第2話 落ち着いて考えましょう
殺す?
論外ね。平民とはいえ聖属性の持ち主を殺せば、断罪どころでは済まない。
でも、「学園に来なくなる」という選択を本人がするなら、話が違う。
ゲームには「王立魔導研究院」という施設が出てくる。学園とは別の、実践的な魔導研究を行う最高学府で、身分を問わず実力で評価される場所だ。
そこに聖属性を正しく活かせる研究枠を作れば、ヒロインが自分の意思で学園を選ばない可能性が生まれる。
私は羽根ペンを持ち直して、紙に書きつけた。
【作戦名:ヒロイン円満退場計画】
書いてから、少しだけ手が止まった。
私は今、初めて自分のために考えている。
前世では会社のために企画書を書いた。終電で次の段取りを考え、始発を待つホームでクライアントの課題を整理した。全部、誰かのため、何かのためだった。
ユリアーナの記憶にも、いつも「王太子の隣に相応しい令嬢」という目標しかなかった。自分が何をしたいかより、何をすべきかが先にあった。
でも今この瞬間、私は自分が断罪されないために動こうとしている。純粋に自分のための作戦だ。
どちらの私でも取らなかった行動。けれど、不思議とそんな私も悪くないと思う。
計画書の続きを書こうとしたところで、扉がノックされた。
「いけない、もうこんな時間」
慌てて紙を伏せて返事をすると、扉が開いて、洗顔用のお湯を持った侍女が入ってきた。
ソフィアだ。ユリアーナの記憶の中で、一番長く仕えている侍女。
薄茶色の髪を丁寧に結い上げ、背筋を正しく伸ばして、少しだけ心配そうにこちらを見ていた。
「お嬢様、お目覚めですか。今朝はいつもより随分と遅かったですね」
「ええ、少し頭が痛くて」
「まあ。……お顔の色が、よくないですわ」
ソフィアは一歩近づいて、額に手の平を当てた。ひんやりとした感触に、思わず目を閉じる。
ああ、こんな風に熱を計ってもらうのは、前世も含めて久しぶりだ。
「熱はないようですが、朝食はお部屋にお持ちしましょうか」
「そうしてもらえると助かるわ」
「かしこまりました。すぐに参ります」
足音が廊下の向こうに遠ざかっていく。
私はベッドに腰かけて、少し開いた窓から外を見た。庭の白い薔薇が、朝の光の中で揺れている。
目覚めた時に嗅いだのと同じ香りが、窓から入ってきていた。枕元の花瓶の花は、あの庭から摘んだものらしい。
これは、ユリアーナの記憶の中にある香りだ。
薔薇の手入れをしていたのは、母だった。庭師がいるのに、母は自分でも剪定をした。
体が弱く寝込んでいることが多かったのに、少し元気になるとすぐに庭に出てしまう人だった。
幼いユリアーナは母の隣に座って、切り落とされた花びらを手の平に集めていた。
その短い時間だけが、母と過ごした記憶だ。
七歳で母が死んで、庭師が薔薇を引き継いだ。
香りは変わらないのに何かが変わった気がして、それから庭に出る回数が減った。
窓の外の薔薇を見つめていると、扉をノックせずに開ける者がいた。
ノックなしで入ってくる人間は、この屋敷に一人しかいない。兄だ。
「ユリアーナ、顔色が悪いと聞いたが」
ヴィクトール・ヴァイスフェルト。二つ年上の、ユリアーナの兄。
父によく似た細い眉と鋭い目の青年が、扉の前に立ってこちらを見ていた。美男子と言っていいが、どこか神経質そうな雰囲気がある。
なぜかゲームには登場していなかったが、記憶の中の彼と、それほど仲は悪くない。
というか、わざわざ様子を見に来るということは、顔に出ないだけでかなり心配してくれているのでは。
「大げさね、お兄様。少し頭が痛いだけよ」
「ソフィアが騒いでいた」
「彼女はいつでも少し大げさなの」
兄は部屋に入ると、断りなく正面の椅子を引いて座った。父と同じ癖だ。許可を取らずに行動する。
「朝食はどうだ。食べられるか」
「いただくわ」
ちょうどそこへ、ソフィアが朝食を載せたワゴンを押して戻ってきた。
兄は無言のまま、私が食べる様子を観察している。圧迫面接をする面接官じゃないんだから、やめてほしい。
「お前、昨日から何かおかしかっただろう」
「おかしい……?」
昨日の私の行動を思い返してみる。
いつもと同じ日常を過ごしていただけで、どこにもおかしいところはない。
「夕食の時に三回、同じ料理に手を伸ばしかけて止めた」
昨日の夕食……。ああ、そういえば学園に通うことに、なぜか不安を感じていた気がする。
前世の記憶を思い出したのは今朝だけれど、その前から私の中で何かが眠りから覚めかけていたのかもしれない。
それにしても、よく見てたわね。
「食欲がなかっただけよ」
「嘘をつくな。お前はいつも残さず食べていた」
図星だった。公爵家の食卓は会話より作法が優先される場で、出された食事はきちんと食べるのが礼儀だ。
「少し、考え事をしていたの」
「婚約者のことか」
鋭い。
微妙に違うけれど、当たらずとも遠からずといったところだ。
「違うわ」
「そうか」
兄はそれ以上聞かなかった。
ただ、テーブルの上のティーカップを少しだけ私のほうへ動かした。「飲め」とも言わず、ただ近づける。
こういうところが、父とは違うな、と思う。
父は「続けなさい」か「黙れ」の二択で、中間がない。
兄は何も言わずに行動する。それがいつも、私の望みを先取りしてくれている。
前世で、こういう気配りのできる男は出世したわね。
公爵家の跡取りがこれなら、将来は安泰だわ。
カップを持ち上げると、ハーブの温かい香りが立ち上った。
「お兄様は、昔から心配性ね」
「お前が無防備なんだ」
「私が?」
「考え事をしている時、表情に出る。母上もそうだった」
不意打ちだった。
母の話を、兄は滅多にしない。父はもっとしない。
屋敷の中で母の名前が出ることは少なく、まるで「出てはいけない話題」のように空白になっていた。
エメライン・ヴァイスフェルト。私のお母様。記憶の中の女性は、青白い顔で、いつもたおやかに微笑んでいた。
「そうなの」
「ああ。考え込むと眉の間に皺が寄るんだ。お前も同じだ」
私の知らない母の顔。
兄のほうが私よりも母との時間が多かった。ただそれだけなんだけれども……。
カップを両手で包んで、お茶を一口飲んだ。
兄と同じ記憶を共有できていない。
なぜだかそれがとても寂しくて。
ハーブの香りが鼻の奥を通り抜けた。母の話をする兄の横顔を、正面から見ることができなかった。




