第34話 実験場
中間報告パーティーの騒ぎから、ひと月半が過ぎた。
季節は移って、王都の朝と夕方には乾いた風が立つようになっている。
私は今、王都の北の外れにいた。王立魔導研究院、その裏手の実験場である。
柵で囲われた屋外の一角に、今日だけの見学席が組まれていた。
並んでいるのは議会の予算委員会の面々と、農政の担当官、それに新聞社の記者が数名。招いたのは、もちろん私だ。
名目は、浄化魔法の大規模実験の公開。
本音は、渋られ続けている研究院の予算への反撃である。
あの中間パーティーの後も、研究院の予算査定は渋られ続けていた。
書類の体裁を直せと言われて直せば、今度は根拠の資料が足りないと突き返される。
三度目の差し戻しの理由に至っては、綴じ紐の結び方だった。
綴じ紐。国の予算が、蝶々結びのやり方で止まるなんて、普通はあり得ない。これって、笑うところなのかしら。
でも前世社畜にとってこれくらいの嫌がらせはどうってことはない。
前世で企画書を三回突き返された事がある。
一度目は、ホチキスの針が斜めだから。
二度目は、印鑑が上司の方へお辞儀していないから。
三度目は、余白が広すぎて誠意が足りないから、だそうだ。
誠意。余白に、誠意ってナンデスカ。
中身の話は、三回とも一度も出なかった。当時の私はその都度、深夜のオフィスで綴じ直し、押し直し、余白を詰め直した。
あの頃に学んだことが一つある。書式に文句をつけてくる相手は、中身を通したくないのだ。直しても直しても、次の粗を探すだけ。
だったら、直す場所を変えればいい。
書類の戦で埒が明かないなら、戦場を変えるまでである。
結局あの企画は、書類では一度も通らなかった。
通したのは、売り場だ。
私は先方の担当さんを口説き落として、週末の二日間だけ、郊外の店の棚を一本借りた。
並べたのは、既にどこの店にも置いてある商品だ。棚の作りと、置く高さと、添える言葉だけを、企画書の通りに変えた。
そして、二日で、その棚だけが売り切れた。
月曜の決裁会議でそれを発表すると、企画が通った。
ホチキスの針は、相変わらず斜めだったのに。
百枚の陳情書より、一度の実績の方がインパクトがある。
人は書類だけでは動かないが、目の前で死んだ土が生き返るところを見せてしまえば、動くに違いない。
いや、動かしてみせる。
招待状の文面はエリーゼが練り、送り先の順番と席次はマルガレーテが組んだ。
当日の来賓の顔ぶれと関心事は、フリーデリケが前日までに調べてくれる。
わが広報部は、学園の外でも十分に通用する仕事をした。
そして教授とミリアは、この日のためにリハーサルを五回重ねた。
魔力の量、詠唱の間、魔力炉との距離。
五回目の通しでは、木箱三つ分の土が一時間もかからず色を取り戻した。
準備は、できた。
あとは本番で、いつも通りにやるだけだ。
実験場の中央には、南部の塩害地から運ばれた土が、掘り下げた区画いっぱいに敷き詰められている。荷馬車で三台分。以前見た木箱とは、規模がまるで違う。
風が土の上を渡るたび、潮と錆の混ざったような、あの死んだ土の匂いがうっすらと届いた。
区画の脇には、大人の背丈ほどの魔導炉が据えられている。ミリア一人の魔力を増幅して、畑一枚分をまとめて浄化するための装置だ。
基礎の理論には、ユリウスの魔力伝導の研究が使われている。学園と研究院の共同成果として発表できるのだから、広報の面でもおいしい実験だった。
「本日はようこそお越しくださいました、皆様。いやあ、実験には良い日和で。このくらい乾いた風が――おっと、講釈は後にいたしましょう」
ヴェーバー教授が見学席へ早口の挨拶を済ませ、白い作業着のミリアが区画の前に立った。
遠目にも、肩が上がっているのが分かる。
開始の前、彼女がこちらを見た。
私は扇を胸の高さで小さく開いてみせる。いつも通りに、の合図だ。
打ち合わせ通り、練習通り。本番で特別なことをする必要はない。
ミリアの肩が、すっと下がった。良い子だ。
