出発
冬になった。
前回フェルディナへ行ったのは夏。それから季節は巡り、今はもうすっかりと寒い。
夜が明ける前にマーヤに起こされて、身支度を始める。もちろんあまり眠れていないので、起こされる前から私は起きていたけれど。
今日のために仕立てた白い絹のドレス。ウェディングドレスはAラインだったので、母上の希望でこのドレスはストレートラインの大人っぽいドレスだった。
ふりふりのお姫様みたいなドレスよりも、母上は意外とシックな趣味をしている。
ウェディングドレスは荷物の中だ。
今日は移動日なので、ウェディングドレスは本番にとっておくことになり、動きやすい絹のドレスも仕立てた。それから持参品の宝石や反物も荷物の中には入っている。
「少し痩せたんじゃない?」
母上が部屋に来て、心配しながらヴェールを下ろした。視界が一気に真っ白になる。
「そうでしょうか。式のために少し絞りました」
「やっぱり。あんまり痩せすぎちゃダメよ。ドレスが合わなくなっちゃうわ」
そうは言っても、気になるものは気になってしまう。私はそっと、片手で二の腕をつまんだ。つまめはするけれど、柔らかさはずいぶん減ったような気がする。
「それに、ある程度ボリューミーなほうが殿方はお好みよ」
母上の言葉に、マーヤはくすくすと笑った。
「奥様。レオン王太子はきっと、お嬢様が痩せてもふくよかでも何も気にせず愛してくださいますわ」
「まぁ、そうねぇ新婚だものねぇ。羨ましいわぁ」
マーヤの言葉に、少し照れる。
あれからレオン王子とは手紙のやり取りを続けていて、机の引き出しはあっという間に満杯になってしまった。その引き出しの中身も、今は全て荷物の中にしまってある。
私は今日、フェルディナに出発する。
本来なら、到着後、例えば明日すぐにでも式を行うものらしい。しかしレオン王子たっての希望で、式の準備はフェルディナに着いてから一緒に行う予定になっていた。
婚約期間という、人生で一度しかないこの期間を楽しみたいという考えのようだ。それと、あの市場のこともあり、自分たちだけで段取りするより私も準備に参加した方がいい式ができるという、少し計算高い一面もありそうである。
「さっさと正式な夫婦になって、早く子供が欲しいと考えるのが普通よぉ。本当にレオン王太子は素敵な方ね」
ロマンチスト母上はそう言ってうっとりしていた。子供、の言葉に私は身体が固くなる。王太子に嫁ぐからには、子供を産むのは義務である。そしてそれに何が必要なのか教えられた時、私は世界が暗くなったものである。
もちろん何となくは知っていた。知ってはいたが、花嫁教育の一環で詳細を知った私は絶望した。
(女性ってすごい……母上、すごい………!!!)
それに関してはまだ心の準備が万端とは言えないけれど、正式に夫婦になるのは年明け、春になってからの予定だ。今日は私が、正式な婚約者としてフェルディナに移り住む日。
「寒いでしょうし、出発後はこちらのコートとマフラーを着てくださいね」
と、マーヤが小さな荷物を別の従者に渡した。先に馬車に乗せておくのだろう。
「さ!準備はこんな感じかしらね…!」
母上に小さなブーケを持たされる。真っ白なドレスに、白いヴェールに、ブーケ。
はちみつ色の長い髪はゆるやかに流している。周りの表情があまり見えないけれど、みんな温かい目で見ていることは、雰囲気で分かった。
母上がぎゅっと抱きしめてくれる。
「綺麗よ、イリヤ…!」
「本当。とてもお綺麗ですわ、お嬢様」
「ありがとう…」
母上を抱きしめ返した。家具や調度品だけが残された、空っぽの薄暗い部屋。
レオン王子も、綺麗だと言ってくれるだろうか。彼なら、固まって、少し挙動不審になって、それからまっすぐ褒めてくれるだろうと思った。
「あなた、イリヤの準備ができましてよ」
母上が、部屋の外で待っていた父上と弟妹たちを呼んできた。
父上は感極まっている。
弟二人は、「お姉さまきれい…!!!」と目を輝かせていた。
「イリヤ、おめでとう」
父上からも抱きしめられる。父上の大きく、分厚い身体が震えていた。
「父上、泣かないでください」
「泣いてなどおらんっ!」
「もう、父上ったらー」
父上を揶揄っているのは妹のシーラだ。シーラは父上に溺愛されているので、かなり強い。これからは私の代わりに、弟二人と両親を支えていってくれるだろう。
「姉上、おめでとうございます。寂しいですわ」
シーラはさすがの貫禄のある挨拶だった。
「ニコラス、カイル。またね。頼んだわよ」
弟二人に声をかける。二人とも、婚姻のために嫁ぐということがピンときていないだろう。うん!と明るく頷いている。
「……では、いこうか」
父上が鼻をすすって、手を差し出した。父上のエスコートを受けるなんて、生まれて初めてだ。
最後に、自室を振り返った。
おそらく二度と来ないであろう、空っぽの自室。静かで、広くて、寂しいものだった。
*
外に出ると、朝焼けが見えた。
空気が冷たくて、澄んでいる。
王宮を出る階段を降りた先に、白い馬が繋がれた馬車が見える。今回の輿入りのために特別に用意されたものだ。
周りには、朝早いというのに集まった王宮の衛兵たちや騎士団、王都から駆けつけた民衆も見える。
階段の下では、ウィスターも立っていた。朝から珍しく、緩めがちな礼服をキッチリと着ている。
階段を一段降りる。
カラン、カラン………と、王宮にある鐘が鳴った。
思わず鐘のある方を振り返った。森の中に佇む王宮が、別れを告げているように思える。私が生まれ育った王宮。めでたいことがある時しか鳴らない鐘の音。私は微笑んだ。
「王女殿下…!おめでとうございます!」
「おめでとうございます。いってらっしゃいませ…!」
皆の声がざわざわと聞こえる。その声に応えるように、手を振った。
そのまま、父上のエスコートで長い階段を降りる。白馬たちの吐息が聞こえる距離まで近づいたところで、手を離す。
「イリヤ。結婚式でまたね」
父上と母上が涙ぐんで、手を振っている。
「もう、みんな大袈裟ですよ。一生の別れじゃないんですから」
「だって…」
あえて明るく笑って見せた。悲しい別れじゃない。私は私に必死だった。まだ式がある。
「出発の準備が整いました」
マーヤが声をかけて、私は頷いた。
それを確認して、マーヤは後ろの馬車に乗り込む。先頭の馬車が私、その後ろに侍女二人の馬車、その後ろは荷物が乗った馬車。
たった三台に、私の全てが乗ってしまった。
「そうね、また式があるものね」
けどーーー、式が終わったら?
私はフェルディナの人間になる。この王宮に帰ってくることも、シーラのドレスをみんなで選ぶことも、ニコラスの立太子の姿を見ることも、きっとない。寂しい。久しぶりに感情が溢れそうになって、口を結んだ。
馬車の隣にはウィスターが立っていた。
「ウィスター。今までありがとう」
「…おめでとうございます。式には行きますので」
ウィスターは頭を下げて、ゆっくりと馬車の扉を開けてくれる。私は振り返った。
「父上、母上。シーラ、ニコラス、カイル。たくさんの、アレキサンドで支えてくださった皆さん。今まで本当にありがとうございました」
そう言って、できるだけ優雅に腰を折ってみせた。
「私はフェルディナで生きていきます。けれどー、心は、父上と母上の娘です。いつまでも」
そう言うことくらいは許されるだろうか。
「そして、私はこの王宮で経験したことを忘れません。フェルディナに行っても、私はアレキサンドで生まれたイリヤです。皆さんも、フェルディナのことを思い出すことがあれば、一緒に私のことを思い出してくださいませ」
ヴェールで皆の顔が見えない。でも、これでいい。
泣いている父上や母上を直視することは出来なさそうだ。
幸せなことなのに、これからもたくさん楽しいことはあるだろうに、寂しさは募る。
そんな気持ちを振り払うように、私はゆっくり馬車に乗り込んだ。
進行方向を向いて、椅子の真ん中に座る。この日のために整えられた馬車は、何だかふかふかだった。
油断していた。
ヴェールで見えなかった。気づけば、ウィスターの顔が近くにあった。上半身を馬車の中に突っ込んでいるように、身を乗り出している。
ウィスターは、私の耳に顔を寄せて、低い声で囁いた。
「…私には、何も言わずに去っていかれるのですね」
「…え?」
思わず固まった。何も言わずにって、何もって。
今まで散々、別れの言葉なら言ってきたのに。
ウィスターの顔が少し離れる。ヴェール越しに、群青色の瞳が見えた。
そして少しだけ、悲しそうにふっと笑った。
「では姫様。さようなら」
あっという間だった。
ウィスターの気配が消えて、馬車の扉が閉められるガチャンという音が響く。私は何も考えられず、固まっていた。
やがて、馬車が走り出す。
あっという間に家族が遠くなる。慌てて手を振った。父上も母上も、ウィスターも並んで手を振っていた。
姫様。
そう言われていたのは昔の話だ。
そうやって、甘やかすように呼ばれていた。
ーーーーずるい。本当にずるい。
すっかり忘れて、忘れようとして、追いかけてくるあなたを振り切って。
そうしてやっと、幸せになろうとしているのに。
「…馬鹿…!!!!」
もうやめてほしい。私を振り回さないで。
どれだけ私の心を振り回せば気が済むの。私は、愛されて幸せになるのに。あなたも愛する人がいるはずなのに。あなたの未来に私はいないのに。
でももうどっちでもいい。
これでさよならなんだ。
幕は閉じた。
一人ぼっちの馬車の中、頭を撫でてくれる人は、もういない。




