第二章 最果ての地、グレンヴァルト
北へ、北へ。街道は日を追うごとに細く、荒れていった。
護送を兼ねた御者は、口の重い老兵だった。最初の三日、彼は「罪人の姫君」と口を利こうともしなかった。だが四日目、宿場町で馬が蹄を傷めた時、荷台から降りてきた姫君が慣れた手つきで蹄を検分し、「釘の打ち方が浅いだけですわ。鍛冶屋はどちら?」と歩き出したあたりから、老兵の目つきは変わり始めた。
七日目には、彼は問わず語りに国の話をするようになっていた。
「……ここいらの村は、どこも若いもんが出ちまう。税は王都と変わらんのに、実入りは半分もねえ。橋が落ちても、直しに来るのは三年後だ。お偉方は、王都から一歩も出たことのねえ連中ばっかりですからな」
「……ええ。わたくしも、その一人でしたわ」
セラフィーナは窓の外を流れる痩せた村々を見つめた。帳簿の上では知っていた。地方の困窮も、税の偏りも、数字としては。だが、崩れた橋の袂で立ち尽くす老婆の姿は、どんな帳簿にも載っていなかった。
(王太子妃になって、いつか変えようと思っていた。……その「いつか」を待つ必要は、もうないのですわね)
追放とは、つまり自由のことだった。そう思い至った時、馬車の中で、セラフィーナは小さく笑った。
十二日目の夕暮れ、馬車は国境の山脈を望む高台に着いた。眼下に広がるのは、グレンヴァルト辺境領。セラフィーナは窓から身を乗り出し――言葉を失った。
ひび割れた大地。灰色に枯れた麦畑。屋根の抜けた家々。遠く西の地平には、墨を流したように黒い森が横たわっている。あれが「魔の森」。魔物の湧き出す、大陸の傷痕。
「……聞きしに勝る、ですわね」
だがその声に絶望の色はなかった。むしろ彼女の菫色の瞳は、帳簿の誤りを見つけた時のように、きらきらと輝き始めていた。
(土は黒い。痩せているのではなく、水が通っていないだけ。あの涸れ川――上流で何かが水を堰き止めている? 家々の造りは頑丈、つまり職人はいる。問題は資金と、人手と、それから――)
「着いたぞ。降りろ」
無愛想な声に顔を上げると、領主館――というより砦と呼ぶべき無骨な石造りの建物の前に、一人の偉丈夫が立っていた。
歳は二十代半ば。夜色の黒髪に、狼を思わせる鋭い金の瞳。上等とは言い難い軍服の上からでも分かる、鍛え抜かれた体躯。左の頬から首筋にかけて、古い爪痕が走っている。
ヴォルフガング・ラインハルト辺境伯。魔の森の魔物を十年間食い止め続けてきた、「北の軍狼」その人だった。
「王都から書状は受け取っている。罪人を一名預かれ、とな」
「セラフィーナ・エルヴァスティンと申します。この度は――」
「先に言っておく」
ヴォルフはセラフィーナの完璧な淑女の礼を遮った。
「ここには貴族の暮らしはない。侍女もいない。舞踏会もない。あるのは魔物と、飢えと、冬だけだ。王都の姫君に構ってやる余裕は、俺にも領民にもない。飯は出す。寝床も貸す。だがそれ以上は期待するな」
取り付く島もない物言い。しかしセラフィーナは、その言葉の中に奇妙な誠実さを聞き取っていた。飯は出す。寝床も貸す。――罪人として送られてきた小娘に、この人は最初にそれを約束したのだ。
「十分ですわ。では、わたくしからも一つだけ」
彼女は顔を上げ、にっこりと笑った。
「働かせてくださいませ。わたくし、読み書き計算と、領地経営が特技ですの」
「……は?」
北の軍狼が、間の抜けた声を出した。
その晩、セラフィーナは砦の大食堂に案内された。長卓に着くのは領主も騎士も従卒も一緒くた。出されたのは、薄い麦粥と、硬い黒パンと、干し肉の欠片が数える程浮いたスープだった。
給仕の女が、挑むような目でセラフィーナを見た。王都の姫君が顔をしかめるのを、皆がどこかで待っていた。飢えに慣れたこの土地の食事を、嗤われるのを。
セラフィーナは背筋を伸ばし、木の匙を取り、一口食べて――ほう、と息をついた。
「……美味しい。この干し肉、燻製に山胡桃の殻を使っていますでしょう? それにこのパン、噛むほど甘い。粉に何を?」
「……っ、ど、どんぐりの粉を三割……小麦が足りねえから……」
「三割も入れてこの味に? すごい技術だわ。ねえ、その配合、詳しく教えてくださらない? どんぐりの澱粉で嵩を増せるなら、冬の備蓄計画がまるごと変わりますもの」
食堂が、しんとなった。嘲笑を堪える沈黙ではない。毒気を抜かれた沈黙だった。やがて竈の方から、料理番の大男がのっそり現れて、ぶっきらぼうに言った。
「……おかわり、いるか。姫さん」
「ぜひ!」
それが、セラフィーナがこの地で「姫さん」と呼ばれた、最初の夜だった。
翌朝、ヴォルフが目にしたのは、動きやすい木綿のワンピースに着替え、髪を無造作に束ねて、埃まみれの執務室の書類の山と格闘する公爵令嬢の姿だった。
「おい、何をしている」
「おはようございます、閣下。勝手ながら、過去五年分の徴税記録と穀物の収支を整理しておりました。……単刀直入に申し上げますわ。この領、あと二年で破産いたします」
「…………知っている」
「ですが、打つ手はございます」
セラフィーナは机の上に、一晩で書き上げた計画書を広げた。几帳面な文字がびっしりと並ぶそれを、ヴォルフは疑わしげに覗き込み――そして、目を見開いた。
「まず水です。東の涸れ川、上流の岩盤崩落で流れが変わっているだけと推測します。工兵の方を三名お借りできれば、二週間で用水路として復旧できるはず。次に畑。この土は火山灰性で、石灰を混ぜれば十分に麦が育ちます。石灰は北の山でいくらでも採れますわね? それから冬までの食糧ですが、魔の森の外縁に自生しているガロの芋――あれは正しく灰汁を抜けば主食になります。王都の書物で読みました。それから、それから――」
「待て。待て待て待て」
ヴォルフは額を押さえた。
「あんた……本当に、あの『我儘で傲慢な悪役令嬢』か? 王都の書状にはそう書いてあったが」
「あら」
セラフィーナは羽根ペンをくるりと回して、悪戯っぽく微笑んだ。
「書状の内容と実物が違うことなんて、よくありますでしょう? たとえば――『北の軍狼は血も涙もない蛮族』という噂と、初対面の罪人に真っ先に食事と寝床を約束してくださる辺境伯さま、みたいに」
「……っ、勝手にしろ!」
ヴォルフは踵を返した。その耳が僅かに赤いことに、セラフィーナは気づかないふりをした。




