血の色
最悪だ。
イリヤが激しい揺れで目を開けると、山道が見えた。
身体のあちこちが痛い。なぜ気を失っていたのか、思い出そうとしても靄がかかったようにはっきりとは思い出せない。
(状況はよくなった…?悪くなった…?)
イリヤは必死に記憶を辿る。
…馬車が急に横道へ外れて、馬がパニックになりながら木々の間をすり抜けていったのは昼頃の話だった。後から聞いた話によると、上から弓で立て続けに狙われて馬がパニックになったらしい。
御者の必死の制止も聞かず、イリヤを乗せた馬車は正規のルートからどんどんと離れていった。
激しい揺れと、木の枝が至近距離で馬車の窓を叩く轟音に、イリヤは悲鳴をあげて身を伏せた。
イリヤの乗った馬車が外れていったので、後続の侍女と荷物を乗せた馬車も慌てて後に続いてきた。
しばらくするとぽっかりと空いた広場に到着して、御者が馬を落ち着かせにかかる。
「殿下、大丈夫ですか!?」
「ええ、大丈夫。どうしたの!?」
「申し訳ありません!何者かに狙われました!殿下はそのまま中にいてください!」
御者が叫んで、イリヤはそのまま身を伏せていた。そこからどうなったのかは分からない。
その直後、イリヤは何者かに殴られ、次に気がついたときは馬車の中で縛られていた。
「お嬢様…!!」
「殿下!」
「……みんな…」
同じ馬車に乗せられていたのは侍女が二人と御者が一人。全員ロープで手足を縛られ、御者に至っては頭から血を流していた。
でもその時はまだ良かった。口には何もなく、自由に会話ができた。
何者か、おそらくこの山を根城にしている賊に襲われたこと。
時間は数時間しか経っていないこと。
残りの御者二名と護衛三名も全員捕まり、別の馬車かどこかに押し込められていること。
ここはミグリの山のちょうど真ん中辺り、ここから麓に出るにはアレキサンドもフェルディナもどちらもかなり距離があること。
「私が口でロープを切りますから、殿下だけでも先にお逃げください」
「ダメよそんなの。みんなを置いていけないわ」
「でも…!」
「それに私一人でこの山を降りれるとは思えない。みんな抵抗しないで、じっと待ちましょう」
「でも、お嬢様は…」
「大丈夫。私たちは金品を持っているし、ただの賊なら殺す選択は取らないわ。きっと私たちが到着しないことで、誰かが助けに来る。希望を持って」
イリヤはそう言って、無理に明るく笑った。
不安な顔をすると恐怖は伝染する。
これは外交だ。このメンバーを勇気づけ、全員で帰る。そう全員に思い込ませるんだ。イリヤの力強い顔と声に、そこにいた全員がほっとした顔になった。吐いた息が馬車の窓が白く曇らせる。
賊は全員で十名程度いるようだった。下品な笑い声が外から聞こえてくる。
全員で目を瞑り、耐えた。
何時間。何時間経てばーーーー
フェルディナに到着するのは夕方の予定だった。早くとも、フェルディナがおかしいと気づくのは夜も更けてからだろう。
アレキサンドは送り出したばかりだから、フェルディナが連絡しなければ気づかない。
ウィスターも…きっと気づかない。
イリヤは誰にも見えないように何度も唇を噛んだ。
そこから捜索しに来てここを見つけるのは何時間後だ?それまで食料は?水は?
