後夜祭
市場の二日間はあっという間だった。
最初の、私のズタボロながら懸命な挨拶の言葉は、そのあと拍手と歓声で締めくくられた。
その後も市場では、アレキサンドの宝石を目当てで来たのに、いつの間にかフェルディナの商品を買ってしまった、などというエピソードで溢れかえった。
目玉商品として私が作ったアレキサンドライトのネックレスも好評で、ほぼセット売りのような扱いをされていたという。しかしどちらの店主も満足そうな顔をしていて、売り上げも予想より好調だったようだ。私は市場を回って人々に声をかけたりかけられたり、レオン王子が用意してくれたお昼ご飯を人目につかないところでこっそり食べたり、フェルディナの子供たちから宝物だという貝殻をもらったりした。
どれもアレキサンドだけにいてはできない経験で、一日半あった市場は一瞬で終了してしまった。
一日目の終わり、レオン王子が「頑張ってくれた行商人や店主たちの交流の場を最後に作ろう!」と言い出して、私の大賛成もあり、急遽二日目の夜は撤収後の市場会場で後夜祭が開かれることになった。
私やレオン王子は基本的に市場の顔として、ニコニコと話しているだけだった。一番割を食ったのは、この市場の実行委員のような役割を担っていたレオン王子の側近たちと、その手伝いに巻き込まれたウィスターだろう。バタバタと後夜祭の準備をさせてしまうことになって、心の底では彼らを拝み倒している。
そうして気づいた時にはもうすっかり日が暮れて、私はここ二日、私専用みたいになっていた椅子に座り、ぼんやりと後夜祭の様子を眺めていた。
暗闇の中、音楽隊がゆったりとしたリズムを刻み、その周りで思い思いに皆が語り合っている。
提供されているのはレオン王子がフェルディナ城から持ち込ませたワインで、ハムやチーズなどといった軽食と一緒に飲んでいる人たちも多そうだ。
辺りは真っ暗だけど、市場のランタンが闇に逆らうように、ここだけを照らしている。
あぁ、よかった。
その様子にすっかり安心して、私は一息ついた。
「夜まであるのですから肩掛けを持ってくればよかったですね」
「え?いいわよ。今はみんなの熱気で暑いし」
「そうですか…寒ければ調達するので言ってくださいね」
マーヤはしきりに私の肩掛けのことを気にしていて、私は笑いながら受け流す。心地よい疲れで、寒さは感じなかった。
「イリヤ姫、お疲れではないですか」
そこへレオン王子がやってきて、笑顔で私に問いかける。様々な人たちと先ほどまで楽しそうにしていたレオン王子は、ワインのせいか少し頬が赤い。
「大丈夫。とっても楽しかったです」
「俺も、こんなに楽しめるとは思っていなかったです。イリヤ姫の作り上げた景色ですね」
「え?そうかしら。最終的にみんな仲良くなったと思いますよ」
「いえいえ。あの配置を変えるという提案で、一気に空気が変わりましたからね。後夜祭にもほとんどが参加してくれて、お互いの国同士の交流みたいになってますよ」
「レオン王子も、たくさんの方とお話ししてお疲れではないですか。かなり両国の仲を取り持っていただいてましたよね。お疲れ様です。…お座りになってください」
私の隣のレオン王子専用になっている椅子を促してみる。
レオン王子はふむ、と少し考え込んで、私の後ろのマーヤを見た。
「…侍女殿。イリヤ姫を少しお借りしても?」
「えっ?」
「王太子殿下と護衛の方がついてくださるのであれば、構いません」
「ちょっとマーヤ!」
「イリヤ姫と俺は少し休憩してくる、とウィスター殿にお伝えしてくれるか」
マーヤはくすくすと笑ってあっさり了承してしまった。レオン王子は自分の側近にウィスターへの伝言を頼むと、満面の笑みで私に手を差し出した。
「昼間の海も綺麗ですが、夜の海というのもまたいいもので。お付き合いください」
ザァッ………と、近くからは波の音が聞こえてくる。ここは観光地にもなっている沿岸で、白い砂浜と青い海でたくさんの人が泳ぎにくるのだそうだ。そういえば昼間は全然見られなかった。
「…じゃあマーヤ、行ってくるわね」
「いってらっしゃいませ」
マーヤを振り返ると、マーヤはいつものようにニコニコと笑っていた。私はレオン王子の手を取って、歩き出す。
