心の傷
イーヴァはさすが慣れていた。
馬車に乗り込んで、イリヤの背中を大きくさすってやる。
「姫さま、息を吐くんだよ。今姫さまは吸うばっかりになってるね。苦しいねぇ。大丈夫、吐くのに集中してごらん、楽になるから」
「なぜ急に…」
「公爵様、一旦馬車から出してあげよう。姫さまをここから出せるかい」
「わかりました」
イーヴァの指示で、ウィスターはイリヤの背中と足に腕を差し込んで、そのまま抱き上げる。馬車は背が低くかなり無理な体勢になったが、造作はない。
「大丈夫?手伝おうか」
「いえ、大丈夫です」
ブラッドも馬車を覗き込んで声をかけたが、ウィスターが断り一気にイリヤを連れて外に出た。
「そこそこ、そのベンチに座らせてあげて。ブラッド、ちょっと落ち着くように紅茶かなんか淹れてあげててくれないかねぇ」
「わかったよ、イーヴァ」
イーヴァは微塵も焦っていない。これだけで、彼女が潜り抜けてきた修羅場が見える。
イリヤの呼吸は最初よりは落ち着いていたが、まだ荒く、浅い。
イリヤを診療所の外のベンチまで運び、座らせるように下ろすと、イーヴァがイリヤの手をとって脈を測った。
「公爵様は、お姫さまを安心させてあげてねぇ。お姫さま、大丈夫だよぉ」
イーヴァの言葉に、イリヤが力無く頷いた。ウィスターは彼女の肩を支えるようにして、もう片方の手でゆっくり背中をさする。
小さくて、細くて、薄い。ウィスターは唇を噛んだ。
どうにもダメだ。
イリヤの苦しそうな顔、辛そうな顔、涙、そのどれも直視できず、身の置きどころがなくなるような感覚になる。
ただ肩をゆっくりとさすることしか。
「一緒に呼吸しようねぇ。はい吐いて、ふーーーっ」
イーヴァが優しく言って、たっぷりと息を吐いた。同じようにイリヤも、息を必死に吐いている。そのリズムに合わせて、ウィスターも肩をさすった。
途中何度か吸ってしまうが、その度にイーヴァがまた一緒に呼吸をする。
呼吸は大きく早いものから、徐々にゆっくりになり、やがて静かになった。
「も、もう大丈夫…」
「そうかい、よかったよかった。中でブラッドが紅茶を淹れてくれてるよ。立てるかい」
「うん…」
イリヤがどこかふらふらとしながら立ち上がり、慌てて肩を支えて診療所の扉を開けてやる。中ではブラッドが紅茶のいい香りをさせていた。
イリヤを椅子に座らせて、ウィスターはイーヴァのところに戻った。
「イーヴァ、あれは」
「過呼吸だねぇ」
イーヴァが困ったように眉を下げた。
「要は精神的なものなんだよ。恐怖や緊張は身体を強張らせる。呼吸が必要以上に早くなってしまうんだねぇ。大丈夫、これで死んだ話は聞いたことないよ」
「でも、あまりに苦しそうで」
「……本人は死ぬほどの苦しみだろうさ。だから、尚更怖くなったりするんだねぇ。また過呼吸になったらどうしようっていう気持ちが、過呼吸を呼ぶ」
ウィスターは目を眇めて診療所の方を見た。開け放った扉の向こうで、イリヤが紅茶のカップを持って項垂れている。
「襲われたのは、馬車の中だったんだよねぇ」
「ええ。最初は馬が狙われて、道を外れた。その後殿下も…」
「そのあと一晩山で過ごしたんだろう。そんだけの経験をしたら、心に傷を負ってしまうさね」
「それはそうですね」
「心に傷を負うと色んな反応が起きる。姫さまの場合は、馬車に乗ったことがきっかけで事件に巻き込まれた。無意識に馬車が怖い、馬車に乗ってまた怖い目にあったらどうしよう、と思ってしまって、身体が馬車に乗ることを拒否してしまってるんだねぇ」
「どうすれば」
ウィスターが尋ねたが、イーヴァは悲しそうに首を振った。
「時間をかけることしか…。身体の傷は治せても、心の傷はずっと残ることだってある。こればっかりはね、私たち医者でもどうにもできないんだ。申し訳ないねぇ」
