第七章 聖女は渡さない
その日、グレンヴァルトの南門に現れた一行は、ひどく居丈高だった。
金糸の軍旗を掲げた私兵二百。先頭の馬上には、中央貴族筆頭バルザック侯爵の名代を務める騎士団長が、油の浮いた笑みを浮かべている。
「王都よりの使者である! 聖女セラフィーナ嬢の身柄を、国家保護の名の下にお預かりに参った! 速やかに引き渡されたし!!」
応対に出たバルトが慇懃に「王命の書状を拝見したい」と求めると、騎士団長は懐から羊皮紙を出して掲げた――遠目に、それらしく見える巻紙を。
「下郎が検める必要はない! 抵抗すれば、辺境伯といえど王家への反逆と見なすぞ!」
「……ほう。反逆、ときたか」
低い声とともに、門の上に長身の影が立った。夜色の髪に金の瞳。北の軍狼が、静かに眼下の二百人を睥睨する。
「妙な話だ。王都からの早馬なら昨日届いた。国王陛下の正式な使者は礼を尽くして七日後に到着する、内容は『聖女への謝罪と願い』である、とな。……で? 貴様らは、どこの誰の使いだ?」
騎士団長の顔色が変わった。図星を突かれた男は、しかし引かなかった。引けば侯爵に切り捨てられるだけの走狗は、最悪の選択をした。
「……構わん! 女一人攫えば、それが既成事実となる! かかれぇ!!」
私兵たちが門に殺到し――そして、止まった。
門の内側から、人が現れたのだ。武装した騎士団ではない。鍬を持った農夫。杵を担いだ職人。竈の火掻き棒を握った女将。杖をついた老婆マーゴ。数百、数千。グレンヴァルトの領民が、老いも若きも、門の内側にずらりと立ち並んでいた。
「……な、なんだ、この者どもは」
先頭の老農夫ドムが、日に焼けた顔で言った。
「あんたらの聖女さまは知らねえがな。ここにいるのは、儂らの姫さんだ」
「水路を直してくれた姫さんだ」「うちの婆ちゃんの熱を下げてくれた姫さんだ」「子供らに字を教えてくれた先生だ」「儂らの家族だ!!」
「連れていきたきゃ、儂ら全員を踏み越えていきな!!」
二百の私兵が、気圧されて後ずさる。金で雇われた兵と、家族を守る民。武器の質では測れない何かが、そこには横たわっていた。
「や、やれ! 平民ごとき蹴散らして――」
騎士団長が剣を抜きかけた、その時だった。
――大地が、揺れた。
最初は地響き。次に、世界が軋むような重低音。全員が振り返った南の空――王都へと続く街道の彼方に、黒い柱が立ち昇っていた。
瘴気だ。目に見えるほど濃密な、瘴気の竜巻だった。
「な……んだ、あれは……」
黒柱の根元で、それは形を成しつつあった。神殿の査問の末に砕かれた香瓶――あの呪具が一年かけて吸い溜めた瘴気の澱が、封を失って地脈に溢れ出したのだ。思えば、春に魔の森を狂わせ大侵攻を引き起こしたのも、南から染み出したこの穢れだった。結界なき国土を這ったそれは、北へ北へ――大陸で唯一残った清浄な光、グレンヴァルトの大結界に引き寄せられ、そして街道の真上で臨界を迎えたのである。
山のような体躯。百の獣を練り合わせたような異形。空を覆う漆黒の翼。神話の時代に「災厄」と呼ばれた、天災級の魔物の誕生だった。
『――%'&)($#"$>?!!!』
災厄の咆哮だけで、私兵たちは武器を取り落とした。逃げ出す者、腰を抜かす者、泣き喚く者。あの騎士団長は真っ先に馬首を返し――そして震える領民の少女ミナが、逃げ遅れて街道に取り残された。
災厄の巨腕が、少女へ振り下ろされる。
誰もが目を覆った、その瞬間。
「――《聖盾》!!」
黄金の光壁が、少女の頭上で災厄の一撃を受け止めた。
銀の髪をなびかせ、セラフィーナが街道を駆けていた。その隣には、大剣を担いだヴォルフ。二人は一瞬だけ視線を交わし――言葉はいらなかった。
「ヴォルフ様、あの子を!」
「おう!!」