考えれば考えるほど嫌な想像が胸をよぎる。計算したらダメだ、絶望しか見えない。
それは全員が同じことを考えているはずで、それでも誰も口には出さなかった。
「やはり、お嬢様だけでも逃げましょう」
その提案はマーヤだった。
「お嬢様、お嬢様は私たちを捨てて逃げるのではありません。私たちのために、助けを呼びに行くのです」
「それは…!!」
「ここで待っていても、きっと助けは何日もきません。ただでさえ正規の道からは外れたところです。それは皆もよく分かっています」
「……」
「ほら、お嬢様、後ろを向いてください。ロープをちぎります」
マーヤの言葉に、もう一人の侍女と御者も頷いた。イリヤは正面に座る御者の顔を見る。父親のトリスタンと同じくらいの年齢だろうか、あるいはもう少し上かもしれない。
父と違い細身で、どこか柔らかい雰囲気の御者だ。顔見知りで、彼の馬車に何度も乗ったことがあった。王宮抱えの優秀な御者である彼の右額には、べっとりと血糊がついている。笑っているが力はなく、左の目尻だけがやけに垂れていた。
ーーー時間をかけると良くない気がする。
「…分かった。お願い」
イリヤが後ろを向くと、安心したようにマーヤが笑った。マーヤがイリヤのロープを引きちぎろうと、噛みに行く。
ロープはあっけなく、簡単にちぎれた。
あまり丈夫なものを使っていなかったのが功を奏し、数十分足らずでロープが千切れ、その後イリヤは自分の足のロープも解く。
「みんなのも解くわ」
「…では、御者のものを」
そう言われ、御者のロープも解いた。後は皆で順番に解けるだろう。
「外を窺って、誰も見ていないと思ったら走り出してください」
マーヤの囁きに従って、イリヤは扉を薄く開けた。一気に冷たい風が流れ込んでくる。車内の空気は暖まっていたが、同時に息苦しいところもあったのが少しマシになった。
外は静かだった。夕暮れ頃だろうか、見張りの気配も、賊の気配もない。ちょうど休憩でもしているのかもしれない。
今だ、とイリヤは飛び出した。
靴は置いていて、裸足だった。枯れ葉が足の裏に刺さって、ガサガサと音を立てる。持参してきたコートが重い。しかし、これからどんどんと暗くなる山を抜けるのにコートを置いていくわけにはいかない。
全力で走った記憶などほとんどない。
昔…そう、子供の頃。まだ小さくて、でも少し背が伸びてきた頃。ウィスターと追いかけっこをしたことがあった。
ウィスターはもうすっかり背が高くて、訓練もしており身体もできていた。
それに比べてイリヤはまだ子供。
でも、ウィスターは手加減なんかしなかった。全力で相手をして、全力でイリヤに勝った。悔しがるイリヤの頭を撫でて、「でも姫様もかなり早い方なんですね、驚きました」と笑った。
変に気を遣って勝たされるよりもずっと屈辱で、ずっと嬉しかった。
また走るんだ。あの時みたいに。
私は早い。走れる。
ウィスターに早いと言われたのだ。それは自信だった。走れ。
しかし、間に合わなかった。
左肩に衝撃が走って、イリヤは勢いよく転んだ。土と枯れ葉が顔や頭にまとわりつくのが鬱陶しい。間髪入れずに立ち上がって、そのまま走ろうとした時、足がもつれた。
肩が痛い。それに気づくのにはテンポが遅れた。左肩が脈打つように、ドクドクと熱い。
その痛みで足が回らない。痛い、と呟いて左肩に触れたら、硬い何かが触れた。
(……何か、何かが…)
その硬い何かに触れると、激痛が走って思わず呻き声を上げる。
背後では「お嬢様!!!!!」とマーヤの叫ぶ甲高い声がした。しゃがみ込むと少し痛みが和らぐ気がしてしゃがみ込む。
「おいおい、随分と威勢のいいお嬢さんだなぁ」
男の声がゆっくりと近づいてくるのが分かった。
痛い、寒い、怖い、嫌だ、助けて、怖い、痛い、痛い。