「殿下は…馬車にはもう乗れませんか?」
「別に本人が嫌がらなきゃ乗ったっていいんだよ。ただ、嫌がるのを無理に乗せるのはお勧めしないよ。どんどんひどくなる可能性だってある。そうだね、公爵様ができることといえば」
イーヴァはウィスターを見つめて、笑った。
「こういうのはね、私たち医者じゃあどうにもできないけれど、信頼できる人に支えてもらったら乗り越えられるものなんだよぉ」
「信頼できる?」
「そうそう。姫さまは公爵様をえらい信用してるみたいだしねぇ、公爵様がそばにいて、支えてあげるんだ。私たちじゃない、あなたにしかできないことだからねぇ」
「しかし殿下は、フェルディナの王太子の婚約者です。支えるのも…婚約者の方が、いいのではないでしょうか」
「それ、姫さまに言われたわけじゃないでしょう?」
イーヴァが柔らかい表情で、しかしウィスターの言葉を切った。
「フェルディナの王太子がいかに素晴らしい人か私にゃ分からないけどねぇ。でもね、政略結婚で国を離れることは辛いし寂しいだろう。それを押し切って向かう途中にこれだろう。普通怖いし、もう二度と行きたいなんて思わないさ。馬車だって、乗ってしまえば無理矢理フェルディナに連れて行ける乗り物だろう。もちろん、公爵様らはそんなことはしないだろうけど、身体が拒否してるんだと思うよぉ。また連れて行かれるって、恐怖が勝つのさ」
ウィスターはイリヤに視線を向けた。診療所の中のイリヤは姿勢良く座って、紅茶のカップに口をつけながら、どこか遠くを見ている。
「それを安心させてあげれるのは公爵様とか、まぁ他にいるのかもしれないけどね。これからどうなるのか、そういう不安が全部まとめて出ちゃったねぇ」
「………私で、支えになるでしょうか」
イーヴァがははっ、と大きく笑った。
「私には分からないよ。ただ、公爵様がそうしてあげたいと思ってるなら、支えになって差し上げたらいいんじゃないかねぇ」
「そうして、あげたい…?」
「おや、違うのかい」
ウィスターは黙った。この診療所にいる間のことを思い出す。
苦しそうな顔を見るのは辛い。
笑った顔を見ていたい。
怖いと言うなら。
「………できることなら、私が支えてやりたいですね」
「そりゃあそうだろうさ。あとは二人で考えるんだよ」
そう言って、イーヴァが診療所の中へ入っていく。ウィスターはそれを見送って、もう一度馬車を振り返った。
イリヤの本心は分からない。
けれど、イリヤが望むことなら、何だって叶えてやりたいと思った。
*
ため息をついてティーカップを覗く。
赤い液体がゆらゆらと揺れて、疲れ切った顔の自分が映っているのが見えてイリヤはまたため息をついた。
苦しくて、身体が痛くて、世界が揺れて、死ぬのではと思った。ブラッドからは、緊張したら息を吐くことと、リラックスできる呼吸法を教えてもらったところだ。
「ため息ばっかりだな」
「…私、帰れるのかな」
「帰れるだろ。馬車が無理なら馬に乗って帰ればいい」
「他国に嫁ぐ予定で着飾って出て行った王女が、馬に乗って勇ましく帰ったら面白すぎるじゃない、そんなの嫌よ」
それもそうか、とブラッドが笑う。
「ま、でも一人じゃなくて公爵閣下と一緒に乗って帰るんだろ?」
「うん」
頷くと、ブラッドがニヤリと企んだ顔をした。
「こわーいって、どさくさに紛れて抱きついちゃえば?」
「なっ………!!??」
思わずティーカップを激しく揺らしてしまい、紅茶から抗議のちゃぷん、という音がする。
「なっ、なんで私がだきつk…」
「え?好きな人に抱きしめてもらったら落ち着くだろ?それに、過呼吸の対処法の一つに抱きしめてもらうってのもあるんだぞ」
