第四章 崩れゆく王都
時を少し戻す。セラフィーナが王都を発って、ちょうどひと月が過ぎた頃のことだ。
王都の郊外、巡回中の警備隊が奇妙なものを発見した。街道脇に転がる、小鬼の死骸である。
「馬鹿な……魔物だと? 王都周辺は建国以来三百年、大結界に守られて魔物など一匹も入れなかったはずだ」
最初は誰もが見間違いだと笑った。だが翌週には狼型の魔物が農村を襲い、その翌週には飛竜の幼体が城壁の上を旋回した。神殿の老神官長が震える手で観測水晶をかざし、そして絶句した。
「……ない。結界が……大結界が、消えておる……!」
王宮は蜂の巣をつついた騒ぎになった。だが渦中の王太子アルヴィスは、玉座の間で堂々と胸を張った。
「案ずることはない! 我が国には真の聖女、リリーがいる! 彼女の清らかな祈りが、必ずや結界を蘇らせるであろう!」
そう――リリー・モルデンは婚約破棄の直後、「祈りの際に淡い光を放った」という神殿の一部の証言を根拠に、「聖女の再来」として神殿に迎えられていたのである。国中の期待を一身に受け、リリーは大神殿での「浄化の大儀式」に臨むことになった。
「……ねえ、本当にやるの? あれ」
儀式の前夜、神殿の私室でリリーは苛立たしげに爪を噛んでいた。鏡台の上には、拳ほどの大きさの黒い香瓶が鈍く光っている。
――『傾国の香瓶』。没落寸前の男爵家の蔵で彼女が見つけた、古の禁呪の魔導具。焚けば人の心を蕩かし、使い手への妄執を植え付ける魅了の香。王太子も、取り巻きの貴族令息も、神殿の若い神官たちも、みんなこれで籠絡してきた。
祈りの光? あんなもの、香瓶の燐光をそれらしく見せただけ。自分に聖女の力なんて、あるはずがない。
「でも……もう、引けないのよね」
リリーは鏡の中の自分に向かって、にっこりと「聖女の微笑み」を作ってみせた。大丈夫。儀式が失敗したって、泣いて「わたしの力が足りないばかりに」と項垂れれば、アルヴィスも民衆も許してくれる。今までだって、ずっとそうだった。涙は、どんな証拠よりも強いのだから。
彼女は知らなかった。傾国の香瓶が人の心を蕩かす代償として、周囲の瘴気――魔を呼ぶ穢れを、少しずつ、少しずつ、吸い集める性質を持つことを。彼女が王宮と神殿で香を焚き続けたこの一年、王都の地下には、目に見えない瘴気の澱が、湖のように溜まり続けていたことを。
浄化の大儀式の日、大神殿前の広場は数万の民で埋め尽くされた。
純白の聖女衣を纏ったリリーが祭壇に立ち、聖句を――神官に丸暗記させられた聖句を、たどたどしく唱える。民衆が固唾を呑んで見守る中、祭壇の聖水晶は――ぴくりとも、光らなかった。
「ど、どうして……あ、あの、もう一回……」
二度目。無反応。三度目。無反応。ざわめきが広場に広がっていく。焦ったリリーは、袖に忍ばせた香瓶の栓を、こっそりと緩めた。いつもの燐光でごまかすつもりだった。
それが、致命的な失敗だった。
聖水晶は瘴気に反応する。三百年間、清浄の象徴だった大水晶は、香瓶から漏れ出た濃密な瘴気に触れた瞬間――どす黒い紫に変色し、亀裂を走らせ、耳をつんざく不協和音とともに砕け散った。
「せ、聖水晶が砕けたぞ!!」「穢れだ! あの女から穢れが出ている!」「観測水晶を持て! ……真っ黒だ! 聖女どころか、あの女自身が瘴気の塊だ!!」
神官たちの悲鳴。民衆の絶叫。リリーは真っ白になって立ち尽くし、それから、いつものように大粒の涙を浮かべた。
「ち、ちがうの……わたし、わたしはただ、みんなを守りたくて……っ」
――だが。
三百年の加護を失い、魔物の影に怯え、疫病の流行り始めた王都の民に、その涙はもう届かなかった。飢えと恐怖の前で、砂糖菓子の声は何の力も持たなかった。
「引っ込め、偽聖女!!」
誰かが投げた泥が、純白の聖女衣を汚した。リリーは初めて知った。涙が通じない世界が、この世にあるということを。




