第六章 剥がれる化けの皮
偽聖女の失墜から半月。王都は音を立てて崩れつつあった。
結界を失った近郊の村々は魔物に襲われ、難民が城壁の内に溢れた。折からの疫病は貧民街から貴族街へと燃え広がり、市場から薬が消えた。そして民衆の間には、一つの噂が疫病よりも速く広がっていた。
――大結界が消えたのは、セラフィーナ様が王都を出られたのと、同じ頃らしい。
――北のグレンヴァルトに、一夜で領地全土を覆う黄金の結界が張られたそうだ。
――張ったのは、銀の髪の聖女さま。名前を、セラフィーナ様というそうだ。
噂の真偽を確かめるべく、国王ギデオンは腹心の文官を密かに北へ走らせた。ひと月後、戻った文官は、玉座の前で床に額をつけたまま、震える声で報告した。
「……この目で、確かに見てまいりました。グレンヴァルト辺境領の全域が、黄金の光の膜に覆われております。古文書にある建国期の大結界と、寸分違わぬ様式にて。領内には魔物一匹おらず、疫病もなく、畑は青々と実り、市場は活気に満ち……そして領民は皆、口を揃えてこう申しました。『あれは、わしらの姫さまが張ってくださった結界だ』と」
「……その、姫の名は」
「セラフィーナ・エルヴァスティン様に、ございます」
長い、長い沈黙が玉座の間に落ちた。やがて国王は、荒れた辺境の詳細を綴った報告書を――王太子が「傲慢を悔いる流刑地」として選んだ土地が、いまや王国で唯一の楽土となっている皮肉の書を、握り潰した。歴戦の王の手が、怒りで白くなるまで。
「……余は。余の王家は、何を、捨てたのだ……」
「……宰相。そなたの娘は、建国の聖女の血筋であったのか」
「は。妻の家系は、代々それを口外せぬ家訓にございました。聖女の血は、政争の的になりますゆえ。……皮肉なものです。娘は何も知らぬまま王家に嫁ぐはずでした。何も知らぬまま、王都を守っておりました。そして――何も知らぬ愚か者どもに、追放されました」
エルヴァスティン公爵の声は静かだった。静かであるほどに、玉座の間の空気は凍った。
「陛下。臣は宰相として、此度の件の全容を調べ上げましてございます。発端となった『いじめ』の証言、その一つ一つを」
公爵が手を挙げると、扉が開き、証人たちが入廷した。階段の一件の日、セラフィーナと共に王妃の茶会にいた侯爵夫人。「切り裂かれた」はずのドレスをリリー自身から質入れされていた古着商。「汚された」教科書と同じものをリリーに二冊売った書店主。そして――決定打。
「モルデン男爵家の元家令にございます。……お嬢様は、お屋敷の蔵から『黒い香瓶』を持ち出されました。あれは先々代が『決して開けるな』と封じた、禁呪の品。焚けば人の心を操る、傾国の香と伝わっております」
神殿の老神官長が進み出て、震える声で締めくくった。
「陛下……観測の結果、王宮と神殿の地下に、尋常ならざる瘴気の澱が確認されました。あの香瓶は魅了の代償に瘴気を集める呪具。此度の疫病の毒気も、王都に魔物を引き寄せた穢れも……出所は、すべてあの香瓶かと」
つまり、こういうことだった。
王都を守っていたのは、追放した公爵令嬢。
王都を蝕んでいたのは、担ぎ上げた偽聖女。
国は、守り神を追い出して、疫病神を胸に抱いたのだ。
「……アルヴィスを。それと、モルデン男爵令嬢を、これへ」
国王の声は、地の底から響くようだった。
引き出された二人の姿は、対照的だった。
アルヴィスは憔悴しきっていた。香瓶が神殿に押収されて以来、彼の頭にかかっていた薔薇色の靄は日ごとに薄れ、靄が晴れた後に残ったのは、氷のように冷たい現実だけだった。自分は何をした? 三年間、隣で国を支えてくれた婚約者に、何をした?
