第32話 幕間 王家の古い棘・2(マクシミリアン視点)
「コンラート」
「はい」
「閲覧記録の原本を、書記官の手の届かないところへ今夜のうちに封印させろ」
「既に手配しております」
私は顔を上げた。コンラートは、束を抱えたまま、いつもの澄まし顔でいる。
「三枚目に侯爵家の痕跡を見つけた時点で、殿下がそう仰せになると分かっておりましたので。先に動きました」
「よくやった」
そうねぎらえば、当然ですという顔を返された。
有能な部下を持つと、余計な手間がなくて良い。
私は席を立ち、上着の襟を正した。
これは単なる学生間のもめごとではない。レーゲンブルク侯爵家とヴァイスフェルト公爵家の派閥争いの一端だと言うならば、父に報告する必要がある。
夕方の謁見が済んだ後なら、父は一人で本を読んでいるだろう。
先ぶれを出したものの、私はその返事を待たずに父の私室へと向かった。
父の私室は、いつも古い革の匂いがする。
壁一面の書架と、磨き込まれた床。窓辺の椅子に、父は本を開いたまま座っていた。
私が入っても、本から目を上げない。
「夕食の時間には、まだ早いぞ」
「お尋ねしたいことがございます」
「政務なら、明日の朝議で聞く」
「レーゲンブルク侯爵家についてです」
ページをめくる手が、止まった。
父はゆっくりと本を閉じ、眼鏡を外して膝の上に置いた。
それから初めて見るような視線で、私の顔を見る。
「ふむ。少しは成長したか」
その言葉に、ああ、父は何もかも知っているのだと確信した。
勧められもしないうちに、私は向かいの椅子に腰を下ろした。革張りの座面が、ひんやりと冷たい。
「何を持ってきた」
私は、抵当の登記の写しを出して渡した。
父は眼鏡を掛け直し、読み終えるまで一言も発しなかった。
「ヘルムシュタットか。あの家の娘が、公爵家の娘に噛みついたと聞いた」
「お聞き及びでしたか」
「宰相が面白がって喋りに来た。あれは面白いものを、面白がるだけの男ではない」
父は椅子に深く座り直した。
「お前は、あの家の初代を知っているか」
「二百年前に辺境で興った家、としか。貴族年鑑にも、それ以上のことは載っておりません」
貴族家としては中堅だ。
とりたてて古いわけでも新しいわけでもない。
「載っていないのではなく、載せなかったのだ。私も祖父から伝え聞いただけだが……あの家の初代は、元は王太子だった」
驚きに言葉を失った。
王太子が廃されるというのは、よほどのことだ。
病を得たり、素行が悪かったりするくらいならば、政務から遠ざけて、お飾りの主君として祭り上げておけばいい。
廃嫡となると、国が揺れるほどの不祥事がなければない処分だ。
だが、そういった記録はない。
王族として、建国から続く王家の歴史はしっかりと学ぶ。
だが、二百年前の王家にそのような不祥事の記録はなかった。父から子へ、滞りなく玉座が渡っている。
記録を消させるほどの何かが、あったのだろうか。
それにしても、と思う。
あの家は、侯爵になっている。
国を揺るがすほどの罪を犯した王族に、位と領を与える王がどこにいる。病死の体裁で毒杯を賜るものだ。
王家はそれを、これまでに何度もやってきた。やり方も、後始末の仕方も、代々受け継がれている。
なのに、殺さずに、爵位を与えて残した。
殺せなかったのか。殺す必要がないと判断したのか。
どちらにしても、消したのは王太子ではなく、記録の方だった。
父は、左の中指にはめた印章の指輪を、親指で一度だけ回した。考え事をする時の、この人の癖だ。
「元王太子には、婚約者とは別に寵愛する女がいた。女は閨で忠臣の讒言を吹き込み、王太子はそれを信じた。国王が外遊に行っている隙を狙って、粛清の勅書を書き、署名まで済ませた」
「誰も止めなかったのですか」
「当時は王権が強い時代だ。王太子の署名がある勅書を、止められる貴族はいなかった。しかも名を挙げられた忠臣が、その日のうちに三人捕らえられている」
「三人も」
「四人目の名で、皆が凍りついた。婚約者だった公爵令嬢の名が、そこに載っていた」
指輪が、止まった。
「なぜ、婚約者まで」
「寵姫が望んだからだ。だが、それだけならさすがに周りが止めた。止まらなかったのは、別に賛成した者がいたからだ」
父は机の上の写しを、指の背で一度だけ弾いた。
「王太子の母だ。当時の王妃は、その公爵令嬢を嫌っていた。息子の婚約者としてふさわしくないと、以前から言い続けていたそうだ。……讒言が来た時、王妃は止めなかった。むしろ、後押しした」
嫁と姑の話だ。
国が割れかけた事件の芯にあったものが、それだったのか。
「処刑の朝、公爵令嬢は既に広場へ運ばれていた。そこへ国王が戻った。外遊の日程を三日縮めて、馬を替え続けて帰ってきたそうだ」
「間に合ったのですか」
「間に合った。だが、そういう話ではない」
父は眼鏡を外し、目頭を指で押さえた。
「間に合ったから助かった、だけだ。次は間に合わないかもしれないと、皆が知ってしまった。……その日から、王太子の言葉は誰にも信じられなくなった」
それはそうだ。寵姫の甘言でたやすく忠臣が処刑されてしまうとしたら、真に国を思う者は去り、甘い汁を吸おうとする者だけしか残らなくなる。
そうして国は腐り、亡ぶのだ。
我が国ももう少しでその道を辿るところだったと知り、背筋が冷えた。