そう叫んだかどうか、イリヤは記憶がない。ただ、そこからイリヤの記憶はあやふやになっている。
*
そしてイリヤは、男の肩に担がれていた。まるで大きな絨毯でも運ぶかのように、イリヤの腰のあたりを肩に乗せて男は小走りで山を駆け抜けていた。
腕力も脚力もどちらも凄まじい。
人一人抱えて悠々と駆け抜けるその男の顔は見えない。比較的背が高そうだが、その分身体も分厚かった。
左肩に手をやった。硬い何かは抜かれていたけれど、痛みがひどい。左手は使えそうになかった。
矢で射られたのだ。駆け出したイリヤを見つけた見張り。きっと見張りは木の上に張っていた。そこで走り出すイリヤに矢を命中させたのだ。
それでなぜイリヤを抱えて走っているのかは分からない。
逃げ出すところを捕まえたなら、また連れ戻せばいいのに。イリヤは益々状況が飲み込めなかった。
「……ねぇ」
勇気を出して振り絞った声は掠れていた。
辺りはすっかり暗い。どこかで鳥が就寝を告げる音がする。あれからどれくらい経ったのか、イリヤにはもう時間の感覚も、今いる場所も掴めなかった。
男は自分の走る足音でイリヤの声が聞こえないのか、息を切らしながら走っていた。
「……ねぇ!!!」
「ん、あぁ起きたか」
イリヤがワントーンあげた大きい声を出すと、男がやっと気付いたのか足を止めた。本当は寒いのだろうが、男の発する熱気で寒さは感じない。
「ほらよ」
乱雑に地面に投げ捨てられ、イリヤはまた呻き声をあげた。左肩はずっと痛い。けれど出血は止まっているようで、自分の右手を見ると赤黒い血液が乾燥してひび割れていた。
「俺もちっとは休憩だ」
男はすぐにイリヤに危害を加えるつもりはないのか、ため息をついてイリヤの横に足を放り出して座り込んだ。
「…どういうつもり」
「あ?んな怖い顔すんなって。とって食やしねぇよ。いや食うか」
「……」
ちっとも面白くないのに、男は自分で言った言葉にゲラゲラと笑った。髭が豊かで、顔のパーツがそれぞれ大きい。フェルディナ風の、異国の顔立ちをしていた。
「俺はお前を貰ったんだ。お前アレキサンドの王女サンだろ。今日通るって聞いたんだ」
「聞いたって、誰から?」
「んー密売人的な奴かなぁ。俺らみたいなダークな人間はさ、お互い助け合ってるからな。城に勤めてる知り合いがいて、たまにこうやって情報をくれるんだ」
レオンとイリヤの婚約は発表されたが、いつイリヤがフェルディナに来るかの情報は一般国民には知らされていないはずだ。恐らくこの男の言うことは本当だろう。
情報屋が、城の中にいるのだ。
「それで、私を貰ったって?」
「俺の取り分だよ。あいつら金とか食いもんばっか見てたけどよ、俺はお前が一番価値が高いっての知ってるぜ」
「…どうするの」
「………知りたいか?」
男がイリヤを見て、ニヤリと笑った。嫌な予感がする。
ウィスターのニヤリとした顔と全然違う。どこか下品で、どこか後ろ暗い、何かを企んでいるような顔だった。背筋が冷たい。一気に冷えが回った気がして、イリヤは身震いをした。
「……私には知る権利がある」
言い捨てると、男は一瞬きょとんとして、それから大声で笑った。唾が飛んできて気持ち悪い。
イリヤはコートの裾で頬をそっと拭った。
「はっはっは!!!!…アレキサンドのねーちゃんはさすが気が強ぇなぁ」
非常に不愉快で、イリヤは厳しい表情をさらに険しくした。
「まぁいいや。俺は考えた。金や美味い食いもん貰っても、それで暮らせやしない。どうせしばらく楽しく遊んで終わりだ。俺は一生楽して生きたい。そこでお嬢ちゃんだ」
男はイリヤを不躾に指差した。