詠唱は短かった。祈りに似た、数語だけ。
手の平からこぼれた淡い光が、今日は土ではなく、まず炉へ吸い込まれていく。
炉の中で膨らんだ光が管を通り、区画の隅々へ広がった。低い駆動音が、腹の底に響く。
変化は、やはり色から始まった。
白い粉が、区画の縁から順に消えていく。
灰色の土が湿り気を帯びて、見学席のあちこちから声が漏れた。
予算委員の一人が、身を乗り出して眼鏡を直している。
農政の担当官に至っては、席を立って柵まで歩み寄っていた。
乾いた風に、雨上がりのような土の匂いが混ざり始める。
あの匂いが届けば、勝ちだ。書類だけ見ても、土の匂いはしないのだから。
いいわ、その調子。あとはこのまま――
そう思った時、炉の音が、変わった。
低い駆動音に、耳の奥を引っかくような高い音が混ざる。管の継ぎ目から、細い光が漏れ始めた。
ヴェーバー教授の顔から、柔和さが消える。
「供給を切れ! ミリア、手を離しなさい!」
「は、はいっ――」
ミリアが手を引くのと、破裂音は、ほとんど同時だった。
白い閃光。土埃。見学席の悲鳴。
気づいた時には、私は柵を跨いで走り出していた。
「ミリアさん!」
彼女は区画の縁にうずくまって、右の手の平を左手で押さえていた。指の間から覗く皮膚が赤い。
治癒魔法は自分にはかけられない。だからすぐに叫んだ。
「治癒魔導士を! それから冷たい水と、清潔な布を早く!」
叫ぶと、研究員たちが弾かれたように散った。教授が駆け寄り、ミリアの手を取って傷を確かめる。
「だい、じょうぶです。びっくりした、だけで……ちょっと熱かっただけ、ですから」
声が震えている。大丈夫な人間の震え方ではないけれど、命に関わる傷でないのは確かなようだった。
焼けた皮膚の匂いに、鉄のような残り香が混ざって鼻を突く。
「あの、私、自分で治せなくてすみません。聖属性なのに、情けないですよね」
「知っているわ。自分の傷は治せないのでしょう?」
そう言うと、ミリアはホッとしたように頷く。
「自分の体には、うまく効かないんです。手の平から光を出すのに、その手が痛いと、どうしても集中が切れてしまって。自分の傷に使おうとした魔導士は、大抵、途中で気を失うそうです」
ミリアは左手で、怪我をした場所をそっと押さえた。
「たまには、おとなしく治される側でいなさい」
「はい」
水と布が届き、教授の指示で応急の処置が始まる。
その間、私は片膝をついてミリアの背をさすりながら、視線だけを炉へ向けていた。
あれだけ事前に点検したのに、こんな風に破裂するのは明らかにおかしい。
よく見ると、外装の継ぎ目が、内側から膨らむように裂けている。裂け目は共振部の一点から走っていて、その周囲だけが焦げて黒い。
あれは、経年劣化の裂け目の入り方じゃない。
背後で、見学席の椅子が鳴った。
振り返ると、予算委員の何人かが、渋い顔を見合わせて立ち上がるところだった。
「浄化魔法とやらは、危険なようですな」
聞こえよがしの呟きを残して、査定の筆を握る方々が、予定より早く引き上げていく。
その背中へ完璧な礼を送ってから、私はミリアに肩を貸して、医務室へ向かった。
医務室の寝台で手当てを受けながら、ミリアは何度も頭を下げようとした。
「ごめんなさい、ユリアーナ様。私、あんなに練習したのに、大事な日に……」
「謝るのはやめなさいな。練習では五回とも全部成功していたのよ。今日だけ壊れる炉の方がおかしいの」
「でも」
「でも、じゃないわ。あなたの仕事は、まずはその手を治すことと、次の実験の準備だけ。原因を究明するのは、こちらの仕事よ」
包帯の巻かれた右手を見下ろして、ミリアはようやく小さく頷いた。
治癒魔導士の見立てでは、跡も残らない軽い火傷だという。それを聞いて、ようやく安心した。
軽く済んだのは、教授の判断が早かったからだ。あと数秒、供給を切るのが遅れていたら……。
その先は、考えるだけにしておく。
でも、決して忘れはしない。




