ヤマネコ
走るのはそこそこ早いが、どうも体力はない。
イリヤはようやく立ち止まって大きく息を吸った。息がうまく吸えず苦しい。冷たい空気が肺を冷やして咳き込んだ。
男に向けてナイフを振り回して、きっと手傷を負わせることには成功している。実際の刃物で人を攻撃したのは初めてだった。
あれが正解だったのかは分からない。しかし、男が追ってこないことを見るとなんとかなったのだろう。
先程の男の手と、ニヤついた顔を思い出してイリヤは身震いをした。恐怖は強い。
しかしイリヤにとっての幸運は、男がアレキサンドに向かっていたということだった。男の向かっていた方向にそのままいけばアレキサンドに着ける。それは今のイリヤの数少ない希望だった。
しかし夜は深い。裸足のまま走ってきたので、イリヤの細く頼りない足は傷だらけになっていた。左肩も痛いし、頭もガンガンとしている。
少し休みたいけれど、走って汗をかいた身体のまま、冬の夜の山で一晩を過ごすというのは非現実的に思えた。
仕方なく、また当てもなく走るのではなく、今度はゆっくりと歩き出す。
暗闇だった。山の外に出れば月明かりでも見えるだろうか。
木々の擦れる音と、夜行性の鳥の声だけが響く暗闇を、痛みに歯を食いしばって歩いた。
しばらく歩いたところで、不思議な光が見えた。暗闇に小さな光がふたつ、イリヤを見ていた。怪訝に思って目を凝らす。
「にゃあ」
その光から声がした。
(猫……?)
先程まで絶望の一日だったイリヤは拍子抜けした。
少しずつ近付いても、猫は逃げるでも向かってくるでもなく、ただイリヤを見ていた。猫の身体は暗闇に溶け込んでいる。
「にゃあ」
また猫が鳴いて、ひらりと岩から飛び降りた。そして振り返って、また「にゃあ」と短く鳴く。
この山に暮らす野生の山猫だろうか。
「あなた、この山の子?」
思わず話しかけたイリヤに、当然猫は答えない。しかしゆっくり歩き出した猫に、思わずイリヤはついて歩き出した。
しばらく歩いて猫が連れてきたのは、川沿いの小さなほら穴だった。水のサラサラと流れる音がしていて、思わずイリヤは川へ駆け寄った。
喉が渇いている。水をすくって口に含むと澄んだ味が渇きを癒した。異常に冷たいが、それがまた気持ちいい。
今日一日の事件で火照った身体を少しずつ冷やす。
手や足、顔も洗い、ひと段落ついたところでゆっくりとほら穴を覗いた。
「ひっ……!?」
小さな丸い光が幾つもに増えて、イリヤをじっと見ていた。思わず声をあげたが、よく目を凝らすとどうやら猫の家族のようだった。子猫と大人の猫が数匹。
ほら穴は小さいが、イリヤが身を屈めてギリギリ入れる程度。
「入っても、怒らない?」
恐る恐る猫に尋ねる。猫は答えなかったが、やがてイリヤから目を外して毛繕いを始めた。
いいってことかしら。
イリヤは猫を刺激しないよう、ゆっくりと中に入った。中は猫たちの体温でほんのりと温かい。
(……奇跡だわ)
夜の山は冷える。今まで走っていたイリヤはまだ感じていないが、少し休むとどんどんと体温が奪われていくのが分かる。これからまだまだ気温は下がるだろう。
しかし、風を避けて他の生き物がいる空間を見つけられたのは幸運だった。しかも、川沿い。
(大丈夫。明るくなったら、この川沿いを下っていけば、いずれはアレキサンドに着ける)
希望が見えた。明日するべきことも見えた。
今は少し休んで体力を温存しよう。イリヤはコートを脱いで布団がわりに地面に敷き、その上に丸まった。
「にゃあ」
猫が鳴いている。
勝手にほら穴に入ってきて横になろうとしている、迷惑な人間への抗議だろうか。
「ごめんね…明日、でていくから…」
ほとんど意識を失うように、視界が暗くなり、それと同時に足と肩の痛みも同時に薄れていった。
その後、イリヤの目が冷めた時には外は明るく、太陽が昇ってしばらく経っていそうな光の色だった。
思ったよりかなり安心して休めたことに安堵する。ふと足元を見ると、コートからはみ出したイリヤの足の周りでは猫たちが団子のように丸くなっていた。
おかげで寒さはほとんど感じていない。生き物の温もりに、思わず泣きそうになる。
「……ありがとう」
