幕間 靄の晴れる朝
浄化の儀式の失敗から数日後。王宮の自室で、アルヴィスは原因不明の頭痛に苛まれていた。
神殿の査問によって、リリーの香瓶は押収された。「調査のため」と告げられた時、なぜか胸を掻き毟りたいような焦燥に襲われたのを覚えている。あの甘い香りが傍にないだけで、世界の色が褪せて見えた。三日目には手が震えた。五日目には夜も眠れなかった。
そして七日目の朝――ふ、と。
窓から差し込む光が、やけに白々と部屋を照らしていた。頭にかかっていた薔薇色の靄が、一枚、また一枚と剥がれていく。まるで長い熱病から醒めたように、アルヴィスは自分の執務机を見た。
書類が、山になっていた。
嘆願書。収支報告。外交文書の写し。この一年、「リリーと過ごす時間」を優先して積み上げ続けた、王太子としての職務の残骸が。
「……これを、今まで、誰が……」
震える手で綴りをめくる。処理済みの書類の余白に、見覚えのある几帳面な文字が並んでいた。『こちらは財務卿へ回付済みです』『雪害の村への支援は先例に倣い手配しました』『殿下、こちらだけはご自身の署名が必要です』――セラフィーナの字だった。婚約破棄のその日まで、彼女は黙って、王太子の政務を陰で支え続けていたのだ。
「……っ、ぐ……」
吐き気がした。靄の晴れた頭に、記憶が鮮明に蘇る。壇上で指を突きつけた自分。「証拠など要らぬ」と言い放った自分。それを見上げる、菫色の瞳。あの瞳は、怒ってすらいなかった。ただ静かに、憐れむように、自分を見ていた。
――三年間、お世話になりました。殿下のご治世が、実り多きものになりますよう。
「う、あ……ああああ……!!」
アルヴィスは執務室の床に膝をつき、獣のように呻いた。誰のせいにもできなかった。香のせいだと言い訳することは、できた。だが、香が囁いたのは「リリーが愛しい」だけだ。「セラフィーナを疑え」「証拠を見るな」――そう決めたのは、他ならぬ自分の傲慢だった。
扉の外では、老侍従が黙って控えていた。彼は幼い王子の頃から仕えてきた主の慟哭を聞きながら、静かに目を閉じた。
(お目覚めになりましたか、殿下。……ですが、遅すぎましたな。何もかも)
その日の夜、アルヴィスは自ら国王の書斎の扉を叩いた。憔悴した息子が絨毯に額をつけるのを、国王は黙って見下ろした。
「……父上。すべて、思い出しました。いえ――思い出したのではない。ずっと、見ないふりをしていたものを、見ました。裁いてください。廃嫡でも、幽閉でも」
「裁くとも。だが、その前に一つだけ聞く」
国王の声は、王のものではなく、父のものだった。
「香に酔うていたお前が、酔いながらもただ一度、己の意思で選べた瞬間があったはずだ。壇上でセラフィーナ嬢が『証拠がない』と言った、あの瞬間だ。あの時、調べ直すと一言いえば、すべては止まった。……なぜ、言わなかった」
アルヴィスは長く沈黙し、絞り出した。
「……怖かったのです。自分の間違いを、認めるのが。婚約者より、取り巻きの喝采と、都合のいい『物語』の方が……心地よかった」
「それが答えだ。香は心を曇らせる。だが、曇った心の底にあったものは、お前自身のものだ」
国王は静かに立ち上がり、窓の外――結界を失った、暗い王都を見た。
「王とは、耳に痛い言葉を聞くための椅子だ。お前はその器ではなかった。……余も、お前をその器に育てられなかった。裁きは、二人ぶんだ」
同じ頃、神殿の一室に軟禁されたリリーは、鏡に向かって百度目の練習をしていた。
「わたし、騙されていたんです……ぐすっ……こう? ちがう、もっと顎を引いて……わたし、騙されて、いたんです……」
完璧な涙。完璧な震え声。今までこれで、すべてを乗り切ってきた。父の借金取りも、学院の教師も、王太子も。
でも――近頃、おかしい。査問に来る神官たちの目が、氷のように冷たい。涙を見せても、誰も駆け寄ってこない。香瓶さえあれば。あれさえあれば、あんな石頭たち、いくらでも蕩かせるのに。
「返してよ……わたしの香瓶……あれがないと、わたし……」
鏡の中から、化粧の剥げた素顔の女が、こちらを見ていた。リリーはひっと息を呑み、目を逸らした。
魅了が解けて素に戻った人々が、いま王都のあちこちで、彼女との記憶を一つずつ検分し直していることを――査問の網が、静かに首元へ絞られつつあることを、彼女だけが、まだ認められずにいた。