「……それ本当?」
「何だよ、俺は嘘は言わないぞ」
ブラッドをじっと見つめる。
ニヤリと笑うその顔が本気なのか嘘なのか、イリヤには判別できないが、ブラッドに見透かされていた恥ずかしさで、顔が真っ赤になっているのは分かった。
「姫さま、思ったより分かりやすいぞ」
「殿下」
「きゃっ!!!!」
ブラッドの言葉の意味を理解する前にご本人、ウィスターの声がして、イリヤは文字通り飛び上がった。
顔は耳まで真っ赤である。
恥ずかしくてウィスターの顔が見れない。あえて目を逸らしていると、ウィスターは跪くようにしてイリヤの顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか」
「だ、だいじょうぶ、よ…」
「顔、赤いですよ」
「大丈夫、ちょっと紅茶を飲んで温まったから!」
思わずブラッドを見ると、ブラッドは「そういうとこ」と声を発さず唇だけで伝えてきた。
(謝礼減らしてやろうかしら)
そんな思いは知らないウィスターは、構わず話を続けている。
「それならいいんですが。どうしますか、帰れそうにないなら無理はせずともいいと、イーヴァも言っていますが」
「大丈夫よ、呼吸法も習ったし」
「無理はしないでくださいね。殿下の得意は無理ですから」
「無理してないわ。克服しないと」
久しぶりに嫌味を言われた気がしたけれど、それに怒る余裕はない。ウィスターの後ろでは、イーヴァもいつものように、ニコニコと頷いていた。
「馬車が怖いなら、別の方法で帰るのも考えてもらっていいんだよ」
「いえ、これ以上ここにご迷惑をかける訳にはいきませんので。途中休憩を挟みながらゆっくり行きます」
「そうかい。気をつけてねぇ」
「……ゆっくり帰ることになっちゃうけど、いい?」
ウィスターの許可を取ってなかったとチラリとウィスターを見上げる。
ウィスターと目が合ったと思ったら、ふいと離された。
「当たり前でしょう」
「何よぶっきらぼうね」
「気のせいですよ」
そう言い放ったウィスターは、「護衛に伝えてきます」と一方的に診療所を出て行った。
「何よもう」
その背中を見送って、ティーカップにもう一度口をつける。冷えてしまった紅茶は、ほのかに甘くて苦い。
「……何でしょう」
イーヴァとブラッドがやけに笑顔なことに気づいて、イリヤは憤然と尋ねる。
二人ともやけに目が三日月のようだった。
「帰っても仲良くやんなさいよぉ」
イーヴァの言葉がやけに耳に残る。
仲良く、私はしたいです。その言葉は胸にしまっておいた。
「…乗ります」
イリヤが決意したのは、小一時間ほど休憩したあとだった。正直怖い気持ちは消えないが、いつまでもここで逃げるわけにはいかないという大人の事情が背中を押した。
「改めて、本当にありがとうございました」
そう言って二回目の御礼を済ませ、意を決して馬車に乗り込んだ。間髪入れずにウィスターも乗ってくる。
馬車の扉が閉まるガチャンという音がする。
(大丈夫、大丈夫。吐く、息を吐く…)
心の中でそう唱えながら、窓の外を見る。イーヴァとブラッドが手を振っているのが見えた。
笑顔を引っ張り出して手を振り返す。
鞭の音がして、馬の蹄の音がした。一拍遅れて、馬車も前へ動き出す。
あっという間に、スピードを上げる馬車の中。
必死に呼吸に集中する。
「随分診療所の方とは仲良くなりましたね」
そんな中、のんびりと話しかけてきたのはもちろんウィスターだった。隣を見ると、いつものように堅苦しいコートはあっという間に脱ぎにかかっている。
「いい人たちだったわ」
「ええ、本当に。殿下の何十倍も優しかったです」
「え…?」
なんでここで急にいじめモード!?