会場から少し離れると、そこはもう真っ暗だった。
遠くに後夜祭の穏やかなざわめきと灯りが見える。暗闇で何も見えないけれど、レオン王子はまるで見えているかのように歩いていく。
風が気持ちよかった。定期的な波の音が心臓に響く。私の右手をとっているレオン王子は、無言で歩いていたが、やがて「ここに腰掛けられますので、どうぞ」と立ち止まった。ちょっとした段差のようになっていて、下は砂浜だ。私はスカートが捲り上がらないように、慎重に腰を下ろした。
石でできているただの段差のような場所が、一部分だけ板張りになっていて腰掛けられるようになっている。
「少しは休憩しないと。イリヤ姫は初日からかなり忙しかったでしょうし」
レオン王子も、そのまま私の右隣に腰掛けて笑った。初日というのは、フェルディナに来た日のことだろう。そういえばあの日からずっと動きっぱなしである。
「そうですね。帰ったら少しゆっくりしたいです」
「イリヤ姫は、ご兄弟がいるんですよね?」
「ええ、妹が一人と弟が二人。賑やかですよ」
「いいなぁ。イリヤ姫みたいな方がお姉様なら、そりゃあたくさん甘えられたでしょうね」
「どうでしょうか…妹は年齢が近いので、仲は良いですが、甘えられた記憶はありませんね。でも弟二人は可愛いです」
王宮で留守番をしている家族のことを思い浮かべた。弟のニコラスも、いずれ立太子されるだろう。レオン王子のような、民衆に慕われるような王太子になれるだろうか。あの伸びた背筋を思い出して、思わず笑ってしまう。
レオン王子はそんな私をじっと見つめていたけど、また目をそらした。
波の音の合間に、二人でぽつぽつと話すのも気持ちいい。
「明日、帰ってしまうんですね」
「はい。…とても楽しかったです。色々とありがとうございました」
「それはよかった。少しでもフェルディナでの思い出ができたんなら嬉しいですよ」
また静かになる。レオン王子も疲れているのか、いつもの張り上げているような話し方ではなくて、静かに話している。
びゅう、と海から強い風が吹いた。今日のドレスも動きやすさ重視とはいえ、剥き出しの肩に夜風は冷たいが、嫌な寒さではない。なんだか心を落ち着かせてくれるような、穏やかな冷たさの風だった。
レオン王子が羽織っていたジャケットを脱いで、私の肩にかけた。ふわり、とした温もりが肩に乗った。
「紳士がジャケットを着ているのは、こうして美しきレディにいつでも上着を貸せるように、ということらしいですよ」
おどけた様子のレオン王子に思わず吹き出してしまう。
「ふふ、そうなんですか。どなたの教えですか」
「父ですね。…本当は私も、弟か妹がいるはずだったんですけどね。流れてしまって、それで母は妊娠ができなくなったそうです。けれど、父は母以外の女性には見向きもしなかったそうで。側室も作りませんでした。俺は、そんな父を誇りに思っています」
「そうでしたのね…夫婦の素敵なお話ですね」
「まぁ、昔の話ですよ」
また沈黙。遠くの後夜祭と波の音も静かで、私は少し座り直そうと手を地面についた。意図せずレオン王子の手に当たってしまう。なんだか照れるな、と手を避けようとした時。そっと、でも有無を言わせぬ力で指がからめ取られた。
すっぽりと、私の右手はレオン王子の手の中に包まれてしまう。
えっと…‥‥
どう反応したらいいものか迷って、レオン王子を見上げた。彼は何事もないように正面の黒い海を見つめていた。星に彼の金髪が煌めいているように見える。
どうしよう、どうしよう。
今までエスコートの時に、男性に手を握られたことはある。レオン王子だってここまで手を握ってきてくれた。けれどこれはーーーーー何かが違う。
海という場所のなせる業なのか、きゅっと握られた手が妙に熱い。顔が赤くなるのが分かった。恥ずかしくて目を逸らす。
レオン王子といえば、左手の感覚を失っているのかと疑ってしまうほど、照れるでも恥ずかしがるでもなく、さっきと何も変わらないように見えた。もしかしたら、意味はないのかもしれない。そう考えて、落ち着け、と深呼吸。
「イリヤ姫は、海に入ったことはありますか?」
