表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冤罪で婚約破棄された公爵令嬢、辺境で本物の聖女に目覚める〜王都の結界、私が張っていたのですけれど?〜  作者: ハル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/10

幕間 靄の晴れる朝

 浄化の儀式の失敗から数日後。王宮の自室で、アルヴィスは原因不明の頭痛に苛まれていた。


 神殿の査問によって、リリーの香瓶は押収された。「調査のため」と告げられた時、なぜか胸を掻き毟りたいような焦燥に襲われたのを覚えている。あの甘い香りが傍にないだけで、世界の色が褪せて見えた。三日目には手が震えた。五日目には夜も眠れなかった。


 そして七日目の朝――ふ、と。


 窓から差し込む光が、やけに白々と部屋を照らしていた。頭にかかっていた薔薇色の靄が、一枚、また一枚と剥がれていく。まるで長い熱病から醒めたように、アルヴィスは自分の執務机を見た。


 書類が、山になっていた。


 嘆願書。収支報告。外交文書の写し。この一年、「リリーと過ごす時間」を優先して積み上げ続けた、王太子としての職務の残骸が。


「……これを、今まで、誰が……」


 震える手で綴りをめくる。処理済みの書類の余白に、見覚えのある几帳面な文字が並んでいた。『こちらは財務卿へ回付済みです』『雪害の村への支援は先例に倣い手配しました』『殿下、こちらだけはご自身の署名が必要です』――セラフィーナの字だった。婚約破棄のその日まで、彼女は黙って、王太子の政務を陰で支え続けていたのだ。


「……っ、ぐ……」


 吐き気がした。靄の晴れた頭に、記憶が鮮明に蘇る。壇上で指を突きつけた自分。「証拠など要らぬ」と言い放った自分。それを見上げる、菫色の瞳。あの瞳は、怒ってすらいなかった。ただ静かに、憐れむように、自分を見ていた。


 ――三年間、お世話になりました。殿下のご治世が、実り多きものになりますよう。


「う、あ……ああああ……!!」


 アルヴィスは執務室の床に膝をつき、獣のように呻いた。誰のせいにもできなかった。香のせいだと言い訳することは、できた。だが、香が囁いたのは「リリーが愛しい」だけだ。「セラフィーナを疑え」「証拠を見るな」――そう決めたのは、他ならぬ自分の傲慢だった。


 扉の外では、老侍従が黙って控えていた。彼は幼い王子の頃から仕えてきた主の慟哭を聞きながら、静かに目を閉じた。


(お目覚めになりましたか、殿下。……ですが、遅すぎましたな。何もかも)


 その日の夜、アルヴィスは自ら国王の書斎の扉を叩いた。憔悴した息子が絨毯に額をつけるのを、国王は黙って見下ろした。


「……父上。すべて、思い出しました。いえ――思い出したのではない。ずっと、見ないふりをしていたものを、見ました。裁いてください。廃嫡でも、幽閉でも」


「裁くとも。だが、その前に一つだけ聞く」


 国王の声は、王のものではなく、父のものだった。


「香に酔うていたお前が、酔いながらもただ一度、己の意思で選べた瞬間があったはずだ。壇上でセラフィーナ嬢が『証拠がない』と言った、あの瞬間だ。あの時、調べ直すと一言いえば、すべては止まった。……なぜ、言わなかった」


 アルヴィスは長く沈黙し、絞り出した。


「……怖かったのです。自分の間違いを、認めるのが。婚約者より、取り巻きの喝采と、都合のいい『物語』の方が……心地よかった」


「それが答えだ。香は心を曇らせる。だが、曇った心の底にあったものは、お前自身のものだ」


 国王は静かに立ち上がり、窓の外――結界を失った、暗い王都を見た。


「王とは、耳に痛い言葉を聞くための椅子だ。お前はその器ではなかった。……余も、お前をその器に育てられなかった。裁きは、二人ぶんだ」


 同じ頃、神殿の一室に軟禁されたリリーは、鏡に向かって百度目の練習をしていた。


「わたし、騙されていたんです……ぐすっ……こう? ちがう、もっと顎を引いて……わたし、騙されて、いたんです……」


 完璧な涙。完璧な震え声。今までこれで、すべてを乗り切ってきた。父の借金取りも、学院の教師も、王太子も。


 でも――近頃、おかしい。査問に来る神官たちの目が、氷のように冷たい。涙を見せても、誰も駆け寄ってこない。香瓶さえあれば。あれさえあれば、あんな石頭たち、いくらでも蕩かせるのに。


「返してよ……わたしの香瓶……あれがないと、わたし……」


 鏡の中から、化粧の剥げた素顔の女が、こちらを見ていた。リリーはひっと息を呑み、目を逸らした。


 魅了が解けて素に戻った人々が、いま王都のあちこちで、彼女との記憶を一つずつ検分し直していることを――査問の網が、静かに首元へ絞られつつあることを、彼女だけが、まだ認められずにいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