とは思うが、イリヤも反射的に反論してしまう。
「そんなの私のセリフよ!ウィスターなんかより、ブラッドの方がずーーっと優しかったわ」
「ふぅん。良かったですね」
「何よ、体も心も傷だらけの王女に優しくしようという気持ちがウィスターにはないわけ?冷たいわね」
「ありますよ、とんでもなく優しくして疲れました」
くつくつと笑うウィスターはいつもと変わらないように見える。
「建前の優しさだったのね。あなた、診療所では猫被ってたでしょ。本性が見えたわ」
「今更ですね」
「全く外面がいいんだから」
「それは殿下もでしょう、張り切って料理なんて手伝ったりして。それより」
ウィスターが、ポンと手を頭に乗せた。そのままぽんぽんと、頭を撫でられる。
「こうして怒っていると、殿下は大丈夫そうですね」
「え?」
言われてみると、怖さや苦しさは感じていない。馬車はスピードを上げて、診療所のあった小さい町を通り過ぎようとしている。
「イーヴァに言われたんです。できるだけ普通の話をしてあげた方がいいと。気を紛らわせるのが一番だとね」
「そう、だったの……」
思わず毒気を抜かれてぽかんとウィスターを見上げる。ウィスターはイリヤの頭に手を乗せたまま、ニヤリと笑った。
「だからさっきの、私が優しくないという言葉を撤回するなら今ですよ」
「そういうとこ、本当そういうとこよ」
ぷい、と勢いよくそっぽを向く。窓の外はすっかり町を抜け、遠くに山が見えている。
ーーーーこわーいって、どさくさに紛れて抱きついちゃえば?ーーーー
先ほどのブラッドの声が耳で反射した。
抱きつくのはハードルが高いかもしれない。けれど、
(こわいって言ったら…どんな反応するかな)
もう一度ウィスターの方を振り返る。ウィスターは隣でもう何事もなかったように、自分の側の窓の外を眺めていた。放り出した長い足が少しイリヤの足に当たっている。
「……ウィスター」
カコカコと、蹄の音が響く。馬車の振動がお尻を揺らしている。
本当は昼頃出る予定だったけれど、時間はとっくに過ぎてしまった。日は少し傾いている。
イリヤはそっと左手を出して、ウィスターの服の袖を掴んだ。
「こ、こわい……」
声は思ったより小さくて、蹄の音にかき消されそうだった。ウィスターがイリヤを見る。群青色の瞳が、捉えた。
そう思った時には遅かった。
ウィスターが右手を伸ばして、イリヤの頭を胸に引き寄せた。
そのまま左腕も背中に回される。ウィスターの息がすぐ近くで聞こえた。抱きしめられた理解は後から追いついてくる。
イリヤの背中をゆっくりと撫でる骨張った手が分かる。
「いい子。一回休みますか?」
真上から声が降ってきた。低くて、それでいて優しい声。
先ほどまでの揶揄っていたウィスターから一変、声には優しさが滲んでいた。
「…大丈夫。これで」
甘えて、ウィスターの胸に寄りかかるように頭を乗せる。
笑って、ウィスターが髪を撫でるのが分かる。
温かかった。あの日、診療所に逃げ込んだ時もウィスターはこうやって抱きしめてくれた。その温かさと同じ温もりに、イリヤは目を閉じる。
カタカタと、規則正しい揺れと温かさ。
「…無理してないですか」
「うん、無理してない」
ウィスターの胸元におでこをつけたまま寄りかかる。体重を預けてもウィスターの体はびくともしない。
なんでこんなに落ち着くんだろう。
緊張や恥ずかしさもあるけれど、それでもなぜか安心してしまう。
ウィスターにとっては何でもないことだろう。妹だから、王女だから、仕事だから?それでも、それは関係ないと思えた。
ただイリヤの背中を撫でる手と、ウィスターの腕の中が心地よかった。
*
「着きますよ」
ウィスターの声で、イリヤは目を開けた。辺りは暗くなりかけていて、太陽の光だけが少し残っている。その中に王宮の明かりが佇んでいた。
どうやらウィスターに体を預けて、しっかり眠ってしまったようだ。
「……もう着いたの?」
「はい。殿下はよくお休みになられましたか」
「ごめんなさい、すっかり寝ちゃって…」
身体を起こそうとすると、ウィスターの腕に力がこもった。そのままぎゅっと強く抱きしめられる。少し苦しい、少し痛い。
そう思ったのは一瞬で、ウィスターがすぐにパッと手を離した。
一気に恥ずかしくなって、慌てて座り直して髪を撫で付ける。
やがてすぐ、馬車が止まった。
最初診療所を出た時は恐怖の象徴のようになっていた馬車も、冷静に見れるようになっていた。王宮の入り口では、馬車がくるのが見えたのだろう、国王と王妃、そして弟妹たちの姿が見える。
扉が開いて、ウィスターが先に降りる。
少し話したあと、馬車を覗き込んだウィスターは笑っていた。
5歳のあの日、恋に落ちた日を思い出す。
何だか屈託のない、少年のような笑顔。
「どうぞ」
ウィスターの差し出した手を握って、ゆっくりと馬車を降りる。
「イリヤ………!!!」
「母上……!!」
なんだかとても懐かしく感じる声に、思わず手を離して走り出す。イリヤは王妃に抱きついた。
「本当に良かった、おかえり…!!!」
「おかえり、イリヤ」
王妃の次は国王も、ぎゅっとイリヤを抱きしめる。
「……すみません、こんなことになってしまって」
「いいんだ。イリヤが無事で本当に良かった。ゆっくりしてから、また話をしようね。よくぞ無事で帰ってきてくれた」
優しい声にイリヤは頷いた。
一番星が輝く、暗くなりたての冬の空の下。帰ってきたんだ。




