第19話 観察者の杞憂1(マクシミリアン視点)
王宮の執務室には、決裁待ちの書類がいつも三つの山を作っている。
急ぎ、通常、保留。この分け方は、政務を手伝い始めた三年前から変わらない。
だがこの春から、机の端に四つ目の山が増えた。学園改革プロジェクトの関連書類だ。
週報の次号草稿に赤を入れ終えて、羽根ペンを置く。指先に、乾きかけのインクの匂いが残った。
「殿下も、お人が悪くなられましたな」
側近のコンラートが、決裁済みの束を回収しながら言った。父の代から仕える家の出で、付き合いは長い。二人きりの時だけ、こういう物言いをする男だ。
「私がか」
「その週報の赤入れです。記事を三分の一も削っておいて、末尾に『良い記事だ』と添えるあたりが」
「無駄な文章は削った方が読まれるだろう。良い生地であるのも事実だ。だから書いた」
「ええ、ですから、お人が悪いと申し上げております」
コンラートは束を抱え直し、少しだけ声の調子を落とした。
「ところで……少しお耳に入れたいことがございます」
「なんだ」
「ご婚約者様のご変化について、王宮内で噂になっております。あまりにもお変わりになったので、何かあったのではないか、と」
ついに来たか、と思う。
ユリアーナの噂は私の耳にも届いている。
ここまで届いているという事は、かなり広がっているという事だ。
「聞かせてくれ」
「穏当なところでは、公爵家が優秀な家庭教師を招いたのだろうと。穏当でないところでは――聖女の入学が研究院へ流れた件で焦った公爵家が、娘を入れ替えて売り込みに出たのだと」
「ばかばかしい」
なんとも荒唐無稽な話をするものだ。デビュタント前の顔も知られていない時期ならばともかく、正式にお披露目されている王太子の婚約者が別人に成り代わるなど、できるはずがなかろう。
公爵家に双子の姉妹でもいれば別だろうが、貴族年鑑を見てもそのような事実はない。
「さあ。噂とは、そういう雑なものでございましょう。学園でも一つ流れたそうですが、あちらは一週間で消えたとか」
私を利用して売名している、というあれか。
むしろ噂が出たことよりも、その消し方のほうが鮮やかすぎて、感心した覚えがある。
火元より先に正しい情報が行き渡っていた。素人の火消しではない。
噂の中身は確かに雑だ。
だが、噂の根幹にある違和感そのものには、私にも覚えがあった。
ユリアーナ・ヴァイスフェルトとは、五つの歳から婚約している。
季節の挨拶状が年に四通。夜会で交わす言葉は型通り。完璧な淑女の、完璧な微笑。十五年間、彼女はいつも型通りだった。
十の歳の園遊会を覚えている。
。
婚約者らしい会話をせよと双方の親に促され、私は好きな書物を尋ねた。返ってきたのは、王太子妃教育の課題図書の題と、模範的な感想だった。
微笑は完璧で、その完璧さのまま、どこにも届いていなかった。
美しい硝子細工のようだと思っていた。触れれば冷たく、中は空だと。義務の相手としては、それで何の不足もなかった。
けれど、その硝子細工が、今は生徒会室で采配を振っている。
五人分の進捗を頭に入れ、詰まった者から順に声をかけ、バルトロウの日報の誤字は指摘せず、数字の誤りだけを正す。セバスティアンのインク壺が空きかけていることに、本人より先に気づく。
あれは教育で身につく所作ではない。人を使い、人に使われた年月がなければ、ああはならない。
だが彼女は十五で、公爵家の深窓の令嬢だ。その年月は、どこにも存在しないはずだった。
私は机の抽斗を開け、文箱から二通の手紙を取り出した。
一通は昨年の冬の挨拶状。一通は、この春の提案書だ。
テーブルの上に並べて、燭台を引き寄せる。字は、同じ手だった。整った、教本のような字。
だが指の腹で紙面をなぞると、春の方だけ、裏に筆圧の凹凸がかすかに残っている。
挨拶状は、型通りに手で書いた字だ。
提案書は、頭で考えながら書いた字だ。
同じ人間の字であるのは確かなのに、これほど印象が変わるものだろうか。
「殿下ご自身は、どうお考えです」
「分からん」
正直に答えると、コンラートが軽く眉を上げた。
「入学式で礼を伝えた時、彼女はわずかに返事に詰まった。あの完璧な令嬢が、だ。とはいえ、普段の彼女を、私は知らない。なにか心境の変化があったのか、それとも今が本来の彼女の姿なのか」
「それで」
「お前には知らせていなかったが、分からぬから、調べさせている」
今度はコンラートが、言葉に詰まる番だった。
「婚約者殿を、お疑いに?」
「疑ってなどいない」
言ってから、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
疑っているわけではない。ただ彼女の変化の原因を知りたいだけだ。
いずれ私の妃になるのだから、おかしいことではない。
コンラートは何か言いかけ、結局、束を抱えたまま頭を下げるにとどめた。
「この件、他言は無用だ」
「心得ております。ですが殿下。調べて何も出なかった場合、その調べたという事実だけが残りますぞ」
古参の側近らしい、嫌なところを突く男だ。
「分かっている」
分かっていて、やめられなかった。それが何を意味するのかは、考えないことにした。