「…え」
あまりにも普通に会話を続けられて、緊張して少し辿々しくなってしまった。
「えっと……実はないんです。幼い頃に両親に連れてきてもらったことはあるんですが、父が危ないからと言って入れてはもらえなかったんです」
「そうですか。イリヤ姫のお父上は正しいですよ。海はこうして穏やかに見えますが、波の力はとてつもない。嵐が来ると当然荒れもします。そんな時、真っ先に知識のない者と油断した者を見つけて、あっという間に攫っていく。そこには人間には抗えない力強さがあります」
「そう考えると恐ろしいですね…」
「はい。でも、その海と共に生きているのがこのフェルディナです。この海と仲良くなる術もあります」
「すごいです。私は数えるほどしか見たことがなくて。海と生きるって、なんだか格好いいですね」
それは正直な気持ちだった。自然は恐ろしい。時には厳しく牙を向く。けど、今の目の前の海は静かで穏やかで、全てを包み込むような優しさすら感じる。
「イリヤ姫、海に入ってみますか?」
「えっ、いや私は…」
「大丈夫大丈夫。足だけですよ。はい、靴を脱いでそこで立ってください」
しゃきしゃきとと促され、右手が解放された。レオン王子はさっさと靴を脱いで、裸足で立っている。私はおずおずと靴を脱いで、そのまま立ち上がった。海に、入る?このまま?全くイメージが湧かない。
けれど、レオン王子の言葉に不思議とわくわくしてしまう自分もいた。
「はいっ、じゃあ掴まってーーーーー」
「きゃっ?」
ぐるん、と視点が回った。レオン王子が私の肩と足を支えて、抱き上げている。
「ちょっ…まっ………」
なんだかずり落ちそうになって、慌ててレオン王子の肩に手を回す。そんな私の様子にまた明るく、大きく笑っているレオン王子は、私を抱えたまま、ずんずんと暗闇に突き進んでいく。
「ちょっ、怖いです、怖いっ…!!!!!」
「大丈夫ですよ。ちゃんと波の手前で降ろしますから」
そっちの怖いではないし、ものすごく恥ずかしい格好。けどレオン王子は私を軽々と抱き上げて歩くペースが変わらない。ふわふわと浮いたまま運ばれるのはなんだか不思議な感覚で、やっぱり怖い。しかも歩いているのは砂の上だ。地面とはまた違う、前後左右に揺られるような激しさに、私は必死に彼の肩にしがみついた。
やがてレオン王子が止まって、ひょいと私を降ろす。本当に、子供のような軽々しさである。
「スカートはあげたほうがいいかもしれませんね」
「は、はい…」
そう言われて、私はゆっくりドレスのスカートをたくしあげた。どのあたりまで上げたらいいのかな、膝くらい?余った生地は畳んで小さくして両手で持った。
「じゃ、一歩進んでください」
足元を見ると、暗闇に砂浜がぼんやり浮かんで見えた。足は砂浜に沈んでいて、ざらざらしている。
地面の底から響くような波の音が聞こえる。私はおずおずと、少しだけ、一歩前に踏み出した。
一気に波が足にぶつかる。冷たい。思ったより波の力は強くて、私はバランスを崩した。「おっと」とレオン王子が腰に手を回して支えてくれる。
しばらくすると波の力が、今度は海の方に引っ張っていく。足の裏がザワザワとくすぐったくて、私は思わず笑い声をあげた。
「あははっ、くすぐったいっ……!」
そうこうしている間に次の波が来た。また、強い力で押して、引かれる。そして、また強い力で押される。その繰り返し。だけど、同じ波は少しもなくて、波の強さや高さがそれぞれ違った。
「すごい、本当に波って力強いんですね…!!」
なんだかすごい発見をしたような気持ちになって、レオン王子を見上げると目が合った。時が止まる。顔が近い。
私の腰に回された手が大きくて、またドキリとする。
「……」
「…イリヤ姫。また、会えますか」
やけに真剣なその問い。私は思わず彼の顔を見て固まった。もちろんまた会えますと言うのは軽すぎて、分かりませんと本当のことを言うのは重すぎる。ただ、すがるようなその眼に嘘はつけない。
ザァッ……と波がまた押し寄せて、水飛沫で手が濡れた。
なんて答えたら正解なのかが分からなくて、私が「はい……」と呟いた声は思ったより小さくて、波に消えた。




