診療所
「ウィスター…!!ウィスター………」
気がついたらきつく抱きしめられていた。
ウィスターは温かかった。昨日の夜の猫とは全然違う熱さだ。背中に手を回すと、心臓の鼓動が聞こえた。彼の首からは、ほんのりと汗と土の匂いがして、いい匂いだと思った。
「……よく無事で」
ウィスターがやっと絞り出したような声は掠れていた。低く優しいその小さな声は、イリヤの耳にしか届かないほどの小ささだ。
ウィスターはイリヤの肩に顔をうずめるように抱きしめて、深く深く息をついた。ひどく心配してくれていたらしい。
ウィスターの大きな手が、イリヤの柔らかい髪を撫で、頬に触れた。そこにあることを確かめるように、ゆっくりと頬を包み込んで、親指でそっと撫でた。
そのまま顔をあげて、至近距離でイリヤをじっと見た。群青色の瞳が、近い。
緊張してイリヤは固くなる。自分の顔が赤いのが分かった。
しかしそれは気にしないように、ウィスターは額をこつんとイリヤの額に当てて目を閉じる。
「………本当に無茶をなさる」
「……こればっかりは私のせいじゃないもの」
何やら怒られた気がして、イリヤはまっすぐウィスターを見て頬を膨らませた。
確かになかなか無茶なことをしたと自分でも思う。けれどまた同じ状況になったら、同じ行動をとるような気もしていた。
「……みんなは…?」
「大丈夫。上で発見して保護しています。みんな無事ですよ」
「…………よかった」
安心してイリヤは息をついた。
「全く殿下は、私を心配させるのが上手だ」
「それは失礼いたしました」
そんな怒らなくても、褒めてくれたっていいじゃない。イリヤがぷいと横を向くと、ウィスターがまた苦笑して、身体を少し離した。
「怪我は、どこですか」
その至って真剣な目に、イリヤは「あぁ」と左肩を見やった。
「……矢が、肩に」
「見せて」
「えっ?」
間髪入れずに言われた言葉に、イリヤは驚いて変な声が出た。見上げると、ウィスターはやはり真剣だった。
「見せてって…いやよ。せっかく包帯巻いてもらったのに」
「ダメです。見せて」
「恥ずかしいもの!」
「そんなのいいから」
有無を言わさない様子のウィスターは、一歩も引く気配がない。
まぁ、父上とかに報告しなきゃいけないのかしら、と無理に理由を考えてしまう自分も情けない。イリヤはしぶしぶと、右手で診療所で貸してもらった病衣を少しめくって左肩を出した。
細い肩に、白い包帯が巻いてある。昨日まで真っ白なドレスを着ていた肩に、白い包帯が何だか痛々しかった。
「ここ……背中の方」
イリヤが恥ずかしそうにそっぽを向いて左肩を指差す。
ウィスターは立ち上がって、今度はイリヤの背後に腰掛けた。そっと長い髪をよけて、包帯をめくる。
痛々しい傷に、消毒液の色が残っている。ウィスターは顔を歪めた。
「これだけですか」
「えっ?」
「他に傷は?」
「う、うん、大きいのは。あとは……足は小さい傷だらけだけど」
「見せて」
「えぇ………」
思わず出た困惑した声も聞かず、ウィスターはまた有無を言わさずイリヤの足の包帯をめくった。
両足には細かい傷がついて、足の裏は真っ赤になっている。
「痛かったから、ドレスの裾を切って、足に巻いて歩いてたの。だから思ったよりは大丈夫」
「なるほど考えましたね。他は?」
「他?もうないわよ」
本当はアザ程度なら無数にあったが、教えると今のウィスターなら全身くまなく見て確認しそうだ。心配してくれているのかもしれないけど、傷がついた身体を見せるのはやはり恥ずかしい。
「………よかった」
ウィスターがまた抱きしめる。今度は傷口に触れないように手をずらして、力も入れないようにそっと優しい。
その優しさに気付いてしまったら、もう駄目だった。
「ウィスター…」
止まっていた涙が、またあふれてくる。鼻のつんとした匂いがした。
「ん?」
「…………怖かったっ………」
どこかずっと気を張っていた。昨夜のことは思い出したくもない。自分よりずっと力が強い男に組み伏せられる恐怖。真っ暗な闇の中、命からがら駆け出した絶望。
それがウィスターが近くにいるというだけで緩み、抑え込んでいた感情がぽろぽろとこぼれてきた。
「怖かったですね」
「うんっ……」
ウィスターの肩に顔をうずめると、ウィスターの香りがする。その匂いに包まれると、ようやく帰ってきたんだと実感できた。ウィスターがそっと髪を撫でる。
「よくがんばりました。もう大丈夫です」
もう大丈夫。その言葉が身体の底まで沁みて、イリヤは目を閉じた。
ウィスターはそのまま無言で、髪をそっと撫で続けていた。
*
その後はバタバタだった。
ウィスターは診療所でもらった手紙に、レオン王太子へ一筆を書いて伝令係に預けた。
《ミグリの山の麓、アレキサンドでイリヤ殿下を発見いたしました。
ひどく衰弱して怪我もしており、一旦王宮へ連れて帰ります。命に別状ないとのことで、そこはご安心ください。
今後のことは、また追って連絡いたします。
ウィスター・アレキサンド》
「これを持ってまず山を登れ。馬が繋いであるところが目印だ。そこから入ったところにルイたちがいるから、殿下発見の一報を伝え、そのままフェルディナに向かってこの手紙をレオン王太子に渡してくれ」
