第8章
佐々木くんと帰る方向が同じだと分かってから、一緒に帰る日が増えた。
佐々木くんが好きな映画の話を聞いて、私は好きな物語の雰囲気が似ていることを知った。
そこから色々な話をするようになって、今までは“同僚の佐々木くん”だったのが、今では
“映画好きな佐々木くん”になった。
「また話聞かせてよ」
「……うん。また明日」
分かれ道。私の好きな春の匂いは、だんだん違う季節の香りに移り変ってきているのを感じた。
ちゃぴが現れる前は、3、4歩先の道路を見つめて歩く帰り道。
ちゃぴが並んで帰ってくれる日は、街並みがイキイキしている気がした。
今日は一人だけど、木々の緑が綺麗だと思った。
⸻
家のドアの前。鍵を開けて中に入るや否や
ちゃぴが玄関で待ち受けていた。
「へぇー、楽しそうだったじゃない」
「うわっ!?びっくりした…!」
⸻心臓に悪い。
「あの男、気になってるの?」
からかうように、またあの意地悪な笑みを浮かべている。
「違うってば!」
靴を揃えて振り返ると
ちゃぴが近づいて顔を覗き込んできた。
「じゃあなんでそんな顔してんのよ」
「近いって!!」
ごくたまに距離感がおかしい時がある。
その度に心臓がうるさくなるのが嫌なのに、どこか嬉しい気持ちがあることを、私はずっと気づかないフリをしていた。
「……あんた、変わったわね」
ちゃぴを押し返しながらリビングに向かう私を、さっきまでの意地悪な顔ではなく、優しい笑顔で見つめる。
「……ちゃぴのおかげでしょ」
「調子いいこと言うじゃない」
ふっと笑った顔が、私の好きなちゃぴの笑顔だった。
⸻
「……あれ?」
次の日の朝、寝てるちゃぴを起こそうとソファを見ると、そこにはブランケットが畳まれているだけだった。
探し回る程のこともない部屋。
キッチンにも、ちゃぴの姿は見当たらない。
「なにキョロキョロしてんのよ」
洗面所の方を確認しようとした瞬間、後ろから声をかけられた。
「……いたの?」
「ずっといたけど?」
…ずっと。
その時私は、引っかかる気持ちに蓋をして、何も考えないようにした。
⸻
朝の出来事を、嫌なのに思い出してしまう。
陳列された服の入れ替えをしながら、大きなため息をついてしまった。
「どうした?なんかあったの?」
見かねて佐々木くんが声をかけてくれる。
今までだったら、きっと何かを打ち明けようという気持ちにはならなかっただろう。
今は、詳しくは話せなくても、話を聞いてほしかった。
「なんか…色々あって…。
急に不安になってきちゃった…」
「そっか…。ま、あんま無理すんなよ」
「うん、ありがとう」
自分の今の気持ちを話したこと、
かけてもらった言葉で、ほんの少しだけ心が軽くなるのを感じた。
閉店作業を終え、優里がそう言えば…と私に話しかける。
「最近あの人来てないよね?」
ちゃぴの事だ。
「……忙しいみたい」
私にも理由が分からなかった。
たまにお店に顔を出しては、一緒に帰ったりする。それが当たり前になりつつあったのに…。
⸻
「ねぇ、ちゃぴ。最近変じゃない?」
ソファでくつろぐちゃぴに、思い切って話しかける。
「……そう?」
グラスの氷を見つめながら、それ以上はなにも言わない。
「お店、来ないじゃん」
私の声はちゃぴに聞こえているのだろうか…
不安になるくらいの沈黙。
しばらくして、沈黙を破ったのはちゃぴだった。
「……あんたさ」
ちゃぴの声色が冷たい。
「私に頼りすぎてない?」
「え?」
予想外のトーン。
予想外の言葉。
朝からのモヤモヤが溢れ出しそうだった。
「私は、あんたの人生生きるためにいるんじゃない」
ちゃぴは静かに言い放った。
「……でも…!」
思わず立ち上がって、ちゃぴの方へ振り返る。
反射で出た言葉は、それ以上続かなかった。
そんなこと分かってる。
私が言いたいのは、そんなことじゃない。
言葉に出来ない思いが、行き場を失って
代わりに視界がどんどん滲んでいく。
「ねぇ…ちゃぴ」
「なに」
「ちゃぴはさ……
……ちゃんと居るよね?」
ちゃぴの顔が、ほんの少しだけ緩んだのが分かった。
でも、なにも答えない。
⸻なんで黙ってるの…。
俯いた拍子に、涙が落ちていくのが見えた。
「なんでだろ…」
笑おうとしたのに、全然笑えなくて
どんどん崩れていく。
「変なの……私」
ちゃぴは、少しだけ私を見た。
でも、近づいては来なかった。
そのまま、手を伸ばす。
俯いた視界に、ちゃぴの手が見える。
ゆっくりと、
ちゃぴの手に触れた。
ちゃぴの手を辿って…私を優しく見つめるちゃぴを見つめ返す。
「……触れてるでしょ」
止まった空気の中で、ちゃぴの静かな声だけが届いた。