ヴォルフが疾風のように駆け、ミナを掻っ攫うように抱え上げて離脱する。災厄の追撃の爪を、返す刀の大剣が弾いた。だが所詮は人の剣。刃こぼれた大剣を見て、ヴォルフは舌打ちする。
「化け物め……! セラフィーナ、結界の内へ下がれ! こいつは俺が食い止め――」
「いいえ!!」
セラフィーナは、下がらなかった。前に出た。
「あれは魔物ではありません。瘴気の澱――穢れの塊です。剣では殺せない。ですが、浄化ならできます。……わたくしに、しかできません!」
「……っ、無茶をするなと言ったはずだ!」
「無茶ではありませんわ」
彼女は振り向いて、笑った。戦場に咲く花のように。
「だって――あなたが隣にいてくださるのでしょう?」
北の軍狼は、一瞬だけ目を見開き、それから獰猛に笑い返した。
「……ああ。死んでも隣にいてやる。存分にやれ、俺の聖女!!」
災厄が吼え、百の触腕が襲いかかる。ヴォルフが舞った。刃こぼれた大剣で触腕を薙ぎ、逸らし、引きつけ、聖女への道を一本たりとも通さない。
だが、多勢に無勢。死角から回り込んだ一本の触腕が、詠唱中のセラフィーナの背へ鞭のように迫り――それを止めたのは、意外な者たちだった。
「う、うおおおおおっ!!」
攫いに来たはずの私兵たちだった。逃げ遅れて震えていた彼らの何人かが、槍を構えて触腕の前に立ち塞がったのだ。弾き飛ばされながら、血を吐きながら、それでも槍を離さない。
「な、なんで、俺たちは、あんたを攫いに来たのに……! あんたは、なんで、俺たちごと守る結界を張ってるんだよぉ!!」
「――決まっています!」
光の奔流の中心で、聖女は叫び返した。
「そこに、人がいるからです!!」
その言葉に、男たちの喉から嗚咽が漏れた。門の内から、領民たちが声を限りに叫ぶ。姫さん! 姫さん! 姫さん! 壁上の騎士団が矢を放ち、バルトが包帯姿で采を振り、マーゴが最後の強壮薬を前線に投げ渡す。グレンヴァルトの全てが、一人の聖女とともに在った。
声援を背に受けて、セラフィーナは両手を天に掲げた。銀の聖印が輝く。血脈が歌う。三百年の祈りが、彼女の中で一つに束なる。
『我が祈りは盾、我が愛は光。集いし穢れよ、澱みし哀しみよ――』
黄金の光が、彼女の背に翼のように広がった。
『安らかに、還れ――《浄化・大聖光》!!』
天から、光の柱が落ちた。
災厄の絶叫は、しかし途中から、苦悶ではなく安堵の響きに変わった。漆黒の巨体が端から光の粒子に解けていく。長く行き場なく彷徨った穢れが、澱んだ哀しみが、暖かな光に抱き取られて、天へ、天へと還っていく。
最後の一片が朝焼けに溶けた時、街道には、そよ風だけが残っていた。
「…………」
沈黙を破ったのは、腰を抜かしたまま一部始終を見ていた、あの騎士団長の掠れ声だった。
「……ば、化け物退治を、素手で……あんなもの、王都に連れて帰れるか……」
剣を杖にして立ち上がったヴォルフが、ゆっくりと男の前に歩み寄った。返り血と土埃にまみれた軍狼の眼光に、騎士団長は蛙のように潰れた。
「ひ……っ、お、お待ちを! 我らはバルザック侯爵の命で、や、やむなく……!」
「命乞いなら俺にするな」
ヴォルフは顎で背後を示した。そこには、傷だらけで少女ミナを庇い、聖女に守られ、そして今、泣きながら跪いていく私兵たちの姿があった。
「あんたの部下は、最後に人間に戻った。あんたはどうだ。……裁きは王が下す。だが覚えておけ。この地で『聖女を攫う』と口にした人間が、どんな顔で帰っていったか――二度と、忘れるな」
騎士団長と私兵たちは武装を解除され、七日後に到着した正式な王命の使者に、まとめて引き渡された。バルザック侯爵一派の企ては白日の下に晒され、侯爵家は取り潰し。これが中央貴族の粛清の引き金となり、王国の膿は根こそぎ絞り出されることになる。
――そして、その正式な使者の中に。
やつれ果てた、金髪の元王太子の姿があった。