一方のリリーは、この期に及んで涙を光らせていた。
「へ、陛下……わたし、騙されていたんです。香瓶がそんな恐ろしいものだなんて知らなくて……わたしはただ、殿下をお慕いして……か弱い平民の娘が、貴族の皆さまに逆らえるはずが……」
「黙れ」
国王の一喝が、大理石の柱を震わせた。
「そなたの手口は全て記録にある。香を焚く場所、焚く相手、全てを選んでいた。知らぬ者の所業ではない。……モルデン男爵令嬢リリー。国家転覆に等しき呪具の使用、聖女詐称、王族への魅了行為、並びに冤罪の構築。その罪、万死に値する」
「そ、そんな……嫌、嫌よ! アルヴィス様、助けて! わたしたち、愛し合っているでしょう!?」
リリーは縋りついた。だが、見上げた王太子の目に、もうあの熱はなかった。そこにあったのは怯えと、嫌悪と、そして哀れみだった。
「……愛? あれが、愛だったのか。……俺は、香の煙を愛と呼んで、本物を壇上で斬り捨てたのか……」
「勅命である!」
国王が立ち上がった。
「王太子アルヴィスを廃嫡。王位継承権を剥奪し、辺境騎士団付きの一兵卒として、生涯を民への奉仕に充てることを命ずる。モルデン男爵家は取り潰し。リリー・モルデンは全ての虚言を国民の前で自白した後、北の鉱山にて終身の労役に処す――」
「い、嫌ぁぁぁ!! わたしは聖女なの! 選ばれたのはわたしなのよ!! あの女が! あの女さえいなければぁぁ!!」
衛兵に引き摺られていく元・偽聖女の絶叫は、やがて扉の向こうに消えた。
断罪は、それで終わりではなかった。国王の粛清の刃は、事件に連なる者すべてに及んだ。
壇上の断罪劇でリリーに同調し、偽の証言を重ねた取り巻きの令息たちは、全員が家督相続権を剥奪され、それぞれ国境警備や開拓地への奉職を命じられた。近衛騎士グレアムは自ら騎士剣を返上し、父の前で頭を丸めた。学院でセラフィーナに有利な証言を握り潰していた教師は、リリーから「進物」を受け取っていたことが発覚し、教職を永久に追われた。リリーの香に籠絡され、彼女を「聖女の再来」と認定した神殿の若手神官団は解任され、神殿は老神官長の下で三十年ぶりの大浄化を行うことになった。
王妃は、すべての沙汰が下った後、人払いをした礼拝堂で長いこと祈っていたという。セラフィーナを実の娘のように可愛がり、それでも息子の暴走を止めきれなかった彼女は、北へ向かう最初の謝罪の文に、こう記した。
『あなたに王冠を約束しながら、あなた一人を壇上に立たせた。わたくしたちの罪は、それに尽きます』
三日後、リリーの涙の自白は市中に布告され、王都の民は初めて知った。自分たちが石もて追った銀髪の令嬢が、三百年、無償で自分たちを守り続けていた本物だったことを。
大神殿の前には、誰が置いたか、山のような花が積まれた。花に添えられた木札には、拙い字でこう書かれていた。
『聖女さま ごめんなさい』
「……して、宰相。聖女……セラフィーナ嬢に、王都へ戻っていただく他あるまい。結界なくして、この都は冬を越せぬ」
「は。……ですが陛下、一つだけ」
公爵は顔を上げた。宰相の顔ではなく、父親の顔で。
「娘には、選ぶ権利がございます。此度こそ、誰にもそれを奪わせませぬ。……たとえ相手が、王家であろうとも」
国王は長く目を閉じ、そして深く頷いた。
「――無論だ。使者には、最大限の礼を尽くさせる」
だが。
王の意に反して、最初に北へ向かったのは、礼を尽くした使者ではなかった。
結界の喪失で領地を失いかけていた中央貴族の一派――かねて宰相の失脚を望み、「聖女を王都の管理下に置くべし」と唱える強硬派が、王命の使者に先んじて、私兵二百を「護衛」と称して北へ放ったのである。
彼らの主張はこうだ。
「聖女は国家の財産である。一辺境が独占することは許されぬ。――丁重に、お連れせよ。手段は、問わぬ」




