第三章 泥にまみれる公爵令嬢
グレンヴァルトの民が「王都から流されてきた罪人の姫様」に抱いていた警戒心は、ひと月と保たなかった。
なにしろその姫様は、朝は誰よりも早く起きて用水路の工事現場に現れ、絵図面を片手に工兵と対等に議論し、昼は泥だらけになって畑で石灰の混ぜ方を実演し、夕方には子供たちを集めて読み書きを教え、夜は執務室で帳簿を付けているのである。
「姫さん! 東の水路、水が通ったぞ!!」
その報せが領都に届いた日、乾いた大地を二十年ぶりに水が走った。ひび割れた水路を銀色の流れが満たしていくのを、領民たちは涙を流して見つめた。老農夫のドムが、節くれだった手でセラフィーナの手を握る。
「姫さん、あんた、王都で何やらかしたか知らねえが……儂らにとっちゃ、あんたは女神さまだ」
「あら、駄目よドム。わたくしは罪人ですもの。……それより、水が来たからには種蒔きですわ。石灰を混ぜた畑と混ぜていない畑、両方で試しますからね。記録は正確に!」
「へいへい、女神さまは働き者だ」
笑い声が畑に満ちる。その光景を、ヴォルフは砦の窓からじっと見下ろしていた。
「……信じられんな」
傍らに立つ副官の老騎士バルトが、髭の奥で笑う。
「民の顔が変わりましたな。飢えて俯くだけだった連中が、明日の話をするようになった。……閣下、あの方は本物ですぞ。知識というものが、剣と同じくらい領地を守ると、儂は初めて知り申した」
「……ああ」
ヴォルフの金の瞳は、畑の真ん中で泥だらけのまま笑う銀髪の少女を追っていた。王都の連中は、あれを「傲慢な悪役令嬢」と呼んで捨てたという。
(――王都の連中は、全員、目が腐っているのか?)
水路の次にセラフィーナが目をつけたのは、交易だった。
月に一度、南の街道を上ってくる行商人のジェムは、その日、生涯忘れられない商談をすることになる。いつものように二束三文で毛皮を買い叩き、塩を法外な値で売りつけようとした彼の前に、銀髪の娘がにこやかに座ったのだ。
「ようこそ、ジェムさん。まず塩ですけれど、南のポルタ港の相場は今、一袋あたり銀貨二枚です。輸送費と危険手当を乗せても、四枚が誠実な値段。六枚というのは、少々夢を見すぎではなくて?」
「な……あんた、なんで内陸の小娘がポルタの相場を……」
「それから毛皮。あなたが銅貨十枚で買い叩いている冬狼の毛皮、王都の毛皮商ギルドでは一枚金貨一枚で競られていますわね。わたくし、先月までギルド長と同じ夜会に出ておりましたの。……ですが、ご安心を。今日は喧嘩をしに来たのではありません。あなたに、儲け話を持ってきましたのよ」
セラフィーナが卓上に並べたのは、白い粉の袋と、小さな薬包の山だった。
「精製した石灰と、マーゴさん監修の風邪薬、それから灰汁抜きしたガロ芋の保存食。どれもこの領でしか作れません。あなたに独占的な販売権を差し上げます。対価は、適正価格での塩と鉄、そして――王都と中央の『情報』ですわ」
「じょ、情報?」
「ええ。商人の耳は、どんな密偵よりも早いもの。……悪いお話ではないでしょう?」
ジェムはごくりと喉を鳴らし、それから商人の顔になって手を差し出した。この日結ばれた専属契約が、のちに「北方交易網」と呼ばれる大動脈の最初の一本になる。帰り際、ジェムはヴォルフにこっそり耳打ちした。
「閣下……ありゃあ、何者です? 俺ぁ二十年商売してますが、あんなおっかなくて、あんな気持ちのいい商談は初めてだ」
「……うちの、軍師だ」
ヴォルフがそう答えると、ジェムはなぜかにやにやして帰っていった。
夕方の読み書き教室は、砦の物置を片付けた一間から始まった。
最初に来たのは、たった三人。その一人が、戦で親を亡くし、教会の軒先で育った少女ミナだった。ぼろの服の袖で洟を拭いながら、少女は上目遣いに聞いた。
「……字ぃ覚えたら、なんかいいことあんの?」
「ありますとも。字が読めれば、薬の名前が分かります。契約書に嘘があれば見抜けます。遠くの人に想いを伝えられます。それから――」
セラフィーナは石板に、ゆっくりと三文字を書いた。
「自分の名前を、自分で書けます。ほら。これが『ミナ』。あなたが、確かにこの世界にいるという印」
少女は石板を穴があくほど見つめ、それから宝物のように胸に抱えて帰った。翌日、教室に来た子供は八人になっていた。その翌週には十五人。冬が来る頃には、仕事終わりの大人までが、気恥ずかしそうに後ろの席に座るようになった。
ある晩、ミナが石板いっぱいに書いた文字を、セラフィーナに突きつけた。ひらがなばかりの、不揃いな文字列。
『ひめさま だいすき ミナ』
「……っ」
「ひめさま、なんで泣くの!? まちがってた!?」
「いいえ……いいえ。満点、大満点ですわ……!」
王妃教育で百枚の礼状を書いても得られなかったものが、その石板一枚の中に、確かにあった。
変化は食卓にも訪れた。ガロの芋は灰汁抜きの手順が確立されると瞬く間に主食の座に収まり、セラフィーナが持ち込んだ薬草の知識は、領内に一人しかいない薬師の老婆マーゴを狂喜させた。
「嬢ちゃん、あんた、ヒースの根が熱冷ましになるって、どこで覚えた」
「王都の書庫の、誰も読まない古文書ですわ。……マーゴさん、それより気になっていることが。この領、冬に流行り病が出るのでしょう?」
「ああ。『灰かぶり熱』だ。毎年、冬に年寄りと子供が何人も持っていかれる」
「症状を詳しく教えてくださいませ。予防できるかもしれません」
二人は井戸と水瓶の煮沸、病人の隔離部屋、薬草の備蓄計画を冬までに作り上げた。後にこの備えが何百人の命を救うことになるか、この時はまだ誰も知らない。
初雪の降りた夜だった。
魔の森の外縁を巡回していた騎士団が、魔物の群れ――牙猪の暴走に遭遇した。報せを受けたヴォルフは即座に出撃し、夜明けまでに群れを殲滅したが、自身も脇腹に深手を負って帰還した。
「閣下!? どうして直接おっしゃらないの、血が――マーゴさんを! お湯と清潔な布も!」
「騒ぐな……かすり傷だ」
「肋骨まで見えている傷のどこがかすり傷ですか!!」
セラフィーナは袖をまくり、自ら傷口を洗い、マーゴの調合した薬を塗り、震える指で針を持って傷を縫った。公爵令嬢が血に顔色一つ変えず――いや、本当は真っ青になりながら、それでも手を止めずに。
「……あんた、なんで泣いてるんだ」
「泣いてなど、おりません……っ。ただ……この地の人たちは、あなたがこうやって血を流して守ってきたのだと、思ったら……」
ぽたり、と落ちた涙が、ヴォルフの傷口に触れた。
その瞬間、淡い光が――本当に淡い、月光の欠片のような光が、傷の上でほのかに瞬いて、消えた。傷の痛みが、嘘のように和らぐ。
(……今のは、何だ?)
ヴォルフは目を細めたが、疲労の限界だった意識は、そのまま眠りに落ちた。生涯で一番、穏やかな眠りだった。
傷が塞がった頃、ヴォルフは執務室のセラフィーナの前に、不器用な手つきで包みを置いた。
「……礼だ。傷の。それと、日頃の」
包みの中身は、冬狼の毛皮をあしらった外套だった。深い藍色の生地に、銀糸で小さく雪の結晶が刺してある。領都の仕立て屋と、お針子の女たちが総出で作ったのだという。
「あんたは自分の物を何も買わん。稼ぎは全部、種と薬に消える。だから……その、皆で決めた。北の冬は、王都の冬とは違う。それがないと、凍える」
「……まあ」
セラフィーナは外套を広げ、そっと頬を寄せた。王都で何十着と誂えた絹のドレスの、どれよりも。生まれてから贈られた宝石の、どれよりも。
「……温かい。こんなに温かい贈り物は、初めてですわ」
「大袈裟だ」
「大袈裟ではありません。――ねえ、閣下。わたくし、最近気づいたことがありますの。王都でのわたくしは、『エルヴァスティン公爵家のセラフィーナ』でした。婚約者としても、令嬢としても、いつも家名と役割が先で。でも、ここでは皆、わたくしを『姫さん』と呼びます。ただの、セラフィーナとして」
彼女は外套を羽織って、くるりと回ってみせた。
「似合いますこと?」
「…………ああ」
ヴォルフは一言だけ言って、窓の外に目を逸らした。逸らした先の窓硝子に、赤くなった自分の顔が映っていることには、気づいていなかった。
冬の盛り、グレンヴァルトには小さな祭りがある。一年で最も夜の長い日、広場に火を焚き、ありったけの薬酒と干し肉を持ち寄って、冬の神に「ここに生きている」と知らせる火祭りだ。
例年は沈みがちなその祭りが、この年は違った。蓄えは豊かで、病人は少なく、子供たちは覚えたての文字で願い札を書いて火に焼べた。輪舞の輪の中心で、セラフィーナは領民たちに手を引かれ、生まれて初めて、作法ではない踊りを踊った。
「姫さん、閣下と踊んな!」「そうだそうだ!」「閣下、ぼさっとすんな!」
「お、おい、貴様ら――」
囃し立てられ、押し出され、気づけば二人は火の前で向かい合っていた。楽師の弾く素朴な弦の音。ヴォルフの無骨な手が、恐る恐る差し出される。
「……踊れんぞ、俺は」
「奇遇ですわね。わたくしも、こういう踊りは習っておりませんの」
だから、二人でめちゃくちゃに踊った。足を踏み、踏まれ、領民の笑い声と手拍子に包まれて。火の粉が夜空に舞い上がり、星と見分けがつかなくなる。
その夜、セラフィーナは日記にたった一行だけ記した。
『今日、わたくしは生まれて初めて、心から笑った気がします』
冬が来て、「灰かぶり熱」が例年通り牙を剥いた。だが今年のグレンヴァルトは違った。煮沸された水、隔離された病人、備蓄された薬草。死者は、老衰の一人きり。マーゴは「五十年薬師をやって、こんな冬は初めてだ」と呆れ、領民たちはもう誰も、セラフィーナを「罪人」とは呼ばなかった。
彼らは彼女を、こう呼び始めていた。
――グレンヴァルトの、聖女さま。
「やめてくださいな。聖女というのは、王都の神殿が認定する特別な方のことですのよ」
セラフィーナは苦笑して否定した。本物の聖女とは、建国の聖女アウレリアのように、大結界を張って国を守るような存在のことだ。自分はただ、知識を使っただけの小娘に過ぎない。
――彼女は知らなかった。
自分の母方の血筋が、その建国の聖女アウレリアの直系であることを。
王都を三百年守り続けた大結界が、聖女の血を引く者の無自覚な祈りを「燃料」としていたことを。
そして自分が王都を去ってから、その結界が――音もなく、消滅していたことを。




