第36話 見て見ぬフリなんてできない
その週末、私はさる侯爵家の夜会に出ていた。
レーゲンブルクとは別の、中立寄りの家である。
社交は情報戦の最前線だ。色々な話が聞けることだろう。楽しみだ。
広間には楽器の音色と、香水と葡萄酒の混ざった匂いが満ちていた。シャンデリアの下では、扇とグラスが優雅に行き交っている。
私は挨拶の順路を型通りにこなしてから、広間の隅に席を取った。
果実水を口に運びながら、耳だけを会場に向けておく。
浄化魔法の事故の話題は、思ったより少なかった。あの記事の割に、貴族たちの食いつきが鈍い。話題として面白がるには、研究院は社交界から遠すぎるのだろう。
代わりに、別の名前があちこちで小さく囁かれている。
ヘルムシュタット。
視線で人垣を辿ると、広間の柱の近くに、蜂蜜色の巻き毛が見えた。
マリアンヌだ。糾弾失敗の一件以来、彼女が夜会に出てきたという話は聞いていなかった。
その周りを、三、四人の令嬢が囲んでいる。扇は皆、口元を隠す角度だ。あの角度の扇の内側で交わされる言葉に、ろくなものはない。
「――それで、例の日付のお話、その後いかがなさいましたの?」
「公文書がお好きなんですものね。ふふ、私たちには難しくて」
「殿方の前で他家を糾弾なさるご勇気、私には到底……」
笑いの形をした刃が、囲みの内側へ落ちていく。
マリアンヌは扇も開かず、まっすぐ前を見たまま立っていた。囲まれているのに、誰の顔も見ていない。
彼女につくはずだった侯爵派の令嬢たちは、遠巻きに知らん顔だ。糾弾された側に近い家々が、彼女に同情するはずもない。
敵からも味方からも切り離された、宙ぶらりんの席。
……ああ、もう!
見なかったことにすれば良いのに。でも、足が勝手に動くのだから仕方がない。
「ごきげんよう、皆様」
囲みの輪が、音を立てて割れた。
「ゆ、ユリアーナ様……」
「楽しそうなお話ですこと。私も混ぜてくださいな」
扇を開いて微笑むと、令嬢たちの視線が泳いだ。糾弾した側とされた側が並ぶ図など、彼女たちの筋書きにはなかったのだろう。
「マリアンヌ様にはね、私、感謝しておりますのよ」
あえて、会場に通る声で言った。
「あの日のご指摘のおかげで、研究枠の公文書の整備が進みましたの。日付の照合の手順も、あれから正式に定められましたのよ。異論を口にできる方は、貴重ですわ」
しん、とした。
嘲笑は、標的が庇われた瞬間に行き場を失う。令嬢たちは口々に「ごもっともですわ」と言い残し、潮が引くように散っていった。
マリアンヌは、私を見た。
何か言いかけて、やめて、それから一礼もせずに背を向けた。
規則正しい靴音が、五歩目で一度だけ止まる。
止まって、また歩き出して、人垣の向こうへ消えた。
礼の一つもないのね、と思わなくもない。でも、あれでいい。ここで殊勝に礼など言われたら、かえって調子が狂う。
完全論破した相手を後から潰すのは、三流のやることよ。
それに、潰したいのは彼女じゃない。彼女にあれを言わせた、あの空の椅子の主なんだから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夜会の翌日、私は父の書斎の扉を叩いた。
珍しく先ぶれをクラウスに頼み、兄にも同席を願ってある。家族会議、というやつだ。この家でそんな席を私から求めたのは、初めてのことだった。
書斎は、いつものインクと革の匂いがした。
父が机の向こうに、兄が窓際に、クラウスが扉の脇に控える。三人分の視線を受けながら、私は机の上に紙を並べていった。
ユリウスたちの鑑定書。神殿からの手紙の写し。研究院の予算査定が三度も突き返された記録。新聞記事の切り抜き。そして、途中で糸の切れた噂の調査の控え。
「調査の結果、魔導炉の破損が人為的なものだと証明されました。こちらは責任者のユリウスと、別の専門家の鑑定書です。そして、事故の翌日には議会で質疑が出て、三日後には記事になりました。十日後には神殿から、ミリアさんへ勧誘の手紙。全部、順序良く並んでいます」
父は一枚ずつ、黙って目を通していく。読んでいる間は、私も黙る。
紙をめくる音だけが、書斎に規則正しく続いた。
鑑定書のところで、その音が一度止まる。神殿からの手紙のところで、もう一度。
止まった二枚は、どちらも机の右側へ、他と分けて置かれた。
最後の一枚を机に置いて、父が顔を上げる。
「それで、この後どうしたいのだ」
「私一人では、ここまでです。社交界の噂は洗えても、議会の中と、神殿の中と、何十年も前の商いの記録までは、手が届きません」
息を、一つ吸った。
「お父様。お兄様も、クラウスも。……助けてほしいのです」
言えた。
誰かに頼るという、ただそれだけのことを、二度の人生で初めて、自分から。
前世の私は、頼み方を知らなかった。
仕事は抱えるもので、限界は隠すもので、助けてほしいの一言は、無能の証明書だと思っていた。
でも、今の私は、知っている。一人で抱えた案件の末路がどうなるかを、身をもって知っている。
書斎が、静かになった。
父の指が、机の上で一度だけ、とん、と鳴った。
兄が窓際から離れて、机の上の紙を覗き込む。
「遅い」
「お兄様?」
「困ったら言え、と言ったはずだ。……半年は遅い」
言葉は刺々しいのに、紙を繰る手つきは丁寧だった。ツンデレの解読にも、だいぶ慣れてきた私である。
クラウスが扉の脇で、深く一礼した。
「私の古い伝手も、まだ錆びてはおりません。お任せくださいませ」
そして、父は。
父は何も言わずに立ち上がり、書架の奥の、施錠された棚を開けた。
取り出されたのは、古い書類箱だった。革張りの角が擦り切れて、下地の木が覗いている。父はその角を親指で一度なぞってから、机の中央に置いた。
「レーゲンブルクか」
低い声だった。
「座れ。話が長くなる」
私は、勧められた椅子を静かに引いて、腰を下ろした。




