馬車
「うん、だいぶ肩の傷も落ち着いたし、そろそろ帰っても大丈夫だよ」
ブラッドがそう許可を出したのは、また数日後。
イリヤの肩の傷はしばらく腫れていたが、ブラッドとイーヴァが根気強く処置を続けたことでかなりよくなった。ただし、やはり最初の見立て通り傷跡は残りそうでイリヤの気は重い。
イリヤ自身はすっかり元気で、診療所の手伝いをしたり、ウィスターを引っぱって町に散歩に出たりと自由に過ごしていた。
自室に帰ってウィスターに報告をする。
「傷はもう大丈夫みたい。帰っていいそうよ」
「そうですか。意外と長引きましたがよかったですね」
「……ごめんなさい、忙しいのに、ずっと付き添いさせて。護衛の騎士たちは王宮に帰って交代してるのに」
「気にしないでください。仕事ですから」
微笑んだウィスターに、胸がチクリと痛む。仕事。ウィスターにとってそれには違いないのだけれど、さらりとそう言ってしまえるウィスターが少し羨ましい。
「……ねぇ」
イリヤは意を決してウィスターの正面の椅子に腰掛けた。
「私、これからどうなるの」
「どうって?」
「この後よ、この後。王宮に帰るにしても、いつかまたフェルディナに行く…のよね」
今度はウィスターが、どこか痛そうな顔をした。
「それは、私には分かりません」
「何か父上から聞いたりしていない?」
「私は殿下を連れ帰ってくれと、聞いたのはそれだけです。もちろん報告は常にあげておりますが、特に何も言われておりません」
「そう…そうよね。帰って父上と話してみないと分からないのよね」
「………早くフェルディナに行きたいですか」
ウィスターのその声は、どこか絞り出すようだった。
「もし殿下が早くフェルディナに行きたいということであれば、陛下に急いでお伺いを立てますが。幸いここからの方が負担は少ないでしょうし、荷物は後からでも」
「ちっ、違う違う!」
少し早口で提案をしてくるウィスターに、イリヤは慌てて手を振った。
「王宮に帰れた方がいいわ、もちろん。まだ傷の処置は自分でしなきゃだし…今、独りで行くのは辛い」
下を向いて、イリヤは自分の握りしめた手を見つめる。本当はこわい。
でも、仕事だというウィスターにそれを言って甘えるのは違う気がして、辛いという言葉に留めておく。
ウィスターはじっとイリヤを見ていたが、やがて納得したように目を逸らした。
「では、明日王宮に帰る予定でどうですか。体調は」
「ええ、大丈夫」
イリヤは強く頷いた。ひとまず王宮に帰らないと何も決まらない。
とりあえず帰ろう、帰って考えよう。この時はそう思っていた。
「じゃあ姫さま、おだいじにねぇ」
「本当にお世話になりました」
翌日の昼、王宮から馬車がやってきてイリヤは帰ることになった。
見送りに来たのはイーヴァとブラッド、申し訳程度に自分が使っていた部屋は片付けてある。
「なんかあったら言えよ。王宮まで往診に行ってやるよ」
「うふふ、そうねその時はよろしく」
「あぁ、そうだ姫さま。ちょっと待ってこれこれ」
そう言ってイーヴァが汚れた白い布を奥から引っ張り出してきた。
「これ、あなたがここに来た時に着てた服!えんらい上等な服だったから頑張って洗ったんだけど、泥とか血の汚れは取れなくてねぇ…これ、どうするかい?」
「この服…」
イリヤはまじまじとその服を見た。
紛れもない、王宮を出発するときに着ていた、母上仕立てのストレートラインの絹のドレス。真っ白だったそれは、汚れて茶色のシミがところどころついている。一瞬、夜の山がフラッシュバックした。
「……洗ってもらったのに申し訳ありません。私はもう不要なので、雑巾にでもしてお掃除に使ってください」
「いいのかよ、俺たち売っぱらっちまうかもしれないぞ。王女さまが着てた服です〜っつって」
「それならそれでいいですわ。それが診療所のためになるのであれば」
「そうかい……。なんかあれだねぇ。患者の服を着てたからわかんなかったけど、あなたそうしてたら本当に綺麗な王女さまなんだねぇ」
イーヴァがにっこりと目を細めた。
「辛かったろうに、何もできなくて、礼儀も弁えてない診療所で悪かったねぇ」
「とんでもないです。本当にあの時は感謝しています」
王宮に帰るだけだから着飾ってはいない。シンプルなドレスとコートが王宮から届けられていて、イリヤはそれを身につけていた。特に飾りも何もないが、やはりこの町で着ていると目立つ。
「後日、この診療所には王宮から謝礼を届けさせます。王女殿下をお守りいただき、感謝申し上げます。国王陛下に代わりまして、私からもお伝えいたします。お世話になりました」
きっちりとした礼をしたのはウィスターだ。
今までは動きやすいシャツをだらっと着ていたことが多かったが、今日は公爵らしいジャケットをしっかり着て、同じく上質なコートを着ていた。顔はいつもの外向け笑顔。
「へぇ、謝礼もらえんのか。楽しみだなイーヴァ」
「あんた、公爵様にそんな口の利き方すんじゃないよぉ。馬鹿の町だと思われるだろ」
「今更だろ、イーヴァだって散々姫さんこき使ってたじゃねぇか」
イーヴァとブラッドのやり取りがおかしくて、イリヤが笑う。
「殿下、行きましょう」
ウィスターが馬車の方を指し、イリヤは診療所に向けて小さく手を振った。
「本当に、ありがとうございました。イーヴァ、お元気で」
「ありがとねぇ。お姫さまも元気でねぇ」
ウィスターの手を借りて馬車に乗る。王宮を出た時とは違う、国内を回るときによく使われるようなシンプルな移動用の馬車だった。中に腰かけると、小さな箱の中に入れられているような気持ちになる。
急に呼吸が苦しくなった。
息が吸えない、苦しい、イリヤは必死に息を吸った。吸っても吸っても苦しい。
あの日の昼、木の枝が激しく馬車の窓を叩いた音。
大きく揺れる馬車。
馬の声、息遣い。
違う、違う。これはあの日の記憶だ。落ち着け。
必死に言い聞かせても、身体は言うことを聞かない。胸がしめつけられるように痛い。
苦しい。助けて。
「……殿下?」
挨拶を済ませ、後から乗り込んできたウィスターが異変に気づいた。
イリヤは大きく息を吸っているものの、口からはしゃっくりのような歪な呼吸音が漏れ出していた。
「殿下、落ち着いてください、大丈夫!」
ウィスターの手が背中をさするのが分かった。
それでも不規則な呼吸は止まらない。苦しさでじんわりと涙が滲むのが分かった。
「だい…じょう…」
「殿下!!!……イーヴァ、ちょっと来てくれ!!」
ウィスターが馬車の扉を開けてイーヴァを呼んだ。
イリヤは必死に呼吸をしていた。
吸っても吸っても苦しい。もっと吸わなきゃ。そう思って大きく上下する肩を、ウィスターが手で包んでさすっている。周りの状況はわかるのに、呼吸がちっとも落ち着かなかった。