口に出すと、一匹の猫がひゅっと首を上げてこちらを見た。昨日の子だろうか。恐る恐る手を伸ばし、頭に触れてみる。
猫は待っていたようにイリヤの手に頭をこすりつけてきたので、そのまましばらく撫でて、猫の頭や顎をかいてやった。
「ありがとう、……行かなきゃ」
「にゃあ」
まるで話し相手のように返事をしてくれる猫に微笑む。
「あなたたちのことは忘れないわ。本当に、ありがとう」
猫は丸い瞳で、不思議そうにイリヤを見るのみ。野生の猫は気性が荒いと聞くのに、不思議だった。
猫に別れを告げてほら穴を出ると、眩しい光と冷たい空気が一気にイリヤを包む。何時だろうか。時間の感覚が分からない。
ほら穴はとても暖かったらしい、外はキンと冷えている。この寒さの中野宿することを考えるとゾッとした。
また顔と手を洗って、水を飲む。冷たい水に触れると、手がかじかんだ。
(……この川を下れば)
太陽の光に川がキラキラと反射して、ゆらめいている。険しい山の中、穏やかでゆったりと流れる川だった。イリヤは泥だらけのコートをまた羽織り、ゆっくりと歩き出す。
背後では、「にゃあ」と鳴く声がまた聞こえて、イリヤは微笑んで手を振った。
*
ウィスターと御者が乗った馬は、あっという間に麓の町に戻ってきた。
イリヤが見つかった合図である、空砲が三発鳴ったのは少し前。
「……三発…!!」
「殿下が見つかったのでしょうか…!」
団員たちが口々に言う。
マーヤからイリヤの絶望的な状況を聞かされた後だと、手放しでは喜べない。
ウィスターは顔を歪めた。
マーヤたちの話だと、男はフェルディナの方へ連れ去ったと聞いたが…本当にイリヤが見つかったのか。確かめるためには、山を降りるしかない。
「ウィスター様」
マーヤがそっと、ウィスターに声をかけた。
「お嬢様のところへ、行ってあげてください」
「…しかし」
この山小屋は今まで誰も知らないものだった。賊も捕まえているので連行しなければならない。それを指揮するのもウィスターの役目だろう。
振り返って賊達を見たウィスターに、その視線に気付いたルイがやれやれと手を上げる。
「…俺が処理するよ。御者は怪我しているし、彼を連れてさっさとウィスターは山を降りてくれ」
「ええ。お願いします」
マーヤがウィスターに頭を下げた。そこまでされると言葉に詰まる。
そのウィスターの肩に、ルイがぽんと手を置いて囁いた。
「ウィスター、君のお姫様だろ」
「……もう俺のではない」
思わぬことを言われて、つい剣呑な目つきで睨み返してしまったがルイの表情は柔らかかった。
「………分かった。先に降りる」
ウィスターは仕方なく頷いた。その言葉に、マーヤはほっと安心して笑顔になる。再度手袋をして、「一緒に降りましょう」と御者に声をかける。
それからは、あっという間だった。
御者を連れて低木を抜け、元きた正規のルートに戻る。そこに繋いであった馬に御者を乗せ、自分は手綱を握って前に乗る。
「力、入りますか」
「…左手は難しいですが、大丈夫です。御者ですから」
「それもそうか」
そして、笑ってみせる御者を乗せて、一気に山を下ってきた。
さすが下り坂だけあって、帰りは早かった。馬の蹄の音で気が付いたであろう、麓に残っていた伝令係が、馬に乗るウィスターの顔を見てパッと明るくなった。
「副団長…!!!」
「待たせた。空砲を鳴らしたのはお前か?殿下がいたのか」
「はい、私ですが…!!実は私はお姿は見ておりません。ただこの町の診療所から遣いが来まして、泥だらけの傷を負った、上等な服を着た少女を保護していると…念のためお伝えしておきますと言われ、空砲を撃った次第です」
「診療所?自力でそこまで行ったというのか」
「はい、そのようです。上等な服ということで、殿下の可能性が高いと思い空砲を鳴らしました」
ウィスターはため息をついた。
自力で冬の夜の山を下山し、自力で診療所を探して助けを求めたというのか。無茶というか無鉄砲というか、それでもそんなことをしてしまうのはイリヤらしいとも思う。
「分かった、俺が確認しに行く。……上では賊を捕らえている、他の護衛や侍女たちも無事に保護した。行方がわかっていないのは殿下だけだ。恐らく診療所にいるのは殿下だろう」
伝令係の顔が曇った。
「お一人で山を降りられたと…」
「そういうことになる。全く無茶だ。一緒についてこい。殿下で間違いなければ、発見の旨を上まで伝えに行ってくれ」
「はっ!」
そうして、三人で診療所に向かうことになった。
場所はウィスターが覚えていて、町から少し外れた、田畑に囲まれた一軒家がそれだ。畑には薬草や野菜などが植えられており、手入れが行き届いている。一軒家も古いように見えたが清潔で、近寄るとどこか消毒液の匂いがした。
ウィスターは馬から降り、診療所の扉を叩いた。
「はぁい、どうしましたぁ」
中から声が近寄ってきて、扉をガチャリと開ける。開けたのは、それなりに年配の女性だった。淡い緑色の服を着て、優しそうな顔をしている。この診療所の医者だろうか。彼女は、ウィスターの格好を見るなりはっ、と息を呑んだ。
「こちらへ」
言葉少なに招き入れられ、中に入る。中は広い土の床と、その奥に広い板張りのスペースがあった。若い青年や少女が何名か、片付けたり何かを作ったりと働いている。
「…この者は怪我をしている。手当を頼みたい」
後ろの御者を指さすと、医者はあらあらぁと言って御者をまじまじと見た。
「イーヴァ?」
診療所の奥から、もう一人若い男性が顔を出す。彼も淡い緑色の服を着ていた。イーヴァと呼ばれたのは最初に応対した、年配の女性だ。しかしイーヴァは、彼には返事をせず御者の手を取ったり目を見たりと、診察をしていた。
「うーん、ちょっと目がおかしい感じしないかい?」
「はい、実を言うと左目はあまり見えておりません…」
「そうよねぇ、うーん、とりあえず靴を脱いで、そこに横になってくれるかしら」
「イーヴァ!」
男性がつかつかと近寄ってくる。
「ああ、ごめんなさいねブラッド。ちょっと急患もう一人だわ。あなた、この騎士様を奥の部屋に案内してくれない?」
ブラッドと呼ばれた男性は、まじまじとウィスターを見た。年の頃はイリヤとあまり変わらないように見える。不躾な視線に、ウィスターもまっすぐ見返す。
「…靴脱いで上がって、こっち」
ブラッドは、出てきた背後の廊下を指差した。言われるがまま、御者は置いてウィスターと伝令係の二人で靴を脱ぐ。
「靴は置いたままでいいから」
それだけ短く言って、ブラッドは廊下を進んでいく。つっけんどんな言い方だが、嫌な言い方ではない青年だった。
廊下は薄暗いが、消毒薬の匂いがした。板張りの廊下を歩くと、ミシミシと音が鳴る。
「……さっき、といっても結構前か。昼過ぎくらいに、泥だらけでうちに逃げ込んできたんだ。名前は名乗らなかったけど、イーヴァはさっき騎士団が大勢来ていたから、もしかして彼女を探しているのかもって言ってた。それで、騎士団に君の居場所を伝えたほうがいいかって聞いたら、頷いたもんだから知らせに行ったんだ」
ゆっくりとした口調で説明するブラッドに、ウィスターと伝令係は黙ってついていく。
「ひどく怯えていてさ、あと衰弱はしてるし、手足は傷だらけだし、でも命に別状はないよ。傷は手当してる」
やがて、一番奥の部屋についた。
ブラッドは扉をコンコンと叩いて、「開けるよ」と中に声をかけて、ドアノブに手を伸ばして、回す。
ーーーその動作が、ひどくゆっくりに感じてじれったい。堪えきれず、ウィスターはブラッドが少しだけ開けた扉を勢いよく開けた。
小さな部屋だった。
板張りの部屋の真ん中に、小さなベッドがポツンと置いてある。そのベッドに上半身を起こして座っていたのは、はちみつ色の長い髪を左に緩く流したイリヤだった。
「えっと傷はね」
「……指示するから、外で待て」
驚きつつも、中に入って説明しようとしたブラッドをウィスターが片手で制する。
「えっ?」と困惑したブラッドに構わず、ウィスターは自分だけするりと中に入った。
「……ウィスター……!!!!!」
イリヤの目が、顔が、くしゃりと崩れた。よく知っている声はかすかに震えていた。
我慢できずに、ウィスターはベッドに駆け寄った。
そのまま、手で顔を覆って崩れようとしたイリヤを支えるように抱き留めた。