「承知しました!」
伝令係は馬を数頭引き連れて、ミグリの山へと登って行った。
イーヴァによると、怪我をして運び込んだ御者は後遺症が残るようだ。訓練をすれば、生活できる程度にはなるだろうとの見立てだった。
ブラッドからは、イリヤの状態について説明された。
肩の傷は意外にも大したことはないが、傷跡は確実に残るらしい。
「早く処置できていれば…」だそうだが、ウィスターにとっては傷跡など些細なことだった。
しかし傷はあちこちにあり、山で一夜を過ごしたことを考えると感染の危険があるということで、数日診療所で過ごすことになった。
それよりも心配なのは精神面だった。気丈に振る舞っていたが、些細な物音で身体を強張らせるイリヤの姿はもう何度も見た。どうすることもできない自分が悔しく、ウィスターはその度に堪えるように拳を握り込んだ。
完全に回復するには時間がかかりそうだ。
騎士団は、暗くなった頃に下山してきた。
賊一味は捕らえて、そのまま王都へ連行する。処遇は国王が決めるだろう。
マーヤたち、保護した面々も診療所にやってきて、イリヤと涙の再会を果たした。
マーヤは診療所に残ると言い張ったが、小さい診療所に多くの人数をおくことはできず、またマーヤ自身も衰弱しており、そのまま馬車で帰らせることにした。
イリヤの身の回りの世話は、診療所で働く女性がいるので任せることにする。医療的な処置もあるので、ここは専門家の方がいいだろう。
ウィスターは数名の団員とともに診療所に残ることにした。護衛は診療所の周りを交代で張らせる。
そこまでイリヤの当面の生活を決めた頃には、もうすっかり夜も更けていた。冬の一日は早い。
ブラッドは最初、ウィスターが公爵だと分からなかったらしい。さすがに一般国民は王族や貴族の顔までは知らない者も多い。イリヤとウィスターの身分を明かすと、ブラッドは困惑した様子だったが非礼を詫びて頭を下げていた。
それに関してはどうこうするつもりはない。命の恩人として、ウィスターは丁重に礼を述べた。
その後もイーヴァやブラッドは、ほとんど変わらず接している。
ウィスターはずっとイリヤの部屋から出ずに指示を出したりしていたので、自然とイリヤの部屋が本部のようになり、団員たちがしょっちゅう出入りしていた。
イーヴァが気を利かせて、「公爵様の机と寝るところがいるわね」と椅子と机とソファーを運び込んできて同じ部屋で寝ることになってしまったが、今のイリヤを一人にしておけないという言い訳ができたためそれに甘える。
ひと段落ついたところで、ベッドで毛布にくるまるイリヤが小さい声を出した。
「ウィスター。さむい…」
「寒い?どうしました」
ゆっくりと近寄ってベッドに腰掛けて見下ろすと、イリヤは小さくなっていた。その頬は赤く、目がぼんやりとしている。
手を伸ばすと、イリヤが一瞬だけびくりと身体を固くした。
「大丈夫」
そう言って彼女の額に手のひらを当てると、イリヤの身体は再会した時よりもはるかに熱かった。
「熱がありますね」
そのまま頭を撫でた。大丈夫、大丈夫。
聞こえないくらいの声でそう呟いてそのまま頭を撫でる。イリヤはどこか不安そうな顔をしていた。
「イーヴァを呼んできましょうか」
「だめっ…」
立ちあがろうとすると、イリヤに引き止められる。
「……だいじょうぶ。今度イーヴァが来た時にいうから。夜も遅いし、悪いわ」
仕方なく、そのままベッドに腰掛ける。何だか子供のように感じるのに、発する言葉は大人びているのが不自然だった。
「無理はしないでくださいね」
「うん」
イリヤがこくりと頷いた。手がすっと毛布から出てきて、ウィスターの服の裾を掴む。
ウィスターは軽く目眩がする。弱ってこうして頼ってくるイリヤは何だか………とてもかわいい。
ついつい苛めてやりたくなる気持ちも理解してほしいものだ、とこっそりため息をつく。こんなに弱い力なのに、ウィスターをこの場所に留めておくのには充分だった。
彼女の手を取って、握った。
「大丈夫、私がいますよ」
イリヤがまたこくりと頷いて、微笑んだ。久しぶりに彼女の笑顔を見た気がして安堵する。
そのまま熱い手を握りさすっていると、やがて規則正しい寝息が聞こえてきた。
よほど疲れているのだろう、顔色も悪い。それでもその寝息は穏やかだった。
しばらく飽きずに彼女の寝顔を見ていた。部屋は暗く、月明かりと入口近くに置いてある蝋燭の明かりだけだったが、それでも充分イリヤの顔が見れた。
そっと熱い手を離しても、起きる気配がない。
ウィスターはそれを確認して、手をゆっくりと布団の中にしまってやった。
今まで散々世話をしてきたが、そういえば寝かしつけるのは初めてだな、と思い返す。
また起こさないように髪を撫でる。どれだけそうしていたか、ウィスターにはわからない。ただずっと見ていた。
ゆっくりと時間が過ぎる、静かな部屋。
眠るイリヤの頭の横に肘をついて、ゆっくりと額に口付けた。
彼女の寝息が首に当たるのが分かる。今まで何度も手の甲に口付けたことはあるのに、何だか違う意味があるような気がした。




