第3話 書庫と執事
兄が部屋を出た後、朝食の残りを片付けて、着替えを済ませた。
鏡の前でソフィアが髪を結い上げる間、指先が布の上で規則正しく動くのを鏡越しに眺める。
「お嬢様、いかがでしょう」
「ありがとう、上手だわ」
ソフィアがほっとしたように目を細めた。
前世では、他人に髪を触ってもらうことなど美容室くらいだった。しかも忙しすぎて、行けない時期の方が長かった。
「ソフィア。あなた、何年ここで働いているのだったかしら」
「九年でございます。お嬢様が六歳の頃に参りました」
「そう。ということは、お母様が……」
「はい。奥様が亡くなられる前年に参りました」
ソフィアの手が、一瞬だけ止まる。
鏡の中の顔は、言おうかどうしようか迷っている顔だった。
「お嬢様は覚えていらっしゃらないと思いますが……。体調がよろしい時は、奥様はよくお嬢様が起きる前に庭へ出て、このお部屋に飾る花をご自分で摘んでいらっしゃいました。お嬢様が特に白薔薇をお好きでしたから」
知らなかった。
母が白薔薇を好んでいたのだと、ずっと思っていたけれど……。私が……幼い私が、好きだったのか。
母との思い出は少ない。けれど、部屋を飾る白薔薇は毎朝見ていた。
過ごす時間が少なくても、母は私を想っていてくれたのだろう。
「そうだったのね」
「はい。それで私は、毎朝一番に薔薇を摘むようにしているんです。奥様がいつもそうしていたように、お嬢様のそばに置いておきたくて」
鏡の中のソフィアは、視線を下げた。
「余計なことを申しました」
「いいえ」
思っていたより、しっかりした声が出た。
「ありがとう、ソフィア」
ソフィアが顔を上げた。その目が少しだけ潤んでいたが、すぐに表情を引き締めた。
前世の社畜の心には響かなかったかもしれない。
前世を思い出す前の私も「余計なことを言わなくていい」と流したかもしれない。
今は違う。母の私への思いが分かる素敵な話を、切り捨てる気になれなかった。
窓の外の薔薇を、もう一度見た。
母が見ていたのと同じ薔薇が、同じ場所で揺れていた。
午後になると、私は屋敷の東棟に向かった。目的は書庫だ。
天井まで届く本棚が何列も並び、魔導ランプの淡い光の中に、古い紙とインクの匂いが満ちている。
踏み込んだ瞬間、前世の図書館の記憶が重なった。
プレゼン前夜に、データを漁りに通った場所。
ネットで拾える数字より、専門書と学術誌の数字の方が「根拠」として圧倒的に強かったし、他社との差別化ができた。
目的は同じ。ここにある書物から、使えるデータを集める。
まずは王立魔導研究院の現状と、聖属性の研究体制。それから近隣国との比較。研究枠の費用対効果の試算に使えそうな数字は、何でも拾う。
棚の間を歩き始めると、後ろから声がかかった。
「お嬢様、お探しものですか」
振り返ると、白髪の老執事が立っていた。クラウスだ。
この屋敷で一番長く仕えていて、いつも無表情に見えるが、目を見るとなんとなく感情が分かる。ユリアーナの記憶では、そういう印象の執事だ。
「少し調べたいことがあるの」
「さようでございますか」
クラウスは答えながら、すでに棚の方へ体を向けていた。
「ご入用の資料は何でしょう。私めが場所を存じております」
少しだけ迷って、素直に協力してもらうことにする。ヒロインの入学前に研究枠を作るなら、一日でも早い方がいい。
「魔導研究院に関する資料と、聖属性の研究体制についての文書を探しているの」
クラウスは少し考えるように天井を見て、「北の棚の三段目と、奥の書架でございます」と言って歩き出した。
凄い。この書庫の本を、全部把握しているんだろうか。
ためらいのない背中を追いながら、記憶の中のクラウスを探す。
ああ、あった。
幼い頃、高いところの本を取ってはいけないと言われていたのに、どうしても綺麗な背表紙の本が読みたくて、一人で梯子に上った。上りは良かったが、本を抱えて下りる時に足が滑った。
落ちたのは二、三段で、打った膝がすりむけた程度。ただ、怪我をしたのが知られると、梯子に上ったこともバレて父か兄に叱られてしまう。
厳しい二人に、もう二度と図書室へ行ってはいけないと言われるかもしれない。
そんな怖れを抱えて手当てもできずに固まっていた私のもとに、音もなく現れたのが、今より少しだけ皺の少ないクラウスだった。
彼は侍女を呼ばず、騒ぎ立てず、私を床から抱き起こして、誰にも聞こえない声で「侍医を呼びます」とだけ言った。
怪我をすることがとてつもない失敗に思えていたあの時、その静かさに、どれだけ救われたか。
今になって考えると、おそらく侍医から父たちに私の怪我のことは伝えられたのだろう。
だが、まだ小さかった私はクラウスが黙っていてくれたから怒られなかったのだと思いこんだ。
そしてクラウスに嘘をつかせてしまった負い目で、それ以降クラウスと正面から接するのを避けてしまっていた。
「こちらでございます」
クラウスが足を止めた棚には、確かに目当ての資料が並んでいた。魔導研究院の年次報告書から各国比較の外交文書まで、整然と分類されている。
「よく知っているのね」
クラウスはすぐには答えなかった。背表紙を眺めながら、一拍置く。
「先代のご当主の時代から、この書庫の整理を任されておりますので」
それだけ言って、口を閉じた。
綴じられた資料を一冊引き抜いて読んでいると、横からクラウスの視線を感じた。
咎める目ではない。どこか遠くを見るような目で、資料を繰る私の手元を追っていた。
「どうかした?」
「いいえ」
短く返して、クラウスは視線を棚に戻した。
「幼い頃のお嬢様は、よくここで本を読んでおいででした」
その声に、懐かしさが混じる。
「今日は読みに来たのではないけれど」
「はい、存じております」
「じゃあ、なぜそんなことを」
「嬉しかったものですから」
短い答えだった。なぜ嬉しかったのか、それ以上の説明はない。
私は本の背表紙を指でなぞって、棚から目を離さないまま「そう」とだけ言った。
クラウスが静かに頭を下げて、書庫を出ていく気配がした。
一人になってから、手に取った本の表紙を眺めた。
嬉しかった、か。
ゲームのユリアーナは孤独で愛に飢えているように見えたけれど、実際のユリアーナは、家族や使用人に大切にされていた。
記憶を追体験するたびに、それが私の中に積み重なって、同化していく。
だからこそ、断罪されて彼らを失望させたくない。
私は資料をめくる手を早めた。




