第五章 覚醒の夜
王都の混乱を、グレンヴァルトはまだ知らない。
春が来ていた。石灰を混ぜた畑には青々と麦が伸び、用水路は雪解け水を湛え、市場には一年前の倍の人が行き交っている。セラフィーナが来てから、グレンヴァルトの何もかもが変わり始めていた。
「姫さん、見てくれ! 麦の穂が、俺の親父の代でも見たことねえくらい重い!」
「ふふ、秋の収穫祭は盛大にしなくてはね」
夕暮れの麦畑を、セラフィーナはヴォルフと並んで歩いていた。月例の視察――ということに、二人の間ではなっている。青い穂波が風にうねり、遠くで子供たちの笑い声が跳ねる。
「一年前、ここは灰色のひび割れた土だった」
ヴォルフが、ぽつりと言った。
「俺は十年、剣でこの地を守ってきた。だが、守るだけだった。減っていく民を、痩せていく畑を、ただ減る速さを緩めることしかできなかった。……あんたは一年で、この地を『増える』土地に変えた」
「わたくし一人の力ではありませんわ。水路を掘ったのは工兵の皆さん、畑を耕したのはドムたち、薬を作ったのはマーゴさん。わたくしはただ、知っていることをお話ししただけ」
「……あんたのそういうところが」
「え?」
「……何でもない」
ヴォルフは足元の石を蹴った。セラフィーナはしばらく彼の横顔を眺め、それから、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ねえ、閣下。王都では、殿方は褒め言葉を最後まで仰るものですのよ?」
「王都の話はするな。……ここは、辺境だ」
「あら。では辺境の流儀を教えてくださいまし」
「……うるさい」
耳まで赤くした軍狼の隣で、聖女になる前の、ただのセラフィーナは、鈴を転がすように笑った。麦の匂いのする風が、二人の間を吹き抜けていった。
そんな、ある夜のことだった。
――魔の森が、吼えた。
地鳴りのような咆哮に、領都の犬が一斉に吠え、鳥が黒い雲のように飛び立った。物見塔の鐘が乱打される。駆け上がったヴォルフは、西の地平を見て息を呑んだ。
森の際から、影が溢れ出していた。牙猪、屍狼、大鬼、翼持つ影――数百、いや千を超える魔物の大群が、津波のように領都へ押し寄せてくる。
「大侵攻……! 十年前の比じゃない、なぜ急に……!」
理由は分からない。だが猶予もない。ヴォルフは全騎士団に出撃を命じ、領民を砦へ避難させた。
「バルト! 女子供を最奥へ! 戦える者は壁上へ! 油と火矢を惜しむな!!」
戦いは、絶望的だった。騎士団は精強だったが、いかんせん数が違いすぎる。第一防壁が破られ、第二防壁に亀裂が走り、火矢の備蓄が尽きた。ヴォルフは自ら剣を執り、門前で魔物を斬り続けた。一体斬る間に三体が壁に取り付く。夜明けはまだ遠い。
砦の奥の避難所では、セラフィーナが薬箱を抱えて駆け回っていた。運び込まれる負傷兵の傷を洗い、マーゴと手分けして薬を塗り、震える子供たちに毛布を配る。壁の外から響く咆哮に、避難所の空気は今にも千切れそうだった。
「ひめさま……みんな、死んじゃうの……?」
裾を掴んだのは、いつも一番前で読み書きを習う少女、ミナだった。セラフィーナは膝を折り、小さな手を両手で包んだ。
「死なせません。閣下と騎士団が戦ってくださっています。それに――わたくしも、いますから」
言いながら、胸の奥が軋んだ。わたくしに、何ができる? 薬を塗ること。毛布を配ること。それだけ? 水路を引いても、麦を育てても、この牙の海の前では、何の意味もないというの?
その時、担架で運び込まれたのは、血まみれのバルトだった。老騎士は肩口を深く裂かれながら、それでもセラフィーナに笑ってみせた。
「なに、姫様……かすり傷ですわい。それより、閣下が……もう二刻も、門前でお一人で……あの御方は、昔からそうだ。全部、お一人で背負っちまう……」
どん、と。ひときわ大きな衝撃が砦を揺らし、天井から埃が落ちた。子供の悲鳴。誰かの祈り。遠く、確かに聞こえる、あの人の剣の音。
――気づけば、セラフィーナは走り出していた。
「閣下! 東壁が破られます!!」
「……っ、俺が行く!!」
その時だった。砦の奥にいるはずのセラフィーナが、避難民を掻き分けて壁上に駆け上がってきたのは。
「セラフィーナ!? 戻れ、ここは戦場だ!!」
「嫌です!!」
彼女は叫び返した。生まれて初めての、令嬢らしからぬ大声だった。
眼下には、火の海と魔物の群れ。壁の内には、身を寄せ合って震える領民たち。水路を直した皆が。麦の話をした皆が。読み書きを覚えたばかりの子供たちが。血を流して戦うヴォルフが。
――ここは、わたくしの家なのに。
――この人たちは、わたくしの家族なのに。
――誰か。誰か、力を。この地の人々を、守る力を……!!