「フェルディナに帰るつもりはない。俺が欲しいのはアレキサンドの永住権と楽な暮らしだ。お嬢ちゃんを人質にして、アレキサンドで一生楽に暮らせるよう保証してもらう。そして、アレキサンドできちんとした暮らしを与えられて、俺とお嬢ちゃんは仲良く過ごしましたとさ、ちゃんちゃん、って話」
「…意味がわからないわ」
「だからぁ、俺がお嬢ちゃんと結婚すんの。俺は一生うまいもん食って飲んで、お嬢ちゃんと家族を作る。な?いい案だろ?」
「そんなこと父が許さないわ。私もそんなことさせない」
イリヤにはよく意味がわからなかった。
この男と一生を共にするなんてごめんだが、この男の計画も破綻している。そううまくいくとは、イリヤなら考えない。ウィスターもバッサリと切り捨てるだろう。短絡的で、計画性があるようでない男の話にイリヤは身震いをした。
ケッ、と男が笑い捨てて、次の瞬間。イリヤは地面に組み伏せられていた。
「ちょっ、なにっ……!!」
「俺がお嬢ちゃんを奪ったら、傷モノになっちまうなぁ?そうしたら、お嬢ちゃんはこの先お嫁にも行けない、だから俺と結婚させた方が得だってわけ。分かる?」
両肩を強く地面に押し付けられて、鋭い痛みが走って思わず声をあげる。あまりの痛みに顔が歪んだ。男を見上げると、先程までとは違う、また下品な笑みを浮かべていた。
気持ち悪い。
嫌な予感は当たるものだ。
「いや!!やめて!!」
必死に抵抗しようとするが、抑えられている肩はビクともしない。男がイリヤに跨るように抑え込む。
と、とある記憶が蘇った。
フェルディナだったか、そのもっと向こうの国の話だったか。女性は初めての経験をした人と結婚しなければならないという風習があるそうだ。
そのため、女性を誘拐して無理矢理結婚させるという事件が時折あるらしい。
アレキサンドで生きていれば理解はできない。しかし、それに苦しむ人がいる、という話はイリヤも聞いたことがあった。
この男、それを狙っているのか。
イリヤはキッ、と男を見上げて睨んだ。その表情は恐怖を無理矢理怒りで抑え込んだようなもので、男はまたそれに気をよくしたようだ。
「まぁまぁ、すぐ慣れるからよ。安心しろ」
ニタニタしながらそう言う男の手が、ドレスの上から身体に触れる。
「いやっ、やめて!!!!」
「んな叫んでも誰もこねぇよ」
「やだっ!!!!」
なんて散々な日なんだ。イリヤの目から涙が溢れた。何でもない、少し大変なだけで普通の輿入りのはずだったのに。
仲間である侍女や御者たちもボロボロ、自分に至っては今ここで凌辱をされようとしている。私が何をした?たまたまにしては酷すぎた。
…ずっとウィスターに守ってもらっていた。
他国は怖い、そう思っていたのに一緒にフェルディナに行って、実際の景色を見せてくれた。
だからイリヤは怖くなかったし、怖くなくなった。ウィスターがいるから大丈夫、なんて。
本当はいなくなってしまうのに、心の底でそう言い聞かせていたのかもしれない。
イリヤはふっと自嘲した。
その様子を何か勘違いしたのか、男もイリヤの両肩を抑えるのをやめて、手を離した。上半身を起こして何やら服を脱ごうとしている。
もう嫌だ。
イリヤは太腿に隠し持っていた短剣を手に取り、一気に男の胸に切りつけた。
「っ……!!??」
なかなかに気色の悪い感触が手に残る。だめだ考えるな。
こういう遠出の時は大抵、太腿に短剣をしこんである。不幸中の幸いは、今まで気づかれなかったことだろう。最悪な今日の中で、一番いい出来事だった。
「ぐっ…………このやろっ…」
男の力が弱まった隙をついて、イリヤは思いっきり男の胸を蹴り飛ばした。情けない悲鳴をあげて、男が地面に倒れ込む。
どうなろうと知ったことか。私が私でなくなるようなことをされるなら、ここで。
ちょうど夜のとばりが降りて数時間。
夕方とも深夜とも言えない夜の山に向けて、イリヤはまた、一目散に走り出した。




