第33話 幕間 王家の古い棘・3(マクシミリアン視点)
「廃嫡は、その月のうちに決まった。だが、毒杯は賜らなかった」
「なぜです」
「王妃が、帝国の姫だったからだ」
それは……確かに。
「息子を殺せば、帝国が動く口実になる。国内の混乱と、帝国との戦争。どちらを取るかは悩むところであっただろうな」
秤に、かけたのか。
辺境の侯爵位と領地は、褒美ではない。首をつなぐ代わりに玉座への道を断ち、目の届く場所から遠ざけるための処置だ。
殺す気がなかったのではない。殺せる状況になるまで、待つつもりだったのかもしれない。そして、その状況は来なかった。
「記録は、その年のうちに消された。年代記から、勅書の控えから、議事の記録から、名の残るものは全て。……残したのは、一冊だけだ」
たった一冊。
だが残された記録があるだけでも、幸いなのかもしれない。
「その一冊は、王家の私庫にある。私は即位の折に読んだ。祖父から話を聞いた後で、確かめたくなってな」
父は眼鏡を掛け直し、私の顔を見た。
「お前も、いずれ読む。が、今日ではない」
その一言で、この人がなぜ最初に「少しは成長したか」と言ったのかが分かった。
順番があったのだ。私が自分の足でこの名前を持ってくるまで、父は待っていた。
だが、まだ足りない。まだ、聞いていないことがある。
「陛下。その、婚約者だった公爵令嬢の家は」
父の指が、机の上の写しに戻った。
「ヴァイスフェルトだ」
部屋の音が、遠のいた。
書架の紙の匂いも、表紙の皮の匂いも、一度どこかへ引いていって、それから戻ってきた。
二百年前、あの家の初代が殺そうとした娘の家が、私の婚約者の家。
それはかつての因縁を、私の代で解決させようという狙いがあるのではないだろうか。
「父上は、それで彼女を私の婚約者にしたのですか」
「無論、それだけではないが、考慮する一端になったのは確かだ。もっとも、当のあの家が覚えているかどうかは知らん」
ヴァイスフェルトは覚えていないかもしれない。
だが、廃嫡された王太子はどうだ。
約束されていたはずの玉座から追放された、レーゲンブルク侯爵家の初代となった男は、その恨みをずっと抱えてはいなかっただろうか。
もし、私だったら。
ないとは思うが、寵姫にたぶらかされて廃嫡されたとしたらどうだろう。
自業自得だとは分かっていても、それでもなお、消化しきれない鬱屈を溜めていたことだろう。
玉座が眩しければ眩しいほど、その手から失ったものの大きさに気づかされる。
命だけは助かった。
だが、それだけだ。
知らずに手を握りこんでいた。爪の先が手の平に当たる。
「父上、彼は、その後どうしたのですか」
「辺境へ下って、彼は荒れていた土地に人を入れて、街道を通して、二十年で税収を三倍にした。私庫の記録に、当時の宰相の書き込みが残っていた。道を誤りはしたが、腐らずに励んでいる、とな」
父の口の端が、わずかに動いた。笑ったのではない。
「腐らずに励んでいる男を、誰が警戒するだろうか」
背筋の産毛が、また逆立った。
「爪を研いでいた、と」
「その二十年で、あの家は辺境の販路を押さえている。薬草の産地を三つ、婚姻で身内にした。神殿への寄進を絶やさず、貧しい村に治癒魔導士を送り続けた。……全部、記録に残る善行だ」
善行だけを、二十年。
落ちた家が、落ちたなりに真面目にやっている。そうとしか見えない形を、元王太子は選び続けた。
「では、なぜ今動いたのでしょうか」
「玉座が見えてきたからだろう」
「簒奪を企んでいると?」
「いや、そうではない。あの家は、玉座を奪うのではなく、王統を元に戻すつもりなのだろう」
本来、王家は王太子の子孫が続くはずだった。分かたれた系譜を戻すということは、つまり……。
「ですが、養女では系譜を戻すことにはなりません」
父は、指輪を親指で一度だけ回した。
「そこだ。侯爵家の名簿に載っている娘は、一人もいない」
載っていない。ならば、どこにいる。
「お前の婚約者に噛みついた娘、あれを養女に迎える話が、既にあるそうだ」
「ですが、養女では系譜を戻すことにはなりません」
「戻らんな。だから、あれは足場だろう。負債で縛った娘なら断りようがない。まずは外戚として王宮に足を掛け、その先で本命を通すつもりかもしれん」
「調査によると、あの家は悲願の成就に、いくら時間をかけても良いと思っているらしい。だから、まずは外戚として力をふるうつもりなのかもしれんな」
「それに私には既にユリアーナという婚約者がいます」
「だが学園に入学するまでは疎遠であっただろう」
そう言われると反論できない。
確かに今まではそれほどユリアーナに興味はなかった。
ただ家柄の釣り合う、美しい娘。それだけだった。
けれど、今は……。
「とはいえ、あっさり見捨てたのだから、あれが本命ではないのだろう」
部屋の空気が、ひとつ下がった気がした。
「父上は、本命をご存じなのですか」
「知らぬ。ただ、気になることがある」
「気になることとは」
父は指輪を回さずに、そのまま押さえていた。
「聖属性の娘のことだ。神殿の適性検査は、あの家の目の届く場所だ。あの娘は本来、学園に入るはずだった。しがらみのない平民であれば良いが、気になる」
「まさか、侯爵家の縁戚だと?」
「分からぬが……。可能性はゼロではない」
父がそう言うということは、薄くとも侯爵家の血を引いているということか。
息が、浅くなった。
学園に入り、貴族の子らと同じ課程で学び、王太子と同じ教室に座る。
だが、平民出身の保有者の半数以上が、途中で退学している。ユリアーナの提案書には、そう書いてあった。
それは計画としては、成功する確率が低いのではないだろうか。
「学園に入ったとしても、途中でついていけずに退学する者が多いと聞きます」
「潰れなければ、それでいい。潰れれば、また次を待つ。あの家はそうやって待ってきたのだろう。だが、あの娘は学園に来なかった」
父は、そこで初めて口の端を動かした。今度は、確かに笑っていた。
「提案書が一枚、王宮に上がってきたからだ。聖属性特別研究枠。……お前が私のところへ持ってきた、あれだ」
声が出なかった。
あの春、私は書斎で三枚の便箋を書き損じている。感情を排した完璧な提案書への返事を書くのに、三枚も必要だった。
あれが、あの一枚の紙が、あの家の企みを、横からバッサリと断ち切っていた。
「ユリアーナは、知らないはずです」
「知らんだろうな」
「では――」
「知らずに止めた。しかし、企みを阻止された側としてはたまったものではないだろう」
父は写しを私に返した。
ただの紙なのに、渡した時よりも重たく感じた。




