は――仕入れの、四倍。
「お母様が……」
声が、震える。
「お母様が熱病で亡くなったのは、この年の春ですわ」
「そうだ」
父はそれ以上の言葉を足さず、束の中から二枚目を出して、私の前へ置いた。
ヴァイスフェルト家から中央工房へ宛てた、薬の手配の依頼状の控えだった。日付が三つ。三日おきに、三通。
三通目の余白に、受け取りの返答が書き付けてある。事務的な、他人の字だ。
『在庫切れにつき、手配不能』
在庫、十二。
手配不能。
二枚の紙を並べる。それだけだった。それで、全部だった。
部屋の音が、遠くなる。窓の外で庭師の鋏が鳴っているはずなのに、聞こえない。
八年前の春。ユリアーナの記憶の中で、母の部屋には医師が出入りして、廊下にはずっと薬湯の匂いが漂っていた。
効かない薬湯の匂いだ。効く薬は、工房の棚の上で、値が上がるのを待っていたのだから。
手が冷たい。指先から順に、冷えてゆく。
窓際で、硬い音がした。
見ると、兄が窓枠に手を置いて、外を向いていた。指の関節が白い。母との時間が私より長かった人だ。あの時の無念を、記憶しているはずだ。
「旦那様はご自身で三度、工房へ足を運ばれました。爵位も家名も控えの間に置いて、奥様を救いたい一心で頭を下げられました。……ですが、三度とも、返答は同じでございました」
「在庫切れ」
「はい」
クラウスが、抑えきれない悔しさを声に乗せる。
それだけ無念だったのだろう。
父の指が、机の上で一度だけ鳴った。
とん。
聞き慣れた音のはずなのに、今日は違って聞こえた。
ああ、そうか。これは、蓋の音だ。開けたら仕事にならないものの上に、この人が八年間、置き続けてきた蓋の音。
ふいに、鼻の奥に薔薇の香りがよみがえった。
白い手に染み込んでいた、母の薔薇。切り落とされた花びらを、手の平に集めた朝の匂い。
私は二枚の紙の角を揃えて、静かに机へ戻した。
「お父様。一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「うむ」
「私の研究枠の提案書を、あの時、即決で宰相府へ回してくださいました。理由は、これですのね」
父は眼鏡の奥から、私を見た。
「聖属性の研究が進めば、治癒はギルドの独占ではなくなる。……お前の提案書を読んだ夜、私は八年ぶりに、酒を開けた」
それだけ言って、父は視線を書類へ戻した。
この人の八年間を、私は何も知らなかった。厳格な父、という一言の下に、こんなものが隠されていたなんて。
兄が窓際から離れて、机の上の写しを覗き込んだ。
「一つだけ、分からないことがある。飢饉も、薬も、騎士団も、あの家の利になる。それは分かる。だが、ここ一、二年の動きは違う。予算の妨害も、魔導炉の破壊も、狙いが露骨にうちへ寄りすぎている。なぜ、ここまでヴァイスフェルトに絡むのしょう。あの家と何か因縁でもあるのですか」
押し殺したような声だった。
「知らん。少なくとも、この家の記録には何もない」
父が短く答えた。
記録には、何もない。
その言い方が、なぜか耳に残った。けれど父はそれ以上の言葉を口にしなかった。
私は箱の中を見渡して、頭の中の一覧表に項目を足していく。
穀物。薬。騎士団。そして、母。
全部の糸が、同じ方角へ伸びている。
「お父様。この束、時系列の表に写します。お借りしてもよろしいですか」
父は箱の蓋を閉じて、私の方へ押し出した。
「持っていくがいい。ただし、写しを作るように。原本はこの箱ごとお前が管理しろ。切り札は、札を切る人間が持つものだ」
両手で受け取った箱は、見た目より重かった。
八年分の重さだと思うことにして、私はそれを抱え直した。




