幕間 王都は、まだ知らない
セラフィーナの追放から、ひと月あまり。王都の社交界は、早くもじわじわと奇妙な機能不全に陥り始めていた。
「おかしいわね……秋の慈善バザーの支度、どうしてこんなに滞っているの?」
「例年はどなたが仕切って……あ」
貴族夫人たちは顔を見合わせた。招待状の采配も、教会への寄進の割り振りも、揉めがちな席次の調整も、思い返せばすべて、あの銀髪の公爵令嬢が一手に引き受けていたのだ。孤児院への寄付は滞り、施療院の薬代の帳尻は合わず、夜会では席次を巡って伯爵家同士が絶縁騒ぎを起こした。
「リリー様にお願いすれば……」
「あの方、先日の茶会で招待状の書き方をご存じなかったのよ。それに帳簿をお見せしたら『数字は苦手で』と笑っていらして……」
学院でも、綻びは広がっていた。かつてリリーの「証言」に頷いた取り巻きの令息たちは、卒業後、それぞれの家で冷たい風に晒され始めていた。
「グレアム。お前、壇上で王太子殿下に同調したそうだな」
近衛騎士団副団長の父に問われ、グレアムは胸を張った。
「はい、父上。か弱き男爵令嬢を守るのは騎士の務め――」
「馬鹿者ッ!!」
執務机が拳で軋んだ。
「証拠は見たのか。裏は取ったのか。騎士の務めは『事実の前に立つ』ことだ、可愛い顔の前に立つことではないわ! ……いいか、エルヴァスティン公はこの国の宰相だぞ。あの御方が沈黙している時が、一番恐ろしいのだ」
その恐ろしい沈黙の主は、その頃、公爵邸の書斎で一人、燭台の火を見つめていた。机の上には報告書の山。学院の教師が「何者かに証言を差し止められた」記録。リリーの生家の借財が、婚約破棄の直前に何者かの手で完済された記録。そして、モルデン男爵家の蔵から「黒い香瓶」が持ち出されたという、元家令の証言。
「……まだだ。まだ足りない」
娘の無実を叫ぶだけなら、明日にでもできる。だが、それでは足りないのだ。二度と誰にも、娘を「物語」で裁かせないために。積み上げるのだ、石のように動かぬ事実を、一つ、また一つ。
「待っていなさい、セラフィーナ。……父は、急がぬ。だが決して、忘れぬ」
燭台の火が、揺れた。
――その夜が、王都の大結界が完全に消滅した夜だったことを、まだ誰も知らない。
最初の犠牲は、城壁の外の村だった。
小鬼の群れに畑を荒らされ、次いで屍狼に家畜をやられた。領軍が駆けつけた時には、村人は皆、教会に立て籠もって震えていた。生まれてこの方、絵物語でしか魔物を見たことのない王都近郊の民にとって、それは天変地異に等しかった。
「なぜだ! 結界はどうした!」「神殿は何をしている!」「聖女様は――そうだ、リリー様がいらっしゃる!」
被害は、じわじわと都市の芯を蝕んでいった。近郊の畑が魔物に荒らされると、まず麦の値が上がった。街道が危険になると、荷が届かなくなり、塩と油の値が上がった。パン屋のかみさんは行列の客に頭を下げ続け、下町の施療院には、原因の分からぬ熱病の患者が並び始めた。奇妙に肺を灼く、灰色の痰の絡む熱病――後に「王都熱」と呼ばれる疫病の、それが始まりだった。
「なあ、知ってるか。北のグレンヴァルトじゃ、去年の冬、流行り病の死人が一人きりだったらしいぜ」
「嘘つけ、あんな流刑地で」
「それがよ、王都から流された公爵令嬢サマが、井戸の水を煮させて、薬草を蓄えさせたんだと。行商のジェムの奴が言ってた。……なあ、その令嬢サマってのは、ほんとに『悪役』だったのかねえ」
酒場の隅のそんな囁きは、まだ小さかった。だが、確かに芽吹いていた。
一方、民の縋る先は、神殿が「聖女の再来」と喧伝した蜂蜜色の少女しかなかった。神殿への寄進が積み上がり、リリーの纏う衣は日ごとに豪奢になった。彼女は毎日、バルコニーから民に手を振った。手を振るだけで、金と称賛が降ってくる。安全な場所で微笑むだけで、誰もが自分を崇める。
(ふふ……あの女がいなくなったら、世界はぜんぶ、わたしのものになった)
リリーは知らなかった。称賛とは、期待の前払いであることを。
そして期待とは――裏切られた瞬間、同じ重さの憎悪に変わるものだということを。