「……守り、たい……この地の、すべてを――!!」
祈りが、臨界を超えた。
胸元の銀の聖印――母の形見が、太陽のように輝いた。セラフィーナの銀の髪が光の粒子を纏って浮き上がり、菫色の瞳が黄金に燃える。彼女自身の内から、三百年分の血脈が呼び覚まされる。建国の聖女アウレリアから連綿と受け継がれた、本物の――聖女の力が。
『――我が祈りは盾、我が愛は光』
それは教わった聖句ではなかった。血が、魂が、知っていた言葉だった。
『この地に在る すべての息吹よ 安らかなれ――《大聖結界》!!』
光が、爆ぜた。
セラフィーナを中心に、暖かな黄金の光が波紋のように広がっていく。壁を越え、畑を越え、村々を越え、グレンヴァルト辺境領の全土を――地平の果てまでを、光のドームが包み込んだ。
結界に触れた魔物たちは、燃えるでもなく斬られるでもなく、ただ穢れだけを浄化されて、森の獣に還り、あるいは光の粒となって解けていった。千を超えた大群が、潮が引くように消えていく。
静寂。そして、夜明けの最初の光が差した。
「…………勝った、のか?」
誰かが呟いた。壁上の兵が、砦の民が、一人、また一人と空を見上げる。黄金の光の膜が、朝焼けを透かして、オーロラのように優しく揺れていた。
「聖女さまだ……」「本物の……本物の聖女さまだ!!」「グレンヴァルトに聖女さまが降りなすった!!」
歓声が、大地を揺らした。
当のセラフィーナは、力を使い果たしてふらりと傾いだ。硬い地面の代わりに彼女を受け止めたのは、血と煤にまみれた、けれど誰より確かな腕だった。
「……無茶をする」
「ヴォルフ、さま……皆は……」
「全員無事だ。あんたが守った。……全部、あんたが」
朝日の中、ヴォルフは腕の中の少女を見下ろした。ドレスは泥だらけで、髪は乱れ、顔は煤けている。王都の夜会で宝石を纏っていた頃の百倍――いや、比べることすら愚かしいほど、その姿は美しかった。
「……礼を言う。俺の民を、俺の故郷を守ってくれて」
「ふふ……わたくしの、故郷でも、ありますもの……」
そう言って微笑んだまま、セラフィーナは三日三晩、眠り続けた。
目覚めた時、枕元には野の花が山と積まれ、椅子の上では不眠不休で看病していた辺境伯が、器用に腕を組んだまま眠っていた。
「……ふふ。まったく、どちらが病人か分かりませんわね」
小さく笑った声で、金の瞳がぱちりと開いた。ヴォルフは椅子を蹴倒す勢いで身を乗り出し、それから、らしくもなく言葉に詰まった。
「……起きたか」
「はい。三日も眠っていたと、夢うつつに聞こえましたけれど……まあ。閣下、その髭。三日どころか、五日は剃っていらっしゃらないでしょう」
「誰のせいだと思っている」
憎まれ口の途中で、扉が勢いよく開いた。ミナが、マーゴが、ドムが、バルトが、廊下に詰めかけていた領民たちが、雪崩を打って部屋に転がり込んでくる。ひめさま! 姫さん! 聖女さま! もみくちゃにされながら、セラフィーナは笑って、泣いて、また笑った。
その晩、砦の食堂では快気祝いの宴が開かれた。どんぐりパンと芋粥の、世界一豪華な宴だった。
――ただ一つ。宴の輪の中で、セラフィーナだけが、ふと南の空へ目をやった。
覚醒した聖女の感覚が、囁いていた。南の地平の向こう――王都のある方角に、どす黒い澱のようなものが、渦を巻きはじめている。
(……何かしら。とても、嫌な気配。まるで、行き場をなくした哀しみが、煮詰まっていくような……)
「どうした」
「……いいえ。何でもありませんわ」
彼女は首を振った。その予感が的中するのは、もう少し先のことである。




