残り香
休憩しながら半日ほど馬車を走らせて国境を越えたところで、カコカコという蹄の音がどんどんゆっくりになって、やがて止んだ。
休憩かな、と窓の外を見て、私は首を傾げた。国境をすぎたので、もうアレキサンドに入っているはずだ。それなのに外には、まだ青い海が広がっている。
「着きましたよ」
そう言って降りようとするウィスターを、私は慌てて引き止めた。
「ちょっと待って!ここどこ?」
「……アレキサンドです」
「分かってるけど、まだ海沿いなの?」
王宮に向かうのであれば、国境にある深い山を抜けたらひたすら内陸へ進むはずだ。怪訝な顔の私に、ウィスターはくつくつとまた笑っている。
「…このままぶっ通しで帰ってもいいですが。言ったでしょう、帰りはゆっくり楽しみながら帰ろうと」
「ええ……え、じゃあ」
「ここはアレキサンド王国オパール領です。オパール伯爵に頼んで、空いている城を貸してもらっております。ここに泊まって、王宮に到着するのは明日です」
「そうだったの!?」
「日程表を途中で変えましたからね。王女殿下は興味なくてご覧になっていないだけでしょう」
そう言われると何も言い返せない。王宮を発つ時に日程は確認したけれど、まさかそこから変わっているなんて思いもしなかった。
「フェルディナの海はとても綺麗でした。アレキサンドにも海がありますので、何が違うのか観察して教えてください。宿題です」
「何よ、子供扱いしないで」
そうしてウィスターの手を借りて降りると、そこにはまた石造りの城が建っていた。海沿いにある石造りの城。どこかフェルディナを思わせるけど、あれは王城だったからかもっと大きく、豪華だった。
この城は必要最低限、といった雰囲気で、活気もない。
「オパール伯の来客用の城だそうです」
ぽかん、と城を見上げていると、横に立ったウィスターも同じように城を見上げた。
「……待って、オパール伯って!」
「ん?…あぁ、王女殿下は子爵の縁談をお断りになられたんでしたね」
「ちょっと、なんでここなのよ気まずいじゃない」
「大丈夫ですよ、ここは来客用なのでオパール家の人間はいませんから」
「でも…」
「それに、王女殿下はフェルディナの海を大層気に入られたようですし。アレキサンドの海を今見たら、何か面白い感想が聞けそうだなと思いました」
ウィスターが言いそうなことだ。
さすがお堅い男ね、と心の中で唇を尖らせる。せっかくだから休憩と割り切らせてくれればいいのに、何かにつけて理屈っぽい。それでも、このまま帰るよりも一度ゆっくり休みたいのが本音だ。
「お嬢さま、ウィスター様。私たち少しお部屋を整えてまいります。大変申し訳ございませんが、お好きなところでお待ちください」
マーヤが私たちに頭を下げて、城の中へ走っていった。普段使われていない城であれば、中の確認がいるだろう。
「……海沿いでも行ってみますか」
ウィスターがゆっくりと歩き出す。私も、慌ててウィスターの後に続いた。
城の裏がすぐ海になっていた。太陽はかなり傾いていて、今日の夕陽は燃えるように赤い。城の裏には、海が見えるように申し訳程度のベンチが置いてある。ウィスターがハンカチでさっと拭いてくれたそのベンチに腰掛けた。
「……ふう〜〜」
馬車の振動というのは、ずっと続くと辛いものがある。静かな動かない椅子というのは、馬車から降りると最高に気持ちいい。私は凝り固まった背中をほぐそうと、軽く背伸びをした。右隣にウィスターも座る。
「……フェルディナの海とは、色が違うわね。フェルディナの海はもっと明るい、水色みたいな色だったわ」
「そうですね。向こうのほうが浅瀬が多いんでしょう」
「波も高いわね。フェルディナの波はもっと穏やかだったような…。砂浜も、白いというよりかなり茶色いわ」
記憶の中のフェルディナの海と見比べて、何となく違いを列挙していく。
それでも海は海だ。潮の匂いもする。定期的に聞こえてくる波の音に、私は目を閉じた。
匂いも、音も、風も。同じ海沿いにいるのに、フェルディナにいた頃感じたものとはまた違う。
そっと目を開けて、こっそり右隣のウィスターを見た。ウィスターも疲れはあるようだが、軽く微笑んでやはり海を見ていた。リラックスしたように足を投げ出した座り方をしている。横顔は赤い夕陽に照らされていて、眩しい。
「…フェルディナは、白い砂浜と距離の長い浅瀬によって、ああいう色になるそうです」
「そうなの」
「根本的な土地のつくりが違うので、アレキサンドにはあの青は作り出せません。しかし、浅瀬は大きな船が通れません。なので、貿易は少し弱いのがフェルディナです」
「なるほど…そういうことなのね」
「人が乗る用のボートでも走るのは難しいそうですよ。浅瀬で波の方向が変わりやすいので、熟練しないといけないとか」
私に聞かせるためなのか、自分の知識を反復しているだけなのか、判断がつきにくい情報をゆっくりと話す。
このぽつぽつと波の間に話すのが気持ちいいと思った感覚は、昨日の後夜祭、夜の海と似ている。違うのは、隣がレオン王子ではなくてウィスターだということだ。
どこか安心する声。意地悪に笑う顔。細くて長い指。それでも大事なところではいつも優しくて、揶揄いながらも欲しい言葉をくれる。諦めようと何度も言い聞かせているのに、ちっとも離してくれない。
赤い太陽が少しずつ水平線に近づいていく。風が強い。
「…寒いですか」
その問いかけはやけに優しかった。頬が染まるのは、太陽のせいに見えるだろうか。私は俯いて、無言でこくりと頷いた。はは、と苦笑したウィスターが、自分のジャケットを脱いで肩にかけてくれる。
ーー昨日と似ている。
似ているけれど、違う。肩にかかるウィスターの体温に、やけに緊張して身体が固くなる。
この時間が一生続かないだろうか。
もう少し、もう少しだけ。
私はそっと、身じろぎをした。座り直すフリをして、右手を自分の横に置く。すぐそこには、ウィスターの指があった。その距離、きっとほんの数センチ。指を伸ばせば届くのに、あえてそこに置いた。
分かってる。こんなの狡い。
レオン王子と比べてウィスターの気持ちをはかろうなんて、ずるくて汚い。
太陽がさらに水平線に近づく。赤い光に紫色が溶けて、夜に向かっているのがわかる。私の神経は今、右手の指に集中していた。
ウィスターが少し体勢を変えた。さらに指が近づいた気配がする。さらに私も指を近づける。
後少し、あと少しーーーー。指先にウィスターの体温を感じる。ほとんど触れ合っているその距離で。
ウィスターは前屈みになって、膝に肘をつくような体勢に変わってしまった。
私の右手の先に、さっきまであったウィスターの体温がない。冷たい海風が、私を嘲笑うように撫でていく。欲張りで狡い私を、全部否定していく。
《男性は意中の相手のことを無意識に見つめて、触りたくなってしまう生き物だそうな》
昨日の夜の、マーヤの言葉を思い出した。
…分かっている。片思いだから。
ウィスターは意味なく手を繋いだり、触れたりしない。だって、意中の相手でも何でもない。ただの“手のかかる王女殿下”としか見ていない。気にかけてくれるのは、私が王女だから。守らなければいけない相手だから。ただそれだけ。
女性として、なんて、そんな目で見ていない。
分かっていたことだった。ただこの熱と旅の余韻に絆されて、何となく期待してしまっただけ。
昨日のレオン王子が余りにもまっすぐで、影響されてしまった。ただそれだけ。
いつも通りじゃない、こんなの。ただ少し触れただけであんな握り方をするなんて、レオン王子がただ私にまっすぐだっただけだ。
あぁ、そうね。確かに愛されない恋というのは、辛いかも。
空を見上げて自嘲する。
「王女殿下。あそこにアレキサンドに到着する大きな輸入船が…………殿下?」
ごめんなさい。私今狡かった。貴方がそんな人じゃないって分かってたのに、勝手に期待して失望した。ただ自分が嫌になって、空を見上げ続ける。
遠くに見える船を指差したウィスターが、そんな私に気づいた。いつも通りのウィスターが、やけに辛い。
「どうしました、具合でも悪いですか?」
「…そんなんじゃない」
「……じゃあどうしました」
そんな私のことを知らないウィスターは、どこか甘やかすように言って、私の背中を撫でた。
違う、違うの。それじゃない。
そんな王女殿下に対する優しさで触れてほしかったんじゃない。
「………触らないで」
その声は、私も驚くほど冷たかった。
さっさと立ち上がる。海はーーーーダメだ。
「ごめんなさい、寒いので、私一回馬車に戻るわね。これ、ありがとう。助かった」
ジャケットを脱いでウィスターに突っ返す。私の顔は強張っている。
「別に着てっていいですよ」というウィスターは無視して、ベンチを去った。
こんな可愛げのないことばかりしているからダメなのか、分からない。ごめんなさいウィスター、貴方は何も悪くない。私がぜんぶ悪い。ただこの残り香みたいな恋にすら翻弄されてしまう、私が悪い。




