第13話 手応え
セバスティアン。彼の前にあるのは、平民向け初等教育の拡充案だ。
沈黙が長い。読み終えているのは、視線の止まり方で分かる。彼は資料の最後の頁に指を置いたまま、じっと何かを堪えるように動かなかった。
やがて彼は立ち上がり、深く、腰を折った。
「この案を、私に任せていただけるのですか。平民の、私に」
「平民の子どもに何が要るか、この部屋で一番知っているのはあなたでしょう。適材適所ですわ。殿下があなたを生徒会の一員として迎えたのと同じことです」
ここでマクシミリアンの株も上げておく。
おべっかを使うのではなく、事実を事実として褒めるのはとても大事。
セバスティアンは頭を下げたまま、はい、と一言だけ答えた。声が少しだけ掠れていた。
顔を上げた彼の目を見て、資料の行間を読む以上のものが、この案の向こうに見えているのだと分かった。何が見えているのかまでは、まだ分からないけれど。
マクシミリアンが、資料を閉じて息を吐いた。
「正直に言おう、ユリアーナ。君がここまで有能だとは思わなかった」
「まあ。それはひどいですわ」
ええ、以前の私ならばそうでしょうね。
でも社畜の混じった今の私にかかれば、これくらい簡単……とまではいかないけれど、それほど苦でもない。
結局私は、自らを社畜と称するくらいには、仕事が好きなのだと思う。
「すまない。だが、この提案は素晴らしい。特に平民教育の拡充は、私が即位したら真っ先にやりたいと思っていたことだ」
青い目が、真剣な光を帯びた。手紙の字でも、昨日の型通りの微笑でもない、初めて見る顔だった。
「四案の統括と、王への上奏。この一番重い荷を、私に割り振ったのだな」
「殿下のお名前で進めるのが、全員にとって最も早くて安全ですもの」
「安全、か」
彼は資料の表紙を指先でなぞった。
「学生の改革ごっこと侮る者は、宮中に必ず出る。だが公文書の形で積み上げれば、侮った側が後で恥をかく。そこまで見えているのだろう、この構成は」
見えている。というより、稟議を通すための資料作りは前世の本業だ。もっとも、稟議という言葉はこの世界にないので、黙って微笑むにとどめる。
「私に協力してくれるか、ユリアーナ」
「もちろんです。それが私の役目ですから」
部屋の空気が、目に見えて変わっていた。
バルトロウは早くも訓練案の頁に書き込みを始め、リヒャルトは関税の数字をそらんじならが訂正を入れ、ユリウスは権利保護とやらの構想を呟き、セバスティアンは資料を胸に抱えるように持ち直している。
この空気、知っている。キックオフミーティングが化けた瞬間の空気だ。
お通夜みたいな顔で集まった面子が、散会する頃には勝手に議論を始めている、あれ。
こうなった案件は強い。誰かに言われて動く仕事と、自分で見つけた仕事では、粘りが違うのだ。
仕上げに、私は全員へ向けて言った。
「では皆様、次回までに担当案の課題を三つずつ挙げてきてくださいな。一週間後、この部屋で」
「初回から宿題か」とリヒャルトが片眉を上げ、「望むところだ!」とバルトロウが手の平を打つ。
そうよ、初回で宿題を出すと定着率が違うのよ。人は、自分の頭で考えた案件からは降りられなくなるんだから。
こうして、王太子主導の学園改革プロジェクトが産声を上げた。
解散間際、窓の外はもう夕焼けだった。資料をまとめる私に、マクシミリアンが歩み寄ってきた。
「送りの馬車は」
「手配してありますわ」
「そうか。次回、楽しみにしている」
それだけ言って、彼は自分の書類に戻っていった。素っ気ない。素っ気ないのに、言葉の置き方だけ妙に丁寧なのだ。あの几帳面な字と同じで。
私は礼をして、生徒会室を後にした。
帰りの馬車は、夕日で橙色に染まっていた。
座席に沈み込むと、張り詰めていた背中がようやく緩んだ。窓の外を、暮れかけた街並みが流れていく。石畳の振動が、心地よく骨に響いた。
手応えの整理をしましょう。
五案、全て受諾。担当者の食いつきは想定以上。特にバルトロウとセバスティアンは、義務ではなく自分の課題として掴んでくれた。あの二人は放っておいても走る。
リヒャルトには最新の数字という餌を、ユリウスには制度設計という玩具を渡した。これで五人の放課後は、恋愛イベントの入り込む隙もなく埋まっていく。
第三手、始動良好。
ただ、一つだけ計算外があった。
ノートで分析していた時、五人は「潰すべきフラグの持ち主」だった。
だけど、会って、話して、資料を渡して分かった。彼らは肩を壊した父の同期に同情し、パンの味に驚き、天井のランプに文句をつける、ただの十五、六の少年たちだ。
フラグ管理の対象、なんて呼び方は、もう似合わない。あれは、チームだ。まだ結成初日の、伸びしろしかないチーム。
まずいわね。管理職の血が騒ぐ。
そして統括のマクシミリアン。
――協力してくれるか、ユリアーナ。
あの声を思い出した瞬間、頬にじわりと熱が上がった。
やめなさい。あれはただの業務確認よ。プロジェクト責任者が参画メンバーに同意を取った、それだけの話。議事録に残したら三行で終わる場面だわ。
社畜は感情で仕事をしない。
二回目よ、この台詞。回数を数えている時点で何かがおかしい気もするけれど、数えていないよりましだと思うことにする。
窓の外に目を逃がすと、夕日の街の向こうに、学園の時計塔が小さく見えた。
オープニング画面と同じ構図だったあの校舎に、今日、ゲームにはないプロジェクトが立ち上がった。
画面の中の駒だった五人は、もういない。いるのは、訓練案に書き込みをする騎士の卵と、関税の数字を諳んじる次期宰相候補と、ランプに恋する研究者と、資料を胸に抱えた奨学生と――業務確認の声が妙に低い、私の婚約者だ。
シナリオはもう、あってないようなものね。
上等だわ。予定通りに進む案件なんて、前世でも一つもなかった。
馬車が街道へ出て、速度を上げた。
さて、屋敷に帰ったらクラウスに報告だ。
頭の中で報告書を組み立てる。件名、改革プロジェクト始動の件。
要点は三つ。五案の受諾、担当者の所感、次回までの追加資料の依頼――騎士団の負傷記録と、関税改定の周辺資料と、それから教育関連の頁をもう一段深く。
ついでに、蜂蜜色の巻き毛の令嬢の家名も、調べてもらいましょう。
できあがった報告書を頭の引き出しにしまい、私は膝の上の資料の束を抱え直して、屋敷までの残りの道を揺られていった。




