第24話 前世社畜の胸が鳴る
丸眼鏡の奥の目は柔和で、指には古い火傷の痕がいくつもある。
これは、書類仕事より現場が長い人の手だ。
「ごきげんよう。本日は、ミリアさんの研究を拝見しに参りましたの」
「はい、はい。それはもう、ぜひ。いやあ、あの子の素質は本物でしてな。わしの五十年で、あれほどの子は――おっと、歩きながらお話ししましょう。こちらへ」
話し始めると早口になる癖があるらしい。
案内の途中も、廊下の設備一つ一つを説明してくれるのはいいのだが、相槌を打つのが忙しかった。
廊下ですれ違う研究員たちは、皆一様に袖が汚れていて、皆一様に目の色が明るい。
そして、後ろからついてくるミリアに、次々と声をかけていく。
「おっ、ミリア。今日は走ってないな。偉いぞ」
「昨日の測定値、机に置いといたからね」
「はいっ、ありがとうございます!」
どうやら、特待生というより、研究院中の妹分らしい。
貴族の縄張り争いも派閥の目もない場所で、実力だけを見てもらえる環境。
彼女に用意したかったものが、ちゃんとここにあった。
実験場は、建物の裏手の屋外にあった。
柵で囲われた一角に、腰くらいの高さの木箱がずらりと並んでいる。
中身は土だ。ただし、白い粉を吹いた、ひび割れた土。
「南部の塩害地から運んだ土です。海の水を被った畑は、十年経っても作物が育ちませんでな」
勧められるまま手袋を外し、指先で触れてみた。
乾いた砂利のように硬く、ざらりと崩れる。鼻を近づけると、潮と錆が混ざったような、焼けた匂いがした。
これは、畑の土の匂いではない。たとえるならば、死んだ土の匂いだ。
「ミリア、いつもの通りにやってみなさい」
「はい、教授! ユリアーナ様、見ていてください」
白い作業着に着替えたミリアが木箱の前に立ち、両の手の平を土にかざした。
詠唱は短かった。祈りに似た、数語だけ。
すると彼女の手の平から淡い光が零れて、雨のように土の表面へ染み込んでいく。
変化は、色から始まった。
白い粉が、箱の縁からゆっくり消えていく。
灰色だった土が湿り気を帯びて、乾いた川底に水が戻るように、黒へと色を深めていく。
ひび割れが閉じ、そして、匂いが変わった。
潮と錆の匂いが薄れ、雨上がりの庭と同じ、豊かな土の匂いが立ち上がる。
匂いが変わったその瞬間が、はっきりと分かった。
「触って頂くと、より違いが分かりますぞ」
教授に促されて、もう一度指を入れる。しっとりと重く、指の腹に吸いつくような感触だ。ほんの数分前と同じ箱とは、とても思えない。
これは……。
この技術、前世なら特許と学会発表とプレスリリースで三年は食える案件よ。
いえ、三年どころではない。国の食糧地図が塗り替わる。
「ミリアさん。この土、作物は育ちますの?」
「はい! 先月の試験では、麦の芽が出ました。ただ、今は一箱を治すのに丸一日かかってしまって。魔導炉で術式を増幅できれば、いずれは畑一枚を――」
「それで、大規模実験用の炉が要るのね」
「はいっ。今お借りしている炉は治癒用の古い型で、浄化の魔力と、その、波長が合わなくて」
言いながら、ミリアがふらりと半歩よろけた。
慌てて腕を支えると、作業着越しでも分かるほど、体が熱を持っている。
「ミリアさん?」
「だ、大丈夫です! 一箱やると、ちょっとだけ、ふらっとするだけで」
「ミリア。お客様の前で無理をするでない。ほれ、座って水を飲みなさい」
教授が慣れた手つきで木の腰掛けを寄せ、水差しを渡す。
ミリアは素直に座り、こくこくと水を飲んで、それでもまだ喋ろうとした。
研究の話になると止まらないのは、どうやらこの師弟に共通の癖らしい。
一箱で、この消耗。畑一枚なら、体がいくつあっても足りない。
炉というのは、つまり彼女の体を守る道具でもあるわけだ。
ミリアの説明は途中から専門語の洪水になり、ヴェーバー教授の早口の補足がそこへ重なった。
正直、半分も分からない。
でも、これが画期的なシステムだということだけは、実感した。指先にはまだあの湿った土の感触が残っている。
気がつけば、実験場の柵の外に研究員たちが集まっていた。
何度も見ているはずの光景に、それでも足を止めてしまうらしい。
誰かが小さく口笛を吹き、ミリアの耳が赤くなった。
「ヴェーバー教授。この一箱分の土を治すのに、費用はどのくらいかかりますの?」
「術者の食事代と、木箱の代金くらいですかな。魔力は、ミリアの体から出ますでな」
「では、炉があれば?」
「炉の維持費はかかりますが、術者一人で治せる広さが百倍になります。南部の塩害地には、村ごと畑を捨てた土地がいくつもありましてな。戻れる村が、いくつも出てくるでしょう」
村ごと捨てた畑に、人が戻る。
私はハンカチで指を拭きながら、頭の中で見積もりの枠を組み立て始めた。
炉の本体、設置の工事、術者の手当、試験農地の借り上げ。
投資先としては、破格の優良案件だ。
前世社畜の、胸が高鳴った。




