第38話 裏が取れる
マクシミリアンを名前で呼んだ夜から、五日が過ぎた。
呼び方が変わっても、仕事の量は変わらない。
ただ、報告書の宛名を書くたびに、羽根ペンが三秒ほど宙で迷うようになった。
結局、書面には今まで通り「殿下」と記して封をする。名前で呼ぶのは二人きりの時だけ。それでいい。書面は業務よ、業務。
その業務が今日は、学園ではなく屋敷で私を待っていた。
学園から帰宅した私の部屋の扉を叩いたクラウスが、いつもより少しだけ声を低くする。
「旦那様がお呼びでございます。ヴィクトール様も、既に書斎に」
「裏が取れたのね」
「おおよそは」
完璧な裏付けは取れなくても、それを元に戦えるだけの資料が手に入ったのだろう。
クラウスも父も、無駄な仕事をする性格ではない。
廊下を歩く間、窓の外の庭が目の端を流れていく。
白薔薇の季節はとうに終わって、庭師が冬支度の剪定を始めていた。
書斎の扉は、開いていた。
中は、いつものインクと革の匂い。そこに今日は、日に焼けた古い紙の匂いが重なっている。
机の中央に、あの書類箱が置かれていた。蓋は開いている。革張りの角の擦り切れが、窓の光の下でやけに白く見えた。
父は机の向こう。兄は窓際。クラウスは扉の脇。この間の家族会議と、同じ配置だ。
「座れ」
勧められた椅子に腰を下ろすと、父は箱から紙の束を三つ、順に机へ並べた。
「先日話した中身の、裏が取れ始めた。順に見せる」
一つ目の束は、変色した取引の記録の写しだった。日付は八年前のもので、北部の穀物の売り買いが、几帳面な字でびっしりと写し取られている。
「八年前、北の三領で飢饉が起きた。種籾が腐り、穀物の値が冬までに十倍に跳ねた」
「存じています。天候の巡り合わせが最悪だった、と教わりましたわ」
「天候だけなら、値上げの幅は五倍で止まっただろう」
そう言った父の指が、写しの一点を押さえた。
「飢饉の兆しが出た初秋に、聞いたこともない小さな商会が三つ、北部の穀物を買えるだけ買っている。冬に十倍で売り抜けて、春には三つとも解散して消えた」
「買い占めたのですね」
「そう呼べる証拠があれば、な」
穀物の値は、上限を国が決めている。売り買いは公開の市に限られ、蔵に眠らせた分には届け出の義務がある。破れば、爵位のある家でも咎めは免れない。
商いにここまで国が口を出すのは、百年ほど前の一件のせいだ。
飢饉のたびに相場を荒らして肥えた商人が、蓄えた金で古い伯爵家を丸ごと買い取った。当主に金を貸し、娘を嫁がせ、家名だけ残して中身を入れ替えたのだという。
それ以来、穀物の相場に手を出す行為はタブーとなった。
……それにしても、十倍の値上がりとは。
上限の範囲内では、十倍にはならない。この数字は、市の外で売られた証拠を、自分から名乗っている。
「飢饉の兆しを掴んだ者には、王宮へ知らせる義務がある八年前、北の被害の報告が議会に上がったのは、麦が全部買われた後だ」
「報告が、遅れたのですね」
「遅れたのではない。遅らされた」
父は写しをめくり、下から一枚を引き抜いた。北の三領から議会へ宛てた、被害の報告書の控えだった。
「三度、差し戻されている。理由は書式の不備だ」
書式。
綴じ紐の結び方。斜めのホチキスの針。余白の誠意。
書式に文句をつける相手は、中身を通したくない。半年前に自分で言ったばかりの台詞が、そっくり返ってきた。
私の場合、止まったのは予算だ。八年前に止まったのは、北の三領の冬である。
「そして三つの商会の仕入れ金は、同じ両替商から出ている。両替商の店は、辺境の街道沿いだ。そして、その街道を敷いたのは」
「レーゲンブルク侯爵家」
先回りして答えると、父は短く頷いた。それだけで、続きの説明を省く。この人の会話は、昔からこうだ。
「うちの領も、あの冬は西の穀倉を全部開けた。北へ送る麦を買い足そうにも、市場のどこにも麦がなかったからだ。買い占められていたのが分かったのは、裏で値が十倍に跳ね上がってからだった。取り締まろうにも、なかなかしっぽを掴ませなかった」
声の調子は変わらないが、父は写しの束を指で二度、揃え直した。
揃っている紙を、揃え直す。この人の手が無駄な動きをするのを、私は初めて見た気がする。
二つ目の束は、治癒魔導士ギルドの出納の記録の写しだった。薬の値段の一覧が、年ごとに並んでいる。
「二十年前の値上げ騒ぎの頃からのものだ。三か月ごとに、示し合わせたように値が跳ねている。跳ねたのは、神殿に近い古い工房ばかり。そこへ悪評が立って、まとめて潰れた」
「潰れた後に残ったのは、侯爵家寄りの工房だけ。理事の席ごと、ですのね」
「そうだ。値を吊り上げた咎で潰された工房の側にも、当時の言い分の控えが残っていた。『上からの指図で値を変えただけだ』と。その上が誰かを言う前に、工房ごと消えたがな」
自作自演の骨組みが、紙の上に透けて見える。火を付けた手と、消火の功労者の手が、同じ袖から出ている。




